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輝の節・漂落 其之参『挫衄──あるいは虚しき栄耀』

挫衄ざじく──あるいは虚しき栄耀えいよう



     Side Syuri & Others


 真嗚の言った〝代行〟が第一区支部に現れたのは、三人が発ってからわずか十数分後のことだった。

 そのとき、朱璃と維はまだラウンジにいて、外の景色を見るともなしに眺めていた。

 窓から見える街の様子はいつもと変わらない。だが《光》による破壊は現地のみならず、世界全体を確実に揺るがせていた。

 二元論よって《光》は善であると説いていた論者らのほとんどは沈黙のうちに壇を去るか、被災地域とその住民を悪と定めることでみずからの立場を保ち続けた。

 ──日本という悪の国を罰するために神が硫黄の火を放たれたのだ。他国の新兵器に違いない。いや地球外からの侵略だ。放射能が生んだ突然変異生命体だ。人類が破壊した大自然からの復讐だ。

 神秘主義、自然主義、疑似科学論、陰謀論……自己に直向ひたむき過ぎるがゆえに誰か(あるいは何か)を〝敵〟と見なさずにはいられない排他性にとって、《光》はその〝敵〟を糾弾するための格好の材料となった。己の描く世界観に《光》の正体と力を当てめ、勧善懲悪で塗り固められた猜疑と怨恨があらゆる情報媒体を席捲せっけんした──被災者への哀悼すら足蹴にしながら。

 こうした攻撃的な論調は、とうぜんのごとく日本政府の対応にも浴びせられた。

 ──ただちに自衛隊を派遣してアレを破壊すべきだ。正体も分からないのに無闇に攻撃すべきではない。なら米駐留軍に探らせればいい。いや米国の実験かもしれない。いや中国の侵略に違いない。

 こうしたデマに乗せられて、すでに外国人に対する暴力行為が何件か発生していた。《光》は天使だと断言して譲らない者達の一部は「神の意志に従え」と声を揃えて練り歩いた。《光》に消されれば罪が清められると信じて現地の封鎖網を突破しようとした者もいた。世界の終わりが来たという確信に手を引かれてみずから命を絶った者もいた。

 みんな怖いのだ。朱璃は漠然とそう感じて、途中から、世の動向を探ることをやめた。

 彼らの行為は決して肯定できない。だがそうなってしまうのは、分からなくもない。恐怖に耐えられないとき、人は何かしらの暴力によってそれを制圧するか、恐怖の対象におもねることでしか、自己を保てない。そのどれもが通用しないと悟ったときは、絶望し、逃避する。

 自分は、どうするべきなのだろう。


「ほんとに、よかったんでしょうか?」


 独り言のように問う朱璃の声には、若干のけんが籠められていた。


「判らない。ひょっとしたら、すごく後悔するかも」


 《光》による惨状の詳細は(文面ではあるものの)衆の全員に共有されていた。調査に参加していた第三区支部メンバーの安否は、まだ確認されていない。


「なら維さんは、なんであんなことを……」


 朱璃が言う〝あんなこと〟とは倶利伽羅竜王のことだ。凰鵡に自信を取り戻させたようでいて、あれでは焚きつけた(、、、、、)も同然だ。


「そうね。バカだと思う」


 維はカップに入ったソーダを一気に飲み干した。朱璃もアイスティーで同じことをする。さっきからふたりして自販機とスツールを往復しては、空のカップをテーブルに重ねていた。


「でもあの子、必死だった。もとから真面目な子だけど、あそこまで真剣な顔、見たことなかった」


 額に指をあてた維の声が潤んでいるのに、朱璃は気付く。


「いつもどっかで甘えてたのよ。顕醒が助けてくれる。アタシや、朱璃ちゃんや翔が一緒にいてくれる、って。それをやっと振り切ろうとしてたのに……どんな形でも。なんで今さら。あんなのって無いわよ」

「不動の、ことですか? 維さんも知らなかったんですよね?」

「顕醒の奴……いつも何も言わないけど、今度ばっかはアタシにも意味が分からない。本気で殴ってやりたかった」


 維の憤りが如何ほどのものか、朱璃には想像が及ばない。悔しいが、自分より何倍もの時間を彼らと共に生きてきたのだ。


「でも……こうなった以上、凰鵡が自分で勝ち筋を見つけるしかないの。誰かに指図されたり、従うんじゃなくて、死に物狂いでも、自分で見つけなきゃいけないの。そういう時が来たんだと思う」


