それはまだ怖いから
寝る前にお酒を飲むから夕飯を食べるつもりはなかったのだが、蓮香が居るので一緒にファミレスに行った。俺は晩酌のお腹を残すために軽くしか食べなかったが、蓮香はハンバーグとご飯大盛をペロリと平らげていた。やはり彼女はお腹が空いていたらしい。
それからは家でダラダラと過ごしていると、時刻はあっという間に二十一時になっていた。俺が「そろそろ飲もうかな」と言うと、蓮香はきびきびとした動きで、冷蔵庫の中にある余り物を使っておつまみを作り始めた。
今日初めて知ったことだが、蓮香は料理も出来るらしい。可愛くて、性格も良くて、料理も出来る。もしかして蓮香は女の子として完璧なのではないかと、彼女が料理をする後ろ姿を見ながら思った。
「はーい。出来ましたよー。サーモンのユッケとトンテキです」
未だに制服姿の蓮香が、大きめのお皿を二つ手に持ってやって来た。その二つのお皿をローテーブルの上に置くと、蓮香は満足げな顔でいつもの定位置に座った。
二つの料理を見て、俺は思わず「おお」と唸った。サーモンのユッケは細かく刻まれたサーモンときゅうりがタレと絡まり合い、美しい光沢を放っている。しかもその真ん中には卵の黄身が乗っていて、早くかき混ぜて食べたい衝動に駆られる。そしてもう一つのトンテキは食べやすいように一口サイズに切られた豚肉に、美味しそうなウスターソースが絡んでいる。どちらの料理もすごく美味しそうで、お酒を飲む予定がなければ白米と一緒にかきこんでいただろう。
「うわ、二つともめっちゃ美味そうだな。冷蔵庫の余り物でこんなに贅沢な料理が出来るのか」
「柊一さん料理しないでしょ。色々な食材が余ってましたよ」
「あー、料理しようと思って買ったのはいいけど、結局面倒で放っておいた食材たちだな」
「もー、今度から食材を腐らせそうになったら私に言って下さい。余り物で色々作ってあげますから」
「まじか。それはめっちゃ助かる」
そういうことなら、今度から食材が余りそうな時には遠慮なく彼女を呼ぶことにしよう。
なんなら毎回コンビニで弁当を買ってくるのも面倒だから、毎日蓮香にご飯を作ってもらいたい。というのは、ワガママすぎるよな。
「そんなことよりささ、温かい内に食べてみてください。味見もしてあるので、不味くはないかと思うんですけど」
蓮香は自信満々の表情で、俺に割り箸を渡した。その割り箸を使って、サーモンのユッケをかき混ぜて一口食べてみる。
「うわ、ユッケうま。久しぶりに食べたわ」
三つの具材が絶妙に混ざり合い、サーモンと卵の甘みときゅうりのシャキシャキとした食感が楽しい。レストランなどで出されるユッケの味を優に越えてきている。
もしかしてトンテキもこれくらい美味しいのだろうか。俺はそんな希望を抱きながら、トンテキも一口食べてみる。歯ごたえのある豚肉が、スパイシーなウスターソースと混ざり合って絶品だ。安い特価の豚肉を使っているはずなのに、料理の腕次第でここまで美味しくなるものなのか。
「トンテキも最高だ。どっちもめちゃくちゃ美味しいよ。蓮香って料理得意だったんだな」
お世辞ではなく素直に思ったことを口にすると、蓮香は照れたように頬を桃色にしながらも誇らしげに胸を張った。
「不登校時代に暇で料理を勉強してましたからね。料理くらいどうってことないですよ」
不登校はあまり誇るものでもないと思うが、この料理の腕は本物だ。もっと彼女の料理を食べてみたいと思ってしまう。
「それと柊一さん。こちらをお忘れですよね」
蓮香はそう言ながら、冷蔵庫から缶チューハイを二本取り出して見せた。
そうか。俺はお酒を飲むために、蓮香におつまみを作ってもらったのだった。危うくただの夜食になるところを、蓮香に助けられた。
「あー、そっか。ありがとう」
俺は蓮香から二本の缶チューハイを受け取り、その一本の栓を開ける。
「あ、飲むの待って下さい」
栓を開けた勢いそのままに缶チューハイに口を付けようとすると、蓮香に止められてしまった。どうしたのだろうかと思っていると、彼女は自分のマグカップを手に持った。
