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Smoky Breath  作者: 音羽 裕(Yutaka Otowa)
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6th progress「混沌の幕開け」

6th progress「混沌の幕開け」


西暦2037年9月6日

「ル・シエル」北棟3F 305号室


 その日、俺は日が高くなった頃に目を覚ました。

 昨日は丸一日フリーだった事もあって、俺達は部屋に安いワインを何本も持ち込んで、真夜中までコーや隣の部屋の人らとワインをがぶ飲みしながらバカみたいに騒いでいた。

 近くの部屋の人らに迷惑がられないのかと勘ぐる人もいるかも知れないけど、周りのどこの部屋も全く同じような状況。気付いた頃にはもう、どうにも収拾がつかなくなってた。さすがにブチ切れ気味の異常なテンションに見かねて、ハインツは誰もいなくなった隣の部屋へさっさと避難してしまったけど。

 結局、そのバカ騒ぎは空が白む頃まで延々と続いて、酔いにまかせたまんま俺はコロッと眠りについた。


「うー、気持ち悪りー……」

 コーはまだベッドの中で死にかけてた。ハハッ……ざまーみやがれ。

 あいつは大して飲めないくせして、勧められたらどんどん飲んで、そして勝手につぶれていく。まさに自業自得って奴だ。さらにタチの悪いことには、からむ、叫ぶ、愚痴る、うろつく、暴れる……その他にもまだまだある。できればコーと一緒には飲みたくないって、俺は前々から思ってるんだけど。

「お前、酒もそんなに飲めんくせに、よくナンパなんかやっとれるな。女の子よりも先にお前が酔っぱらってまったら、その後どうやって口説くん?」

「へっ……酒なんかなくったって俺は十分、女を酔わせれるぜ。バカにしんといて……うーっ」

 コーは粋がって体を起こそうとしたけど、またうつぶせになってベッドの中にガクンと倒れ込んだ。はい、ご愁傷様。

 その隣では、昨日は何事もなかったかってくらいピンピンしているハインツが、哀れみ半分、軽蔑半分の表情を浮かべながらのんびりとくつろいでる。まっ、ハインツは1滴も飲んでなかったわけだし、当然か。

 俺はそんな情けない姿のコーを笑い飛ばしながら、南側にある窓のカーテンを一気に開けた。

「うあっ……やめてくれ、祐さん」

 カンカン照りの日の光が、いつにも増して散らかっている部屋の中にパァッと射し込んでくる。辛そうにうめきながらコーは、身体をよじりながらベッドの中に潜り込んだ。

 俺はどうも、ひどい二日酔いにならない体質らしい。むしろ酔いが醒めていくのがメチャクチャ遅くて、次の朝になってもまだちょっと酔いが残ってるくらいだ。朝まで軽く酔っぱらってるわけだから、これぞホントの二日酔いかも。

 だから今の俺は、ギラギラした日の光を浴びたってどうって事はない。そのまま俺は、窓から外の景色を気ままに眺めていた。

 この南側の窓からは、灰色にくすんだ本部棟と頑丈そうな正面ゲートがよく見える。今日は日曜とあって、平日には人やら車やらがしょっちゅう出入りしているゲート前通路は、いつもとはうって変わって休日らしい静けさと穏やかさに包まれてる。


 口寂しい。そんな時にはアレだ。いつも通りに素早く点火。

 飢えた獣っていうか、水をジュッと吸い取るスポンジの気分だ。身体が一時の快楽を求めてる。俺は煙を一気に吸い込みながら、照りつける光が舞う景色を目に焼き付けた。

「……ん?」

 なんだろ、あれ?