 維の両手が頭を抱えるように、ますます深く顔を覆ってゆく。


「今度のことじゃ、アタシには何も出来ない。悔しいけど、何も……だから、せめて背中を押すくらいしか」


 深い懊悩を露わにするその姿に、朱璃は何も言い返せなかった。凰鵡に対して何もしてあげられないのは自分も同じだが、維はもっとつらいだろう。凰鵡は弟であると同時に我が子のようなもの、と彼女の口から聞いたことがある。彼が弱っているのなら守ってあげたい、と思うのは当然だ。

 ゆえに維は葛藤しているのだろう──凰鵡を独り立ちさせねば、という責任によって。


「…………うっそでしょ!」


 不意に、維が目を剥いて叫んだ。

 視線を追って朱璃も窓の外を見れば、正門に四人の来訪者がいた。スーツ姿の中年男を筆頭に、思い思いの私服に身を包んだ男女が三人。私服勢のひとりは大巨漢だ。二メートルを超えていると、遠目にも分かる。


「あの人……」


 スーツの男に、朱璃は覚えがあった。呪殺事件の終盤、呪者達の襲撃を見越して真嗚が喚んだ他支部の闘者だ。そういえば名前はまだ聞いていない。


「代わりって……爺さま、よりによってぇ──!」


 慌ただしく、そして苛立たしげに、維は席から立ち上がる。


「あの人達が代行なんですか?」

「え、朱璃ちゃん知らな……いや、落ち着いて、よく聴いてね」


 両手を朱璃の肩に置いて、維は深呼吸する。落ち着け、という側が必死に落ち着こうとしている。


「アタシら、衆の……ボスのこと、聞いたことある?」


 ええ、と朱璃はうなずく。

 名は《霊祇りょうぎ》──数ある対妖組織のなかでも他種他流が入り乱れていることで知られる混成集団の《衆》をまとめ上げる、異能の統率者だと聞いている。支部単位での独立性が高い組織内で名を聞くことはあまりないが、《衆統しゅうとう》の通称で《智七山》の第一位に序せられている事実がその手腕と名声を物語っている。


「それが、あのスーツのオッチャン」


 ええ、という朱璃の悲鳴は、声にならなかった。青天の霹靂を寝耳に注ぎ込まれたようだった。思考回路がパンクするのも無理はない。

 前回会ったときには、ほとんど真嗚に顎で使われていたうえに、事が済んだあとにも「お疲れさまでした」という挨拶と笑みだけを残して帰っていった──それこそ出張に来て、ひと仕事終えるや即座に帰ってゆくサラリーマンのように。

 そして、パニック寸前の朱璃の頭に、追い打ちが掛けられた。


「それから残りの連中……あれが《桔梗ききょう》よ」


 その名にこそ、朱璃は息を詰まらせた。視界がぼやけ、意識が遠のく。


「じゃぁ、あのおっきな人が……」

「そう。あれがハウザー」


 長老座直属部隊|《桔梗》のリーダーにして、斗七山のひとり《超力星ちょうりきせい蓬座ハウザー》──米国生まれながら日本に帰化し、実力と忠誠心を買われて直属部隊を任されるまでになったという稀有な経歴の持ち主である。

 だが朱璃にとっては〝もっとも会いたくない闘者〟であった。

 《邪願塔事件》の記録によれば「布留部妃乃ふるべひめのを消滅させてでも呪具を奪還すべし」という長老会議の決のもと、その実行役として出動寸前にあったのが《桔梗》である。結果的には部隊の出動前に、妃乃は凰鵡達の手で救出され、いまは朱璃として新たな生を送っている。だが何かが少し違えば、彼らの手で消し去られていたかもしれないのだ。

 衆統、桔梗、斗七山──いずれも頼もしい味方のはずが、朱璃の心には不安という名の暗雲が渦を巻くばかりだった。



 第一区支部のなかには、事務所とは別に、大勢での報告会やブリーフィングを行うための会議室もある。そこにいま、警備部や情報部、医療班や霊科班など諸部門の代表達が集められていた。


