妻が陸でも水中でもトレーニングを欠かさない理由
天国。
柔らかな光がさす、大きな湖。そこに浮かべた小舟に、俺は乗っていた。
少し前、突然に逝った妻はきっと、後から逝く俺を待っていてくれるだろう。
『あなた』
水面に、妻がふわりと姿を現した。
? 何か違和感が。腕に番号……?
だがそれ以外は紛れもなく、微笑みを浮かべた優しい妻。
『あなた。少し早すぎない?』
私も笑って言う。
「良いんだ。この世に未練なんかひとつもない。それにほら。思い出もたくさん抱えてきたからな」
妻は俺が抱えているものを見て、
『私よりたくさんの思い出を持ってきたのね』
ふふと笑った。
だが、次の瞬間。
妻の顔色がさっと変わった。
『待って……あなたそれって』
俺は自分の胸元を見る。しまった!
これは浮気相手との……。
「すまん! これは若気の至りで……」
なんでこんな思い出なんか持ってきちまったんだ。俺のバカやろう!
動揺に舟が揺れ、その反動でぽろりと幾つか湖に落としてしまった。
「ああっ」
すると、妻が言った。
『ねえあなた。あなたが今落とした思い出って、これかしら?』
妻の右手には、ひとつの思い出。
それは、息子が産まれた日。難産で、妻は何時間も苦しんだあげく、ようやく息子は産声を上げた。
『それともこっちかしら?』
左手を差し出す。
それは、妻が癌の手術を受けた日。麻酔から覚めた妻が、そっと胸に手をあて、涙を流している。
「これは……どちらも俺の思い出じゃ……」
『そう。こんな日でさえ、あなたは浮気相手と過ごしていたわよね。私、あなたを許さない』
知っていたのか。
天国で妻が待っていて、これからはずっと一緒にと思っていたのに、こんな展開になるとは。
妻が一歩、一歩と俺に近づいてくる。
その度に小さな波が起き、舟がぐらぐらと揺れる。
俺は急いでオールを手に取り、腕に力を込めて水面に叩きつけた。
舟がぐんっと進む。
「待ってくれ。俺が悪かった! 家庭も顧みず、遊んでばかりだった……でももう俺たちは死んだんだ。これからは二人仲良く、」
『あなたを許さない』
そう言うと、妻は泳ぎ始め、俺の舟を追いかけてくる。
「おまえ、泳げなかったんじゃ……」
すると妻が叫んだ。
『陸でも水中でもあなたを追いかけられるように、ここに来てからトライアスロンのトレーニングしてたのよ!』
よく見れば、妻は上下スポーツウェア。最初の違和感はこれだったか!
『きいぃぃー』
恐ろしい形相で追いかけてくる。俺は必死にオールを漕いで逃げるしかできなかった。
この地獄を。