 ぐるりと辺りを見回していた俺は、ある光景にふと目を留めた。

 正面通路の片隅に、黒いボディーの高級車が本部棟に横付けしたまんま止まってたのを見つけたからだ。車種はえーっと……ファラッド・デュウェインか。よく日本を訪問してる国賓とかが、カメラ片手に集まった記者達に囲まれながら意気揚々と乗り回してるような超高級車だ。

 やがて、その車の前に一人の老人がスタスタと歩み寄ってきた。

「あれは……マスター?」

 俺はその姿を見て、反射的にポツッとつぶやいてた。

 濃緑色の法衣に身を包んだその老人は紛れもなく、マスターの姿だったからだ。他にも車の中には誰か乗ってるみたいだったけど、こんなとこからじゃ誰なのかは全く分からない。

「なんだろ? 日曜だってのに」

 そのままマスターがゆっくりと車に乗り込んで行くのを、俺はつぶやきながら見ていた。

 やけに幅の広いドアが、バタンと静かに閉まる。そして車は微かなモーター音を上げながら、一路南へ颯爽と走り去っていった。


西暦2037年9月6日

パリ セントゥールホテル 貴賓室


「これはこれは、お久しぶりです。マスター」

「おお、ロベール君。このところ激務が続いておるようだが、身体の方は心配ないかね?」

「いえ、ご心配なさらないでください。マスターのお心遣い、心より感謝いたします」

 真っ赤な絨毯が敷き詰められ、頭上には煌びやかに輝くシャンデリア。バロック調のデザインのテーブルと椅子が立ち並ぶ貴賓室の中で、マスターと一人の男が懐かしげに話し込んでいた。

 男は50代ぐらい、薄いグレーのスーツをきっちりと着こなし、臙脂色のネクタイが鮮やかに襟元を彩っていた。

「私のことをロベールと呼んでくださるのは、もうマスターと私の母ぐらいですよ」

「フフッ……まだあどけない少年だったロベール君の姿、今も目に焼き付いておるよ。それが今はもう一国の大統領か。とにかく今の『ル・シエル』があるのも、ロベール君の多大なる尽力のおかげ。感謝せねばならんのは私の方だよ」

「いえ、とんでもない……ところでマスター、その娘さんは?」

 話に一応の区切りをつけたところで、男はキョトンとした表情でマスターの隣に目をやった。

「ああ、私といつも同行してる秘書が所用で出払っておってな。今日はその代役のジュネ君だ」

「申し遅れました。はじめまして、アンリ大統領」

 マスターの言葉が終わると同時に、ジュネはにこやかな表情でアンリの方を向いた。

 ジュネは魔術師としての訓練のみならず、大学では秘書としての勉強も積んだ経験があり、その知識は確かだった。しかし、軍の高官と同行する事は度々あれど、マスターの秘書を務めるのは今回が初めての事である。大役を仰せつかったジュネの表情は、いつになく引き締まっていた。

「秘書の代役とはいえ、今ここで大統領にお会いできるなんて……本当に信じられないです」

「ハッハッ、そう畏まることはないですよ」

 緊張のせいか時折顔つきすら固まるジュネを見て、アンリはにこやかな顔つきでそう諭す。それにいくらかは安堵したのか、ジュネはやっとの事でその表情を崩した。


「アンリ大統領。サイモン様がご到着しました」

「おっと、そうですか。どうぞお入り下さい、サイモン少佐」


 ギギギィッ……


 古びた扉のきしむ音が、しんと静まり返った貴賓室の中に響きわたる。そしてその扉から、紺色の軍服に身を固めた一人の青年が、ツカツカと足早に足を踏み入れた。

「今ここにお招き下さった事を、心より感謝いたします。アンリ大統領」

 低く渋みのある声で、青年は力強く感謝の辞を述べた。

 年は20代後半。ラフに流した金色の短髪に、面長で切れ長の目。体格がよい事も手伝ってか、どこか野性味に満ちた雰囲気を漂わせている。しかしながら、その態度は外見、風貌とは対照的に紳士的であり、涼しげな品格も同時に持ち併せた男性だった。

「駐仏アメリカ軍、陸兵隊所属。コリンズ・サイモンと申します」

 その背筋を真っ直ぐに伸ばし、サイモンはアンリ、マスター、ジュネに向かって敬礼をした。それに合わせて3人も敬意を表するべく、深く一礼する。

「ではサイモン少佐。どうぞお座り下さい」

 ただ一人だけ、何度も丁寧に頭を下げるアンリの表情をうかがう様な表情を見せながら、サイモンはアンリの向かい側の席へゆっくりと座った。

「何やら重要なお話があるとうかがいまして、ここへ参った次第ですが……ところで大統領、そちらにおられるご老人は?」

 椅子に腰掛けるなりサイモンは、眉をしかめながら問いを投げかけた。そして、すました顔で鎮座するマスターをまじまじと見つめる。

 サイモンはフランス大統領であるアンリとは面識があったが、マスターとは顔を合わせたことも、ましてやその姿を見たこともなかった。彼にとって、ル・シエルの最高責任者であるマスターは、一介の老人にしか見えない。しかしその老人が、大統領であるアンリよりも上座の席に座っているのである。サイモンが戸惑うのも、至極当然と言えることだった。