「最悪とまではゆかないにしても、想定していたなかでは、かなり悪い状況になってしまいました」


 丁寧だが、あまり感情の見えない口調で衆統・霊祇りょうぎは述べた。

 背にした壁面スクリーンには、紙に鉛筆で描かれたスケッチ画が映し出されている。何もかもが消え去った大地と、空に浮かぶ《光》だ。写真は不鮮明、念写は危険とあって、視覚的情報の伝達には、いまや〝写生〟というアナクロな手段が用いられていた。


「麻霧支部長については」タヌキ先生が発言した「私の落ち度です。そばに着いていながら……言い訳のしようも無い」


 憔悴しょうすいしきった姿に、いつものほがらかさは微塵もない。その心情を察してか、議場から彼を責める声は上がらなかった。


「いえ」霊祇が反論した「最大の責任は、長老座やあなた方からの諫言かんげんがあったにもかかわらず、それらを無視した彼女本人にあると言うべきでしょう」


 残念だ、とばかりに霊祇は目をつむるって首を振る。


「それで──」



 こんどは紫藤が発言した。その眼は、今にも銀光を走らせんばかりに鋭い。


「──本部は今後、オメガに対してどう対処される方針なのです?」

「それについて論ずる前に…………」


 紫藤の気迫を真っ向から撥ね返しているのか、それとも受け流しているのか、霊祇は各代表ひとりひとりと眼を合わせてから、訊ねた。


「……あれを《オメガ》と最初に呼んだという凰鵡捜査員は何処です? 顕醒捜査員もいないようですが」


 沈黙が場を支配した。代表達も互いに顔を見合わせる。


「まさか、誰もご存知でない?」


 得体の知れない緊張が室内に張りつめた、そのときだった。


「アルファからフォールウィンター。アルファからフォールウィンター」


 霊祇の胸ポケットに収まるトランシーバーが声を発した。送話者の〝アルファ〟は《桔梗》のリーダー、つまりハウザーだ。そして〝フォールウィンター〟とは霊祇を指す。衆統を「秋冬」と書き換えて英語にした、どこか気の抜ける暗号名だ。


「こちらフォールウィンター。どうしました?」

「保護対象の凰鵡捜査員が、支部内にいません。顕醒捜査員もです」


 会議室にいた全員が眉を顰め、顔を見合わせる。事実、彼らの誰ひとりとして、顕醒達が出てゆく姿を見ていなかった。独行の多い顕醒はともかくとして、凰鵡まで逐電したというのは、本人の性格上、考えられないことである。


「いま、チャーリーが外に出た形跡を調査中です。しかし維捜査員と、朱璃補佐員から証言が得られました。不動翁がふたりを連れていったそうです。少し前に。オメガの所に行くと言っていたそうです」

