晶の節・兀座 其之参『瘴雨──あるいは哀しき御祓』
瘴雨──あるいは哀しき御祓
Side Yui & Syuri
真夜中の追跡劇は、街なかから山間道へと舞台を移していた。
(やばい、かも……!)
女の子とはいえ、人ひとりを背負いながら長々距離を全力疾走するのは、さすがの維にも堪える。そして追跡者達の気配は後ろからぐいぐい迫っている。孤月が放った自分達の幻影も効果を失って久しい。
このままだとレースはバッドエンドで終劇。いちど何処かに身を隠すか──無理だ。気配を断てない朱璃がいるのでは意味がない。
朱璃を囮にするかして、また不意打ちする──そんな二匹目のドジョウが狙える相手でもない。
脳内に錯綜する思考が酸素をさらに消耗させ、維の体力を蝕む。だが「朱璃をほうり出す」と「朱璃だけを行かせる」の二択は、ついに思い浮かばなかった。
「あッ⁈」
ついに維の足が止まった──否、止めさせられた。いま走っていた姿勢のまま、足だけが時を止められたかのように。
「あうッ⁈ ……維さん⁈」
急停止の衝撃に、朱璃も小さな悲鳴を上げる。
「もう諦めるんだ」
背後からハウザーの声がする。まだ距離は五〇メートル以上も開いていて、フォックストロットの気配も彼の隣にある。
念動力による物体掌握──その力の出所を維は知っている。これだから、彼を敵に回すと厄介なのだ。
「放してよハウザー。連れて帰ったって、また逃げるわよ」
《超力星》の二つ名が指すのは筋力だけではない。彼は念動力者、つまり超能力者でもあるのだ。
「そのとき、また捕まえる。ラムダ、ふたりを拘束して」
「わかった」
フォックストロットの足音が近づいてくる。ラムダ……そう、たしかそういう名前だった(本名ではないだろうが)。
「うぁ……!」
と、そのラムダが低く呻いて、足を止めた。
「どうし──?」
ハウザーも言葉を切った。息を止めたらしい。
力の集中が切れたのか、維の身体が自由を取り戻す。
(なに──?)
訝しむ暇はなかった。
場の膠着を狙ったように、ハウザー達のさらに後ろから、エンジン音もなく、一台の車が突っ込んできたのだ。しかもこの暗闇で無灯火ときている。
「乗って!」
桔梗のふたりを華麗に避けた車体からその声が聞こえた瞬間、維は朱璃を横抱きにして跳んだ。まったく減速してくれないオープンカーの後部座席へと、見事に着地する。
「ナイス! しばらく伏せてなさい!」
「香音さん!」
言われたとおり身を縮めながらも、意外な援軍に維は思わず声を上げる。
藐都香音──衆の元闘者で、維にとっては呪殺事件の折に秘技を授けてくれた師匠格でもある。
「え、じゃぁあの──いやぁぁー!」
フルフェイスで籠もった朱璃の悲鳴が山間にこだまする。車は連続カーブをノーブレーキで駆け抜けていた。
「はい、朱璃ちゃんは締めといて。メットは脱いじゃ駄目。バイザーも下ろしたままね」
「あなたが朱璃さん? はじめまして。よろしくね」
「あ──ひっ」
維にシートベルトを着けてもらったものの、朱璃には返事も出来ない。真夜中の峠を無灯火で法定速度超過。シートベルト未着用。事故を起こしていないだけの道交法違反づくしだ。電気自動車なのかエンジン音もしないため、風を切る音がほぼダイレクトに耳をかすめてゆく。
「あれ? そういや旦那は?」
この状況で平然と会話できる神経が朱璃には信じられない──今に始まったことではないが。
「ただいま」
すとんっ、と助手席に真上から人影が収まった。
その声音と、風に乗って鼻をかすめた体香に、朱璃は甘美な目眩と動機を覚える。
香音の夫、上級色妖・藐都イルマだ。その顔は覆面に包まれていて、朱璃からは窺い知れない。それが幸運であると同時に口惜しくも思えた。