「ええ、そういえば紹介がまだでしたね」

 サイモンが戸惑っている事をすぐに悟り、苦笑しながらアンリはマスターに手の平を向けた。

「この方は、我が国の陸軍特殊機動隊『ル・シエル』の総帥、ファルティアス殿。我々は普段、敬愛の意を込めてマスターと呼んでおりますがね」

 流れの良いアンリの紹介に合わせて、マスターは何度も軽く頭を下げる。しかしサイモンは相変わらず、その怪訝そうな表情を崩す事はなかった。

「ル・シエル……? さて、私は耳にしたことがございませんが」

 何度も首を傾げながら、未だ納得のいかない表情でサイモンはつぶやく。

「そうでしょうね。ル・シエルという組織の名どころか、その存在を知るのは我が国の人間でもほんの一握りなのですから。ところで……今日はそのル・シエルにまつわる事について、サイモン少佐にお話があるのですけれども」

「ええ、ご遠慮なく」

 もう一度椅子に深く座り直し、サイモンは厳しい目つきでアンリに目をやる。アンリは小さく息をつくと、双方の感情をうかがう様にマスターとサイモンの目を交互に見た。

 サイモンがマスターに対していくらか欺瞞の心を抱いている事を、アンリは早々に気づいていたからである。アンリは対話を進行させようとしながらも、マスターとサイモンの心理を常に探っていた。

「先日の日本に対するミサイル投下から、チェコを母体とする『東部軍事機構』の活動が以前にも増して激化していることは、少佐もご存じでしょう。彼らは既に東アジアのほぼ全土を傘下に治めており、軍事力もそれに併せて爆発的に増大しているとの情報も届いております」

「それは私もよく存じております。先日、日本に対する核ミサイル攻撃がありましたが……彼らは反発勢力である日本や東南アジアまでも、その手中に収めようとしているようですね」

 アンリの言葉へと付加するように、サイモンは平然と答える。コホンとひとつ咳払いをして、アンリはさらに話を続けた。

「ベルリン東端にあるバリケードをご存じでしょうか? サイモン少佐」

「ええ、もちろんですとも。聞くところによればもう3年間、多国籍軍と東部軍との睨み合いが延々と続いているそうですね。しかし、今から1年程前に、暫定的な停戦協定が結ばたとうかがっておりますが?」

「つい昨日、東部軍側が停戦協定の破棄を決定したそうです」

「なっ? 本当ですか!」

 狼狽するサイモンを見つめながら、アンリは一つ、深いため息をついた。

「まだ公式の発表はされておりませんが……信頼できる筋からの情報です。おそらく、間違いはないでしょう」

 落胆と焦りが混じった色を浮かべるサイモンに、アンリは更に言葉を投げかける。

「我々は、ベルリン東端を最後の生命線と考えています。既にポーランドやドイツの東部は彼らの手に落ちている……もし協定が破棄されれば、彼らは真っ先にベルリンに攻め込むはずです。ベルリンのバリケードが破られた時、フランスだけでなく、ヨーロッパ全土が彼らの手に落ちていくのは時間の問題でしょう。それではもう、遅すぎるのです」


 アンリの言葉一つ一つに、徐々に力がこもりはじめた。その温厚そうな見かけからは、とても想像がつかない程に、その言葉は熱を帯びている。しかし、その話を聞くサイモンは対照的に、至ってクールな表情でその言葉を耳に入れていた。