「やはり、あの方ですか。また勝手な…………」


 霊祇が深々とした溜息を吐く。

 代表達の反応も「まさか」より「やっぱり」が勝った。


「それから、エコーからも報告がありました。李巍狼が大鳥翔訓練生に接触して、行動を共にしています」

「大鳥さんのご子息に?」


 霊祇の眼が紫藤に向く。

 が、紫藤は眉根を顰め、首をかしげただけだった。


「解りました。第一区支部のメンバーはこれ以上、外に出さないように。支部外にいる関係者も可能な限り集結させてください」

「なんですって⁈」


 誰からともなく声が上がる。色めき立つ会議室の最奥にまでよく聞こえるよう、霊祇はあらためて通告した。


「追って別命あるまで、第一区支部員の出入りを、何人たりとも禁じます」


 それは第一区支部の、事実上の封鎖だった。



 ある一線を境に、世界が変わってしまったかのようだった。

 オメガによって壊滅させられた地上には木も家も、人も動物も、その欠片すら残っていない。あるのはただ擂鉢すりばち状にえぐられ、剥き出しにされた大地のみである。

 河川や上下水道がその底に流れ込んで、はやくも濁った池を作っている。下流のほとんどは渇水していた。

 丘陵や山々も切断されて、絶壁となった多くはそのまま崩落したが、なかには断層を露わにしたまま踏みとどまっている峰もある。

 そんな切り岸のひとつに、怪僧はたたずんでいた。

 覆面に隠された表情はようとしてうかがえぬが、その顔は正面の空を──いまだ上空に輝くオメガを──真っ直ぐにあおいでいる。


「今回は、私がたずねる側ですね」


 怪僧の背後に、白装束の美丈夫が立つ。


「あなたは、アレをご存知なのですか? 遊行者さん(ピルグリム)?」


 天風鳴夜の問いは黙殺された。


「あなたの行動は、私からしても不可解すぎる。しかし何か、大きな意志のもとに動いていらっしゃる……そんな気がします。何のため、というよりは……誰かのために、でしょうか?」


 好き勝手な勘ぐりを背に浴びせられても、雲水は微動だにしない。はなから聞こえていないのかもしれない。


「まったく、顕醒よりも無愛想な方だ。馬の耳に念仏か、はたまた釈迦に説法か……」


 鳴夜が視線をチラリと背後にやる。

 木々のあいだから、幾人もの人影が現れた。


「天風鳴夜だな。ここで何をしている⁈」


 被害を免れた、あるいは行方不明者の捜索に来た対妖者達である。


「なにも。ただ知人とお話しを」

「う、雲水──⁈」


 誰かが怪僧の存在に気付き、場が騒然とする。


「これはこれは、私よりも恐れられているようで。ちょっと嫉妬しますね」


 ふふ、と微笑んで、天風鳴夜は長い髪を掻きあげた。


「いえ。はやって事を荒立てるのはやめましょう。私は消えます」


 と言うや否や、バッと幾千もの蟲に分裂して大地に潜り込んだ。


「待ッ──⁈」


 追跡を試みた対妖者達だったが、その足は一瞬で止まった。

 雲水が振り向いていた。反転した瞬間は、誰にも見えていなかった。錫杖しゃくじょう遊環ゆかんすら無音のままだ。

 そして全員の意識は、まるで操られるように、その右手へと吸い込まれた。

 そばの茂みを差し示す、指先へと────

 がしゃん──遊環の音が響いた。


「えッ⁈」


 全員がハッと気付いたときには、雲水の姿はなかった。


「誰か倒れてるぞ!」


 茂みの裏を覗いた者が声を上げた。断崖が崩れる危険も顧みず、ぞろぞろと皆で群がる。


「ひでぇ!」「アレに巻き込まれたのか?」「まだ息がある!」「医者はいるか⁈」「俺だ!」「血は止まっているぞ!」「けど、なんで──⁈」


 叫声が飛び交う。やがて誰かが、倒れている男の名を呼んだ。


「顗ッ!」



 朱璃の心の暗雲はやや晴れたものの、渦のほうは勢いを増しつつあった。


「だーかーらー! なんでアタシらまで外に出ちゃ駄目なのよ! 逃げるとでも思って⁈ 仲間が信用できないっての⁈」

「ノー、ノー。維、おちついて。誰も思ってない、そんなこと」


 支部の封鎖に激怒する維の八つ当たりで、《超力星・蓬座》がタジタジになっているのだ。

 ヨーロピアンな深彫りの面長に、アフリカ系の肌色と縮れ髪。白人と黒人の両親を持つバイレイシャルだという。だが彼の最大の特徴は、顕醒を軽く超える二一〇センチの長身に、顗をも上回る筋肉の厚みだ。

 だが、そんな偉容を感じさせないほどの〝気は優しくて力持ち〟を地で行くタイプらしい。態度も口調も柔らかく、朱璃に対しても丁寧で、顕醒よりもずっと話しやすいとさえ感じてしまった。いまも格下の維を決して抑え付けようとせず、なんとかなだめようと必死な様子だ。そのせいか他の桔梗隊員達からは、どこか白い目で見られている。


「……維さん……なにもあそこまで」


 数分後、ようやくハウザーを解放した維を自室に案内してから、朱璃は気の毒そうに苦言を呈した(むろんハウザーの方が、である)。さっきまで彼を怖がっていた自分は何処へやらだ。