以前、彼の美貌を目にしたときには、遠目にもかかわらず放心するほどの魅了状態に陥ってしまった。そのときの素顔が今も脳裏にさまざまと甦って、胸も腹も苦しいくらいにギュッと締まる。
「足止めは出来たはずだよ」
「何したの?」
「幻覚作用のある香りをぶつけた」
藐都は匂いを操れるというが、それを限られた空間に投げることも出来るようだ。さきほど桔梗達が息を詰まらせたのはそのせいか。
「ハウザーに効くかしら」
「一分と保たないかもね。けど、部下の方には手応えがあった。《超力星・蓬座》は仲間思いって聞いてるけど、さぁどうするかな」
「……多分、彼女の安全を優先するわ」
「よく分かるね。もしかして元カレ?」
「まぁね」
ただでさえクラクラしている朱璃の意識に、さらにショッキングな事実が舞い込んでくる。たしかに支部でのふたりの遣り取りからは、因縁めいた距離の近さのようなものが感じられた。まさかその理由がこれとは。
「ごめん、冗談のつもりだったんだ」
「いいのよ。珍しく円満な別れだったから、遺恨とかもないし」
「そう。ところで部下の方は……チャクラメイトのときの子だね」
「え?」と驚く朱璃に対し、維は「うん」と軽くうなずきながら、一瞬見えた彼女の顔を思い出した。
髪を短く刈られ、顔に赤い手術痕を走らせているが、間違いなかった。チャクラメイト事件の捜査中に衆が雇ったフリーの対妖業者だ。天風鳴夜によって四肢を奪われたうえに、陵辱と肉体改造で身も心もボロボロにされた。最後は顕醒によって救出され、医療班の治療を受けたが、その後の話は聞いていない。
桔梗に入っていたこともそうだが、SFじみた機械義肢技術が実用化されていて、それを彼女が得ていたことも驚きだ。
「そんで、なんであんなタイミングよく助けてくれたの?」
ラムダの話を保留して、維は訊ねた。
「ボクらにも妙な話でね。この時間、この場所で、きみ達を助けてほしいって……今朝、投書があった」
突拍子もない答えに、維も朱璃も反応を返せなかった。
「差出人は不明。匂いや筆跡で辿ろうとしたけど無理だった」
「よく信じたわね」
「半信半疑。だから車も隠して様子見してたら……ってわけ」
「そう。とにかく、ありがとね」
「ありがとうございます」
不可解ではあるが、ふたりは素直に礼を述べた。
「それで、どこまで乗っけてってくれるのかしら?」
「あなた達の目的地まで」香音が言った「って言いたいけど、場所が場所だし、途中からはまた走ってもらったほうがずっと早いわね」
「アタシらの目的地?」
「第三区支部の五番山房でしょ? 例の手紙にそうあったのだけど……?」
維と朱璃は顔を見合わせた。
「どこまでも妙だね。じゃ、これも知らない?」
「知らない」
機先を制した維に「フム」と唸って、イルマは続けた。
「末尾に、添えるように書かれてたんだ──『顗は生きてる』って。たしか、キミのお兄さんだよね」
維達が逃げ去ったあとの山間道では、ラムダが悲痛な叫び声を上げていた。
「ああ、チクショウ……! ちくしょ……ッ、お前ら全員、ブッコロス……!」
金属の拳をこめかみに捻じあててのたうつ。イルマの幻覚香は効果てきめんだった。彼女の脳は、在りし日の忌まわしい記憶を追体験しているのだ。
「ラムダ。大丈夫、まぼろしだ。もう全部終わった。今のお前は桔梗のなかまだ。絶対に負けない」
早くも香力から脱したハウザーが冷静さを取り戻させようと声を掛ける。
「うるせぇ、うるせぇ! るッせぇよ! 黙れ黙れぇぇぇあああああッ!」
だが隊長の説得も功を奏さず、ついには拳で頭をガンガンと叩きはじめた。
「……しかたない。許してくれ」
苦々しく目を伏せ、ハウザーは部下のベルトから小さな乾電池のようなものを抜き取った。先端を彼女のうなじにあて、底部のスイッチを押し込む。