「我らはなんとしても、ベルリン東端の生命線を守り抜かねばならない。その為にはあなた、サイモン少佐の心強いお力添えが必要なのです」

「ええ。もちろんそれは、重々承知しておりますとも」

 止めどなく続くアンリの熱弁に軽くうなずきながら、サイモンは至って素っ気ない素振りで口を開いた。

「しかし……それならば私などではなく、上の人間に直々におっしゃればよろしい事ではないでしょうか? それをなぜ、わざわざ中間職の私なんかに」

「答えは一つです。それはあなたが『サイモン少佐』というお方だからですよ」

 サイモンはため息をつき、そのままテーブルの上に視線を落とした。

 あまりに的を得ないアンリの答えに、サイモンはただ困惑するばかりである。アンリはそのまま、左隣に腰掛けているマスターにふと目配せをした。

 するとマスターは大きくうなずき、サイモンの鋭い瞳にその視線を合わせた。

「では、単刀直入に言わせてもらおうか。話は簡単な事だ。来るべき防衛戦に備えて、我らが機動隊『ル・シエル』の若駒達を、サイモン少佐に指揮して頂きたいのだ」

「は? はぁ……」

 さらに輪をかけて困惑した表情を浮かべ、サイモンはマスターとアンリの顔を交互に見た。彼らが意図する事の核心が、一向に見えてこないからである。

「彼らはその能力にこそ長けてはいるが、実戦については全くと言っていいほど経験がない。幾度もの訓練を積んできたとはいえ、訓練は訓練。所詮は実戦のまねごとでしかないからな。そこで私は、そんな彼らを牽引していくにふさわしい、実戦経験が豊富な指導者が必要だと感じた。フランス軍内でも広く指導者を募ったが……あいにく我らに同調する同志が案外少なくてな。全く、困ったものだよ」

 ぶつくさと愚痴と本音をこぼしながら、マスターは更に続ける。

「そこでだ。サイモン少佐が率いる西欧州多国籍軍の一員として、我ら『ル・シエル』の機動隊を加えていただきたいのだ。そうでなくとも、我らはいずれ、手を組まねばならぬ時がいずれ来るであろうしな」

「あの……ま、待って下さい」

 ぼやき口調で一方的に喋り続けるマスターの言葉を遮るように、サイモンはトーンの低い声でそう言った。

「あなたのおっしゃる事のおおよそは分かります。しかし……まだ飲み込めない事も、いくつかございまして」

 サイモンは言い終わると手元のレモンティーを一口だけ流し込み、そしてまた発言を再開した。


「まず、一つお聞きしたいのですが、その……マスターがおっしゃっておられる『ル・シエル』とは、一体どういった組織なのでしょうか?」


「はぁ?」

 今までずっとクールな一面を保ち続けてきたサイモンが、裏返った驚嘆の声を上げた。

 マスターの口から飛び出したのは、天体信仰、そして魔術についての話だったからである。それまでマリンスノーの様に心の奥底に降り積もっていたサイモンの欺瞞は、一気に頂点まで達した。

 しかし、そんなサイモンの返答にもかかわらず、マスターはすました表情で前のティーカップへと手を伸ばす。

「古代魔術……ですか? ハハハッ、マスターはずいぶんご冗談がお上手と見える」

 さすがにマスターの話など、サイモンが信じられるはずもない。引きつった顔のまま、サイモンは笑い声を上げながら言った。

「ハハッ……ジョークのセンスも、人の上に立つ者にとっては必要な要素ですからね。そうでなければ、いずれは部下にも愛想を尽かされてしまいますよ」

 あからさまに嘲笑じみた笑いを浮かべるサイモンを、マスターはいつになく鋭い目で真っ直ぐに見つめた。これは冗談ではない。無言を保つマスターの目は、サイモンにそう強く語りかけていた。