「私、お酒を飲むときの乾杯に憧れがあって、柊一さんとも乾杯したいなあって思ったんですけど……どうですかね」
なんだ。乾杯がしたかったのか。それぐらいならと、俺は缶チューハイを掴んで彼女に近づける。
「そういうことなら乾杯しよう」
そう笑いかけると、蓮香は一瞬だけ頬を赤らめてから「はい!」と元気よく頷いた。
缶チューハイとマグカップをくっつけて「乾杯」と声を揃えると、どこか気恥ずかしい気分になった。
☆
蓮香の作ってくれたおつまみも食べ終わり、缶チューハイも二本目に差し掛かったところ。あまり酒に強くない俺の視界は揺れ始め、段々と眠気を感じて来た。これ以上飲んだら頭もクラクラして来て、俺は寝始めてしまうだろう。
「やばい。飲みすぎたかも」
でもまだ意識はあるので、片手で頭を抑えながら伸びをする。
すると食べ終わった食器を洗っていた蓮香がこちらにやって来た。
「大丈夫ですか? お水飲みます?」
「ああ、持って来てくれると助かる」
「はーい」
定まらない視界で時計を見ると、二十二時を回っていた。そろそろ蓮香を家に帰さないと、親御さんに心配を掛けてしまうかもしれない。
「はい、お水ですよ。自分で飲めます?」
水道水を注いだグラスを持って来るなり、蓮香は俺の隣に座り込んだ。
「自分で飲める。大丈夫だ」
まさか高校生に水を飲ませて貰うことなど出来ずに、俺は蓮香からグラスを受け取った。そのグラスの中身を一気に煽ると、お酒で温まった体温が下がっていくのを感じた。
あれ、水道水ってこんなに美味しいんだ。そんなことを思いながら口元を拭い、隣に座る蓮香に顔を向ける。彼女は心配そうな顔でこちらを見るもんだから、ついつい蓮香の頭を撫でてしまった。それだけで彼女の顔は茹でたタコのように赤くなり、驚いた顔のまま固まってしまった。その蓮香の反応で自分の失態に気が付いて、俺は慌てて手を引いた。
「あ、ごめん。なんか頭撫でたくなっちゃって……」
きっと酔っ払っているせいだ。普段ならばこういった「おっさんキモイ!」と思われそうな行動は慎んでいるつもりだったのに……でもこの間も無意識に乃々ちゃんを撫でたりしたような。もしかしたら俺って、女の子の頭を撫でるのが好きなのだろうか。
そんなことを考えている間も、蓮香の顔は真っ赤なままだ。なんて声を掛けようかと悩んでいると、蓮香がこちらに上目遣いを向けた。
「別に、もっと撫でてもいいですけど」
そんなセリフを上目遣いをしながら言うもんだから、思いがけずにドキリとさせられる。
水で冷えた体温も、一気に熱くなっていくのを感じる。きっと今の俺の顔は、蓮香のように真っ赤だろう。ドキドキと高鳴る心臓を抑える余裕もなく、俺はどうしたらいいのかわからず言われるがままに蓮香の頭にもう一度手を伸ばした。女の子の繊細な髪の毛を手の平に感じながら、ポンポンと頭を撫でてみる。
真っ赤な顔をしたまま、蓮香は俺に撫でられている。撫でている方の俺も、撫でられている方の蓮香も一切言葉を発しない不思議な時間が流れる。
でもやっぱり、女子高生に触れているといけない気分になってくる。しかも蓮香は可愛いから、このまま彼女に触れていると変な気分になって来てしまうかもしれない。酔っ払いながらもそう考えて、俺は蓮香の頭から手を離そうとする――が、蓮香が両手で俺の手を捕まえた。女の子らしい線の細い手を直で感じて、俺の心臓はさらに鼓動を速める。イルミネーションデートの際に手を繋いでいた時にはこんなにドキドキしなかったのに。どうして今はこんなにドキドキしてしまうのだろう。
お互いに何も話さず、手だけが繋がっている。こんな時は俺から話した方がいいのだろうか。「どうしたんだ?」と聞くのも違うし、「もう遅い時間だから帰った方がいい」と追い出すのも違う気がする。ではなんて口を開けばいいのだろう。うだうだとしていると、蓮香は大事そうに俺の手を両手で包みながら目を伏せた。
「やっぱり私、柊一さんのことが好きです」
物音ひとつない部屋の中で、蓮香が声を紡ぐ。