プシっと空気の抜けるような音が管から上がるや、ラムダの体が力を失った。
ぐったりとした部下の脈を確かめながら、ハウザーは片手で端末を取り出し、通話を架けた。
「すみません、フォールウィンター。見失いました」
架電の先は支部の霊祇だった。
「ええ、協力者がいました。藐都です。フォックストロットが混乱して、鎮静剤を使いました。はい、わかりました。ではそのまま向かいます」
通話を切り、ラムダをひょいと肩に担ぐ。
そして、維達と同じ方角へと走り出した。
山のなかは虫の声と、風に揺れる枝葉、そして近くの川を流れる水音に包まれて蕭々としている。自分以外に人の気配はない。動くとあぶないと言われたが、ただの脅しだったのだろう。
いま凰鵡は山頂を目指している。オメガと再戦しようにも、自分とオメガとの位置関係が分からない。
どの方角から自分が飛んできたのかくらい訊けばよかった、と若干悔やみつつも、いまとなっては鳴夜は彼方に消え、戻ろうにも意地がそれを許さない。
「──え!」
突然、右側の闇から伸びてきた鍵縄に、腕を絡め捕られた。なにが、と思った途端には、左腕も同じ目に合う。
「ああ……ッ⁈」
左右の縄がビンッと張りつめ、凰鵡は両腕を開いた姿で磔にされた。
「こいつだな」
「まちがいない」
顔を隠したふたりの男が目の前に現れる。
「あなた達は──うゎァッ⁈」
問うより早く、左右の縄が生きているかのように体に巻き付き、自由を奪った。
「ガキが。楽勝じゃねぇか」
「だが、とんでもない霊力を隠してるって話だ」
混乱しながらも、凰鵡は彼らの正体をおおよそ察した。衆とは別の対妖組織の人間だ。だがなぜ自分の身柄を狙っているのかが、分からない。
「どういうことです。なんのために──う」
土の上に押し倒された。
「どういうことも何も、最初ッからテメェの仕業だろうが」
「いや、アレを殺るのに、こいつの霊力を使うとオレは聞いた。ま、どっちでもいいがな。そういや男でも女でもあるとも聞いたな。一応、確かめておくか」
そういうや、片方の男がやにわに凰鵡の胸と股を鷲掴みにした。
「やめ……ッ、いや──」
とつぜんの辱めに、凰鵡は堅く目を瞑ってしまう。
「ホントだ──うぉあ」
「あ⁈ ぎゃぁ、ああああ」
男達の嘲笑が一瞬で悲鳴に変わって、消えた。
凰鵡が目を開けると、ふたりがいた場所には、こんもりとした土山が出来ていた。
否──数千もの蟲の群れだった。
「だから言ったでしょ」
縄が斬られた。銀髪の毛先をメスのように握った鳴夜が、こちらに微笑を向けていた。
「お前、何を知ってるんだ⁈」
蟲山から後退りしつつ問う。その体も声も、自分で分かるくらい震えている。
「うーん、私も又聞きばかりで確約できませんが──」
顎に手を当て、気取ったような姿勢で鳴夜は答える。
「オメガの姿が、けっこう色んな組織に見られていたようでしてね。あなたを知っている所から情報が流れたんです──ああ、衆じゃないですよ。まぁ当然、両者の関係が疑われますよね。そうするといくつかの集団──とくに衆にいい印象を持っていない所なんかは、いろいろ酷いことも考えるわけです。あなたを殺せばオメガも消えるとか、あなたから力を奪えばオメガを倒せるとか、捕まえて研究すべきとか──」
「もういい!」
凰鵡は怒号で遮った。もう聞きたくなかった。何を考えればいいか分からなかった。ただ哀しくて、虚しくて、怖くて、寂しかった。なぜ、オメガを倒そうとした自分が、こんな仕打ちを受けねばならないのだ。
オメガとは一体何なのだ。なぜ自分と同じ姿をしていたのだ。
(誰か……教えてください。誰か……)
なぜこんなことになった。なぜ夢など見た。
なぜ闘者になった。なぜ兄に憧れなどした。
なぜ…………なぜ、自分は生まれたのだろう。どこから? だれから? いつ?