 白々しく響いていたサイモンの笑い声が、瞬時にして止まる。

「こんな豪勢な部屋でそんな貧弱な冗談を飛ばす程、私は悪趣味ではないが」

「本気ですか? マスターとやら」

 鋭い瞳をまるでマスターを蔑視する様な眼差しに切り替え、サイモンは大きくため息をつきながら首を横に振った。

「アンリ大統領……この方は、新手の宗教家なのですか? 星がどうだとか、精霊がどうだとか。まさかこの期に及んで『神頼み』ってわけではありませんよね? 大統領」

 サイモンは横目でちらりとアンリの方を見た。アンリはややうつむき加減の姿勢のまま、何も口に出そうとはしなかった。

 ほんの一瞬にして氷河期が訪れたような、冷たい沈黙の時間が過ぎていく。


「ちょっと……分かったような口、きかないでよ。あんたはなんにも知らないくせに」

 そのまま、いくらか沈黙が続いた後。

 サイモンは表情を引きつらせ、無言を貫くマスターから目線を外した。苛立ちに染まったハスキーボイスが、水を打ったように静まっていた貴賓室の中に響いたからである。

 その濁った声の主は、先程からずっとマスターとサイモンのやりとりを、びっしりとファイルに書き取っていたジュネだった。嘲る様に言葉を続けていたサイモンにの態度に堪りかね、いくらか睨みをきかせながらその口を開いたのである。

「そうはおっしゃいましても。マスターのおっしゃる事はあまりにも説得力に欠けています。今、ここで全部噛み砕いて理解しろと言われても、それは無理な注文では……」

 厳しいジュネの視線を受けながら、困惑混じりの声でサイモンが喋りだした、その時だった。


 パンッ! パパパパンッ!


 刹那、乾いた銃声がホテル内を一気に駆け抜けていった。

 沈黙を突き破るその音は、いくらか遠くから続けざまに響いていた。一同はとり憑かれたように席から立ち上がると辺りを見回し、そのまま絶句する。

「伏せてっ!」

 機転を利かせたサイモンの叫びとともに、思案する余裕もないまま一同は素早くテーブルの下へと潜り込んだ。その間にも、けたたましい銃声が嵐の様に、断続的に響きわたる。

「アンリを出しやがれっ! いるんだろっ!」

 続いて男達の張り裂けんばかりの怒鳴り声が、ホテルの中を銃弾の如く駆け抜けていった。まるでいきり立った獣のような、激しさに満ちた声である。

「大統領っ! こちらへっ!」

 囁く様な呼び声に、テーブルの下で縮こまっていたアンリはふと目をやった。その先には、青みがかったグレーのスーツを着たクリークが、貴賓室の裏手から張りつめた表情でアンリを手招きで呼んでいる。

「マスターも、早くっ!」

 アンリはすぐさま、隣にいたマスターの手を引きながらテーブルの下から飛び出し、貴賓室の裏手へと駆けていった。

「テロリストか。これは厄介な事になったな」

 アンリとマスターが揃って貴賓室の裏手から脱出しようとしている間、サイモンは腰に下げていたピストルを手に取り、正面の入り口に向かってじっと構えた。

 扉はいつ開くか分からない、ましてやその数センチ先は、銃口か待ちかまえているかもしれないのである。サイモンの中に沸き立つ緊張は、瞬時にして最高潮まで上り詰めた。

「おい、君……何をしてる?」

 声を殺し、じっと様子をうかがっていたその時。自らのすぐ隣を横目で見たサイモンは、冷ややかな声でそう呼びかけた。

 サイモンの右隣には、緊迫した状況下にも全く怯える様子もなく、立っているジュネがいたからである。その表情からは張りつめた感情は見て取れず、むしろリラックスしていると言った方が近い程だった。

「なにって、決まってんじゃない」

「おっ、おい……待て!」

 ジュネは素っ気なく一言返すと、そのまま正面の扉に向かって一気に突っ走り始めた。サイモンがテロリストを迎えるべく、じっと様子をうかがっていた扉に。

 出会い頭の出来事に血相を変えながら、サイモンはその姿を追う。それを後目に、ジュネは扉を力任せに開けると、そのまま赤絨毯の廊下へと飛び出した。


西暦2037年9月6日

パリ セントゥールホテル1F 中央廊下


「なんだ、お前?」

 勢いよく扉を抜けたジュネがまず目にしたのは、赤絨毯が続く廊下の真ん中に立ちはだかる二人組の男だった。

 ちょうどジュネの10歩ほど前あたりに、男達はホテルの宿泊客らしき中年の女性にピストルを突きつけながら、勝ち誇った表情で立っていた。一人は大柄で口髭、顎髭を長く伸ばした男。一人はやや痩せ形で、背の高い男である。