手を握られて逃げ場のない中で改めて告白をされて、緊張から口の中の水分が飛ぶ。心臓は口から飛び出そうなほどに鼓動を速め、もはや制御不能となる。
どうしてだ。一ヵ月前に告白された時には、こんなに緊張はしなかった。なのにどうして今になって、こんなにドキドキとしてしまうのだろうか。その疑問に対する答えが、今の俺には分かってしまった。
俺は津田蓮香という女子高生の明るさと優しさに、特別な感情を抱いてしまったのだ。だけども俺は何も言葉を発せない。きっと彼女にぶつけたい気持ちを言葉にしたら、俺は蓮香を不幸にさせてしまう。
なのに蓮香は俺を置いて、どんどんと気持ちを言葉にしていく。
「柊一さんと再会してから今日まで、ずっと柊一さんと一緒にいた気がします。毎日のようにラインで連絡を取り合って、家に遊びに来て、色々なお話をして、たまに今日みたいにご飯を食べに行ったりして。すごく楽しかった。イルミネーションデートの約束をしてたのに遅刻して来た柊一さんも、乃々に言い寄る男に喧嘩で勝った柊一さんも、五年前に会った時の柊一さんも、全部が大好きな柊一さんです。それくらい私には、柊一さんが特別なんです」
蓮香は声を震わせながらそう言うと、伏せていた瞳をこちらに向けた。目と目が合い、金縛りのように体が動かなくなる。
「前に私が告白した時に、柊一さん言いましたよね。私を幸せに出来る自信がないって。フリーターの稼ぎじゃ私を食べさせていけないって。でも私、今がすごく幸せです。こうやって頻繁に柊一さんと会えて、乃々も居て。今がすごく大好きなんです。私はこれ以上なにも望みません。だから今度は私が柊一さんを幸せにしてあげたい。私の人生を明るくしてくれた柊一さんの人生を、私が幸せなものにしたいんです。柊一さんの幸せは、私の幸せだから」
もう一度「だから――」と言葉を繰り返すと、蓮香は俺の手を握ったままこちらに顔を近づけて、唇同士を押し付けるくらいのキスをした。
唇に触れている温かで柔らかなものが彼女の唇だと認識すると、俺はパニックで息をするのを忘れてしまう。蓮香はその隙をついて、俺のことを強く突き飛ばす。そのせいで床に仰向けになった俺に覆いかぶさる形で、蓮香が四つん這いになる。
「私はもう子供じゃありません。あの日、柊一さんに言われた通り大人になったからあなたの前に現れたんです。だけどあの日みたいに結婚をしてくれなんて言いません。友達としての柊一さんじゃなくて、恋人として柊一さんのことを知りたいんです。だから私を――柊一さんの彼女にしていただけませんか」
こちらを見下ろす蓮香の顔は真剣そのもの。
告白されてしまった。その事実だけが、俺の頭の中を埋め尽くす。
女子高生なんてまだまだ子供だと思っていた。しかし俺よりも色々なことを考えて、俺のことを色々と考えている。俺なんて自分のことでいっぱいいっぱいなのに、これじゃあどっちが子供なのか分からない。
こちらを見下ろす蓮香の顔を改めてじっくり見てしまう。ぱっちりとした二重瞼から覗く瞳は、濁りなくこちらを見つめている。丸みがある鼻は彼女を柔らかな印象に変え、垂れ下がる茶髪は毛先がカールしている。その全部が愛おしく感じることに、今更ながらに気が付いた。女子高生にこんな気持ちを抱いている自分が居ることに、思わず口元が緩んでしまう。
「もしも断ったらどうする」
「キスの続きをします。私、大人なんで」
冗談っぽく言うと、蓮香も冗談を言う口調で返した。その表情が真剣なものではなく、柔らかな笑みに変わる。真剣な顔も好きだが、やっぱり蓮香には笑っていてもらいたい。もちろん泣き顔を見るなんて、まっぴらごめんだ。だから俺は腕を大きく広げて、彼女の目を見る。
「それはまだ怖いから、付き合ってみようか」
そう言って笑顔を作ってみせる。すると蓮香は瞳をふるふると震わせてから、無邪気な笑顔で俺の胸に飛び込んで来た。そのまま彼女を抱きしめると、蓮香は幸せそうな笑い声を落とした。
久しぶりに抱きしめた彼女の体は、温かで落ち着くものだった。