「皆さんも、衆統の支持に従っておられるわけですし……」 

「連中、凰鵡が目的だったみたいだけど、なんでいないのにここを封鎖したのかしら」


 朱璃の説教など馬耳東風とばかりに、維は独り言のように疑念を漏らした。


「……私達が凰鵡くんを追いかけるのを、防ぐためでしょうか?」

「それか、アタシらを人質にして凰鵡を呼び戻すか」

「そんな……!」


 朱璃にはにわかには信じがたい。こんな状況で、なぜ味方同士で争わねばならないのだ。


「部長か班長クラスはいろいろ聞けたらしいけど、アタシらじゃねぇ……」


 上級闘者と呼ばれる維だが、捜査員としての地位はじつのところ、あまり高くない。


「あー、まだるっこい! こういうモヤモヤしたのって大っ嫌い。アタシも一緒に行きゃぁよかったァァ!」


 頭を搔きむしってヒステリックに叫ぶ。

 ……と思いきや、途端に目を据わらせて、フフ、とニヤけた。

 朱璃は悟った────これは、悪いことを考えている。


「考えてたら居ても立ってもいらんなくなってきちゃった。朱璃ちゃん、もし……アタシが脱走して凰鵡らのトコ行くっていったら……一緒に来る?」


 それは、真嗚が凰鵡にしたのと似たような問いだった。

 自分の身にも大きな選択が迫られつつある予感に、朱璃はゴクリと生唾を呑んだ。


     Side Shitou


 宿泊棟の最上階には、支部を住居としている職員用の部屋が並んでいる。

 紫藤は照明を落とされた廊下を渡り、扉のひとつに辿り着くと、端末からメッセージを送った。屋主へ来訪を報せる合図だ。少しして、錠が解かれた。

 扉の隙間から顔を覗かせた零子に、紫藤は眉を上げた。ネグリジェ一枚だ。髪も結わえていない。真っ赤に腫らした眼に、いつもの眼鏡は掛かっていなかった。


「失礼します」


 零子が反応するより早く、紫藤は室内に滑り込んで、後ろ手にドアを閉めた。


「……眼鏡グラスは……?」


 普段の彼らしからぬ強引さだが、零子はとがめもせず、むしろ緊張の糸が切れたように、その胸に撓垂しなだれかかった。


「いまは……邪魔なだけですから」


 零子の私室は特別な結界によっていっさいの霊魂をシャットアウトしているが、廊下や、来訪者の霊気までをも視えなくするわけではない。


「ずっと私を呼んでいたと。遅くなってすみません」


 少しその気になれば手折れてしまいそうな痩身を両腕に包みながら、紫藤は零子の背を撫でる。


「みちさん。どうしよう。わたし、こわい……」


 震える身体を部屋の奥へと運び、ベッドに寝かせる。照明は灯されていない。カーテンも閉め切られている。

 症状は聞いていた。異常なまでの〝光恐怖症〟だ。強いストレスのせいで軽度の退行も起こしているらしい。


「お願い、みちさん……ひとりにしないで……」

「大丈夫。ここにいますよ」


 〝みちさん〟──零子からそう呼ばれていたのは随分と昔のことだ。支部の古参にも、知っている者は多くない。

 ちょうど翔が生まれた頃だろうか。支部長となった零子を紫藤は役職名で呼ぶようになり、零子のほうも「導星さん」と少し距離を置くようになった。それでよかったのか否かは、紫籐には判らない。

 解っているのは、さかのぼってしまった零子の時間を、現在に還さねばならないということだ。大きなダメージを負った心を少しでも癒し、また「導星さん」と呼ばせることだ。

 そしてオメガの写真に何を、視たのか、彼女の口から聴き出さねばならない。

 そのためなら、自分は道化にもなろう。


     Side Ormu


 ──オメガ直下壊滅から、約二時間後。

 燃えるような落日の紅と、宵闇の群青とが中天で綯い交ぜになって、爆心地の上空は幻想的な紫に染まっていた。


(あれが……)


 山野の切れ目から、凰鵡はオメガを見上げる。あと数歩でも踏み出せば、そこはもうクレーター状の荒野だ。流れ込んだ川と地下水とが溜まって、中央には早くも大池ができている。