「いいからアンリを早く出せ! あいつにはなぁ……言いたいことが山ほどあるんだ!」

 目の前に立ちはだかるジュネを狂気に満ちた瞳で見据えながら、髭を生やした大柄な男が荒い怒鳴り声を上げる。彼らが強盗ではなく、何か発言をしたがっていると知ったジュネは、その男の言い分に耳を傾ける事にした。

「いいか? 聞け! なんでもあの野郎『ル・シエル』とかいう宗教じみた集団にずいぶん入れ込んでるそうじゃねえか……あん? 違うか? 姉ちゃんよ!」

 怒りを通り越した、狂った笑みともとれる表情で男は続けた。しかしジュネは、そんな不満をぶちまける男達に何も言い返そうとはしなかった。

 言い分さえ聞けば、もしかすれば人質を解放するかもしれない。彼女は今はあえて口を閉じ、聞き役に徹することを選んだのである。

「何が魔術だ。何が天体のエネルギーだ! そんな得体の知れねえ力で、このふざけた戦が終わるとでも思ってんのかよ? そんなくだらねえ事に公費使ってやがるから、いつまでも俺達フランス国民は東部軍のクソッタレどもに、いつまでもビクビクしてなきゃなんねえんだよ! 分かってるか! いいから、早くアンリを出しやがれ!」

「言いたい事があるなら、私が聞いといてあげるけど。後でアンリ大統領にはちゃんと伝えとくから。人質を解放してあげたなら、一通り話は聞いてあげるけどね」

 男達が主張する言い分をいくらか噛み砕いてから、ジュネはようやく口を開いた。彼女は男達との交渉を始めたのである。

 しかし髭の男は未だ、勝ち誇った瞳でにやりと笑う。彼らは人質を解放する気配ももなく、髭の男が腕で人質の女性を押さえつけ、相棒の痩せた男がピストルの銃口を突きつける……その姿勢のままである。

「俺はな、アンリと直接、話を付けてえんだ。いいから、早く出せってんだ! 早くしねえと、このババア撃ち殺すぞ!」

 しかし、男はジュネの要求をのむことはなかった。それどころか更に態度を硬化させ、言葉を荒く強める。

 ジュネと男達の交渉は平行線を辿り、状況は依然として膠着状態が続いた。しかし、


「分かんない人にはいくら言ったって分かんないんだよね。そんな堅い頭してるから、いつも誰かとぶつからなきゃ生きてけないのよ」

 そんな男達の様子に、ジュネは呆れ顔のまま皮肉っぽく返した。

 ジュネは嘲り笑う様な表情で、男達を睨む。男達の神経を逆撫でするのを恐れてか、それを見て人質の女性は引きつった顔で、首を何度も横に振る。

 しかし、ジュネは相変わらずその静かな表情を崩すことはなかった。人質を取られているにもかかわらず、まるで彼女の側が優位に立っているかのようである。


「銃を捨てて、両手を床に置け……すぐにだ」

 と、その時だった。機をうかがって部屋から飛び出してきたサイモンが、落ち着き払った声で言いながら銃口を髭の男に向けた。

「へっ、なんだって? 聞こえねえな」

 それを聞き流すと言うよりは、むしろ挑発するような感じで男は乱暴に言葉を返す。それに合わせる様に、痩せ形のもう一人の男が銃口を人質のこめかみに押し付け、サイモンの目を見ながら軽く笑った。

 まさに一触即発である。場を包んでいた空気が真っ白に凍り付いた、ちょうどその時だった。


「ぐううぁっ!」


 突然、腹の底から思い切り絞り出すような、苦悶する男の声が響き渡った。

「おおっ?」

「なっ……なんだ?」

 その瞬間、事態を遠巻きに見ながら息を飲んでいた人々は皆、驚愕しながらその両目を強く開いた。

 観衆が揃って目を合わせていたのは、男達が悶着を起こしている廊下の脇に並べて置いてあった観葉植物の鉢植えだった。その小さな鉢植えから伸びる木の蔓が、とてつもないスピードで伸びながら痩せ形の男の右腕に絡みつき、ギリギリと締め付けていたのである。