そして、凰鵡の思考回路はひとつの恐るべき仮説に辿り着く。
自分とオメガは……同じ存在なのか。
「声がしたぞー!」
闇の向こうから新たな声と、何人ぶんもの気配がする。
「目標だ! 囲い込め!」「他のヤツらに渡すな」
「う、あ……!」
恐怖に震えながら、凰鵡は山肌を駆け上がった。
「うがッ⁈」「がぁぁ!」「な、なぜ、あまっつ……!」
背後でつぎつぎに悲鳴が上がる。捕獲者達が天風鳴夜に返り討ちにされているのだろう。いまの凰鵡に、彼らの命を惜しむ余裕はない。頂上を目指している理由も忘れて、押し寄せる悪意からひたすらに逃げた。
木立の斜面は岩峰に替わり、とき同じくして山上に掛かる暗雲がにわかに雨を注ぎはじめた。遮るものもない山肌で、凰鵡はたちまちずぶ濡れになった。岩に足をすべらせ、体を打ち付ける。それでも走った。轟々たる雨音で消えるのを幸いに叫び散らした。涙はとめどなく溢れた。
(もういやだ……疲れた……)
何度目かの転倒で、凰鵡は立ち上がる気力を失った。恐慌と自暴自棄から、衣の中に失禁さえしていた。
つらかった。寂しくて、痛くて、それなのにすべてが嘘のように虚しくて……そして何よりも、自分が怖かった。
(ボクは……誰なの? お母さん……お父さん)
これまでずっと気にしてこなかった自らの出自が重くのし掛かる。
違う。気にしなかったのではなく、誤魔化してこられたのだ。父のような兄、零子と維というふたりの母。そして家族のような、第一区支部のみんなのおかげで。
「凰鵡」
ハッ、と、凰鵡は懊悩の渦から現に戻り、顔を上げた。
どしゃ降りの雨のなか、黒服の影が、坂の上に佇んでいる。
「にいさん……」
放心していた凰鵡のなかに、一気に感情が甦り、涙が勢いを増した。
兄の無事と、再会できたことへの喜びだけではない。その胸中には確かに、彼への猜疑と、憤りがあった。
「おや顕醒。しばらくぶりで」
下から、鳴夜がゆったりと登ってくる。自分達と同じ雨に打たれているはずが、その髪と裾のゆらめきは、濡れているもののそれとは思えない。幻影でも視ているのだろうか。
が、艶然たる唇の間からは何本もの細糸が伸び、その先端はめいめいに男女の首をぶら下げていた。
「ああ、これですか。露払いついでの手土産、と言ったところでしょうか──もちろん、私へのですが」
凰鵡の視線に気付くと、鳴夜は説明しながら糸を束ねて片手に提げてみせる。生首達がぶつかり合って、かすかな悲鳴を上げた(ように凰鵡には聞こえた)。
死者を冒涜する許しがたい行為だ。が、今の凰鵡には、何も言えなかった。
「弟が世話になった」
鳴夜が意外そうに眉を上げた。が、すぐに降ろして、ふふ、と微笑む。
「いえいえ。では、私はこれにて。ご縁があれば、また」
そう言い残すや、鳴夜は雨に溶けるように、数千の蟲となって消えた──どういうわけか、提げられた首も一緒に分裂した。
「いいんですか……?」
兄の行為に凰鵡は目を円くする。助けてくれたのは事実といえ、あの天風鳴夜をみすみす逃がすなど、初めてのことではないだろうか。
「走れるか?」
「え? ……はい」
濡れそぼつ顔面から涙を拭って、凰鵡は立ち上がった。
「こっちだ」
弟がしっかりと自分の足で立つのを確認して、顕醒は走り出した。
視界を曇らせるノイズのような雨で兄の背中を見失わぬよう、凰鵡も懸命に追いかけた。
「すみません。運転させ通しで……」
助手席から降りた巍狼は大きな欠伸をし、眼鏡の下から指を入れて涙を拭った。
「あ、やってしまった。マスカラ……」
「たいへんだな」
運転席から出た翔は、苦笑しながらロックを掛けた。
「お前のぶんも飯買っとくから、直してこいよ」
「すみません、すぐ終わらせますから」
といって、巍狼はトイレへと向かった。
第三区支部まではもう少しある。ここは高速最後のパーキングエリア。二四時間営業のコンビニが併設されているのは僥倖だった。
あとひと息とはいえ、ふたりとも眠気と、深夜特有の空腹に襲われていた。ここで飲食物を手に入れてラストスパートを掛けようという算段だった。
「あんちゃん、お金ある?」
翔は驚き、常夜灯の及ばぬコンビニの陰に顔を巡らせた。
「財布忘れちまった。また、なんか馳走してくれんか?」
髪と服を湿らせた真嗚が、その影のなかで困った笑みを浮かべていた。