 常人には感じられない熱波に、毛穴という毛穴が汗を噴いていた。


「実物は、かなりキツいのう」


 隣の真嗚も肩を上下させ、額を拭う。が、汗のほとんどは、支部からここまでノンストップで駆け抜けたせいだろう。


「まだヒトの気配はありません」


 顕醒が言った。こちらは凰鵡を担いで走ってきたとは思えないほど平然としている。


「やるなら今じゃな」


 ごくり……と凰鵡は唾を呑む。

 この期に及んでも、まだ悪夢の中にいるような気がする。だが、やらねばならない。夢の真偽を確かめるためにも……そして、維への償いのためにも。


「ほいじゃ、手はずどおりに行くぜぇ!」


 まず真嗚が飛び出した。顕醒がそれに続き、最後に凰鵡が倶利伽羅竜王を手にして、ふたりを追う。


「ナウマクサマンダバザラダンカンマン……」


 クレーターを駆け下りながら顕醒が不動明王の真言を唱え、印を結ぶ。すぐさま印は親指と人差し指の輪に変わり、そのなかに光が渦を巻く。


(竜王……おねがい。ボクに、闘う力を!)


 兄の圧に負けぬよう、凰鵡も宝剣に闘志を注ぐ。


おん!」


 先行する真嗚が裂帛を込めて腕を振る。光の楔が飛ぶや、ツバメのようにひるがえって、はるか行く手の地面に潜った。

 轟音と振動が湧いた。大地がみるみる隆起して、大池の岸辺からオメガへとつづく急斜面ができあがる。

 凰鵡は目をみはった。こんな技は見たことがない。不動の極致は、地形をも変えてしまえるのか。


「来やるぞ! 顕醒!」


 ハッと現に変えるや、周囲が夕刻とは思えない輝きに包まれていた。その光の一粒一粒が──空気そのものが──燃える。


「カァーン!」


 ドッ、と背後からの爆音と風圧に、凰鵡は脚をもつれさせて転がった。


(兄さん!)


 顕醒が極大殺法を放ったのだ。それは周囲に渦巻くオメガの光を撃ち消しながら、真嗚の作った高台への道を守る傘にもなった。


「ナウマクサマンダバザラダン!」


 真嗚も立ち止まって、両手に気を凝縮しはじめた。


「凰鵡、行け!」


 兄の叫びに背を押されて凰鵡は地を蹴り、師を追い越した。


「カァン!」


 背後で二発目の極大殺法が放たれた。その余波を今度は追い風にしながら、高台を駆け上がる。

 見上げれば、師兄が放つ光は折り重なって凰鵡の道を守りながら、オメガの光輪をも穿うがとうとしている。

 その輪を、師は「殻」と呼んでいた。一種のバリアだと。それをふたりの極大殺法で破り、中心に潜む本体を、凰鵡が討つ。先だって真嗚が口にした「手はず」がこれだ。


「唵──倶利伽羅竜王!」


 高台の突端に辿り着き、今いちど、宝剣に念を送る。

 ここからでも、標的までは五〇〇メートル以上あろう。だが届く、と凰鵡は確信する。前にも一〇〇メートルは離れた妖種に届かせた。それより少し遠い(、、、、)だけ(、、)だ。

 オメガの表面で光が爆散した。ついに殻が破られたのだ。


天魔波旬てんまはじゅん──! 降伏ごうぶくすべし!」


 討つべき敵をめ上げ、凰鵡は渾身のひと突きを放つ…………はずだった。


(え──?)


 時が止まったような気分だった。

 はるか後方にいた真嗚も「は?」と声を上げていた。

 顕醒ですら、瞠目どうもくしていた。


(なんで…………)


 突き出された倶利伽羅竜王は、主である凰鵡の意志に反して、光の刃を吐き出さなかった。

 だが、三人をもっとも驚愕させたのは、破れた殻の向こうにあった。

 空中にたたずむ人影──小柄でクセ毛の、幼げな姿。

 光り輝く──だが紛れもない────


(ボク?)


 凰鵡自身だった。


「しま──ッ!」


 ──アアアアアアアアアアアアアアアアアア!


 オメガの叫びと、一寸先も見えない光の暴流が、すべてを塗りつぶした。


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