 痩せ形の男は見る間に右腕の自由を奪われ、ただひたすらにもがき苦しむ。

「んんっ! うあっ!」

 たまらず男は銃から手を離し、蔓を引きちぎろうと必死でもがいた。足下にポトリと、小振りな拳銃が落ちる。その様子を、人質を捕まえていた大柄な男は目を丸くしたままで見ていた。

 傍観する人々が互いに顔を見合わせ、状況の理解に苦しんでいる最中。たった一人だけ、その様子を満足げに見据えている人間がいた。テロリスト達の前に悠然と立ちはだかっている女、ジュネである。

「あんたもさぁ……ボーっと見てる暇あんの?」

 氷の様な瞳で髭の男を見据えながら、ジュネはにやりと笑いながら言う。だがそれも、髭の男にとっては束の間の出来事だった。

 今度はその蔓が髭の男へと襲いかかり、強靱なその手足にぐるぐると巻き付いていったのである。男が驚いて蔓を振り払おうとした隙をついて、人質の女性は辛くもその手から抜け出し、足早にその場を離れた。

 おぼつかない足取りで安全な場所へと走り去っていく女性の背を見て、ジュネはようやく安堵する様に一つ息をついた。そして、その目線をまたテロリスト達へと突き刺す。

「あんたらみたいなのがいるから、私達には魔術が必要なの。分かる?」

「こんの……アマっ!」

 この蔓を操っているのがジュネだという事に、男は薄々ながらも気づいていた。際限なく伸びていく蔓から逃れようと男は力の限りもがいたが、それでも蔓は休むことなく体中に巻き付いてくる。しかも、その力はみるみるうちに増し、男の身体をきつく締め上げていった。

「ほら、さっさと観念するか、それともあんた達の体中の骨がバラバラになっちゃうか……どっちが先だろうね」

 背筋を伸ばし、既に勝ち誇った様な態度でジュネは言った。対して髭の男の方は、既に悲痛な瞳へと変わっている。ほんの数分で、双方の形勢は完全に逆転していた。

 大柄な男は今にも身体がちぎれるかという痛みに耐えながら、ふと相棒を横目で見た。しかし、頼みの相棒は既に蔓にぐるぐる巻きにされ、青白い顔で壁にもたれ掛かっている。

 身体全体に激しい痛みを覚えながら、彼はようやく自らの完全なる敗北を悟った。


 やがて到着した警察官は、既にテロリスト達が倒れている事、そして廊下一杯にだらりと伸びきっている蔓にただ、首を傾げた。

 せき込みながら倒れている二人の男は、揃って蔓を体中に巻き付けている。警官達に残されたすべき事は、手持ちのナイフで蔓を乱雑に切り落とし、そのまま彼らを連行していくのみだった。

 その場にいた人々は互いに顔を見合わせながら、これは夢か現かと口々に言い合っていた。ある神父は、これはイエスの思し召しであると叫んだ。またある学者は、観葉植物がなんらかの要因で、その意思を自己啓発したのだと説いていた。

 傍観者達はただ、目の前に突きつけられた現実を咀嚼しかねていた。しかしその中に、事の真相を心中でしっかりと掴んでいた者がいたのである。


「……待ってくれ。ジュネ君とやら」

 軽く一仕事を終えて、そのまま悠々と立ち去ろうとするジュネを、穏やかな声がふと呼び止めた。

「なに?」

 ぐるぐると腕を回しながら、軽い笑みを浮かべてジュネは振り向く。そこには、先程までじっと構えていた銃を下ろして立っているサイモンの姿があった。彼は非常に涼やかな表情で、澄んだ眼差しをジュネへと向けていた。マスターとの対話からずっと心の中に満ちていた欺瞞が、ようやく晴れたからである。

「例の件……その、機動隊の指揮を執るという話だが。前向きに考えさせて頂くと、マスターに伝えておいてくれないか?」

「フフッ。どう、信じてもらえた?」

 得意げに言いながら、ジュネは満面の笑顔を返す。そんな砕けた彼女の様子を見ながら、さすがのサイモンもたまらず吹き出した。

「魔術……か。これは驚いた。もしかしたらこの長い戦争に、ほんの一息でケリを付ける事ができるかもしれないな」

 床の上で複雑に絡み合っている伸びきった蔓を見つめながら、大きく息を吐いてサイモンはつぶやいた。

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