1st progress「最後の日」
おことわり
この物語はフィクションです。登場する人物、団体、国家などはあくまで架空の物であり、実在の物とは一切関係がありません。
Smoky Breath
音羽 裕(Yutaka Otowa)
1st progress「最後の日」
西暦2037年7月12日
名古屋市 八事
平和って、退屈なもんだな……って、なんとなくつぶやいてみたり。
なんでかって? うーん、なんていうか……うまく言い表せないんだけど。けど、こう毎日「日はまた昇り、そしてまた……」って生活の繰り返しじゃ、そのうち生きてくこと自体にも飽きてきそうだ。
それより……俺は一体、誰かって?
そうだ、名前言ってなかったっけ。俺の名前は祐一。アイム・ジャパニーズ。一応、今年で21歳になった男だ。
と、こんな感じで初対面の人に名乗りを上げると、次には決まって「職業は何ですか?」って聞かれる。だから、その度に俺はピンッと胸を張って、
「空手家です」
って答える事にしてる。いやいや、別にふざけているわけじゃなくて、本当の話なんだけど。
おっと、そろそろ奴らが来る時間だな。それじゃ、また後で。
「……今日も一日ご苦労様でした。礼っ!」
「ありがとうございましたっ!」
ここは……とある空手道場の中。板張りの床を踏む度にメリメリッてヤバ気な音がするけど、一応はここが俺の城だ。
むせ返るような激しい熱気の中に、子供達のバカでっかい声が響く。今日の稽古はこれにて終了だ……ふぅ。
俺がコクンと一回首を縦に振ったのと同時に、目の前に列を組んで揃ってた子供たちが、まるでバケツから渓流に放たれた稚魚の群れみたいにバラバラと散っていく。
「おい、リュージ。金返せよ」
「うっせえな。明日返すって言っとるだろ、ハゲ」
ピンと張り詰めてた稽古場の空気から、一気に放たれたせいだろう。ギャーギャー騒ぎながら、くすんだ空手着姿のガキ達は早々に背を向けて道場を去っていく。
んで、その後ろ姿をチラリと見ながら1本、2本……とタバコに火を灯していくのが、俺のいつもの日課だ。
煙が混じった胸いっぱいの息を、くすんだ感情と共に吐き出す。
変わらない。何も変わりはない。ただ、いつも通りの生活が、いつも通りに通過しているだけだ。「平穏無事」っていう魅力の欠片もない言葉を、俺は胸の中で噛み砕いた。
肺にニコチンがズンと染みてリラックスしてきたら、今度は社会についてちょこっと考えてみる。ガラじゃねえかもしれないけど。
最近になって気づいたんだけど……俺達スモーカーに対する世間の風当たりって、ここ数年で一気に冷え込んだような気がする。
第一、俺なんかが子供がいる側でほんの1本タバコを吸えば、途端に辺りは冷たい眼差しの嵐だ。まるで、一斉に何本ものバタフライナイフを俺の喉元に突きつけるような、そんな雰囲気が一瞬にして満ちる。
そうなったら俺はすぐさま心の中で両手を上げて、その場からスゴスゴと立ち去らなきゃいけない。別に犯罪者じゃないってのに、逃亡者にならなきゃいけないなんて、ナンセンスというか……なんだか辛いもんがあるなぁ。
まっ、去年ぐらいからまた再燃してきた健康ブームを考えりゃ、「百害あって一利なし」の象徴、タバコが疎まれるのは当然の事なのかもしれない。けど……結構ありがちなのが「タバコを吸う奴は全部、マナーが悪い奴だ」って先入観を信じきってる人。俺みたいに、ちゃんと喫煙するにも時と場合を考えてる奴も、世の中には一杯いるんだからさ。
嫌煙権を認めないわけじゃないけど、それだったら愛煙権だって是非とも認めてほしいな……なんて、白い息をボワボワ吐きながら思ってみたり。
俺にとって、タバコは心の清涼剤。心のリフレッシュだって、立派な健康法の一つだろ? 分かる? だからさ、人にあからさまな迷惑さえかけなきゃ、こうやって気ままにタバコを吸うくらい放っといてほしいんだ。
言い訳がましいかなぁ……んー、なんだかなぁ。
それより、なんで俺がこの空手道場にいるかって?
そうだな……元はといえば俺も、この道場の弟子だったっけ。
近隣にある田舎街、津島の実家を飛び出して、この道場に住み込みで入ったのは確か15の時だった。
「俺はプロの格闘家になって、拳で賞金を稼ぐんだ」
なんて、地に足つかない事をほざいて……つくづく思うけど、あの頃は本当、バカだったなぁ。
今でこそちょっと下火だけど、ちょうどその頃は無差別格闘技のリーグ戦がテレビで流行ってて、空手出身の日本選手が大活躍してた覚えがある。
背格好も小さくて、いかにも非力そうな日本人の選手が、一撃必殺のハイキックでスキンヘッドのプロレス選手とか、キックボクサーを次々と仕留めていく。ありきたりだけど、俺もその勇姿にあこがれて空手を始めたクチだ。しぶとく頑張ってりゃ、そのうちリングに上がるチャンスはやってくるんじゃないか。工業高校にも休み休み通いながら、休日には地方の大会に玉砕覚悟で何度も出場したりして……とにかく地道にやってたっけ。ひたむきに、そしてバカ正直に。
挫折を経験しないうちは、いくらでも努力を積み重ねることができるもんだ。けど、現実はそう甘くないんだってのを思い知らされたのは……それから4年経った頃だったかな。
この道場を一人で切り盛りしてた俺の師匠が突然、
「娘夫婦と一緒に住む事になったでよー。まっ、後の事はよろしく頼むわ」
なんてカラカラッとほざいたまんま、さっさと道場を出てっちまったのが転機だった。「暗転」とも言えるけど。
なんだかよく分からないままに俺は結局、4代目の師範としてこの道場に残ることになった。けど実質、残されたのは雨漏り連発のボロッちい道場と、口ばっかり達者で生意気な弟子達だけだ。いっそのこと道場を潰してカラオケボックスにでもした方が儲かるような気もするけど、あいにく土地の名義は師匠の方にある。そんなわけにもいかないな。
そんなこんなで早2年が経ち、そして今に至る。甘い夢なんて見るもんじゃないなと、21にして思うこの悲しさ。老けたかなぁ、俺。
なんて愚痴ってはみたけど。実はこんな生活も、慣れちまえばそんなに悪くないって思ってたりする。ここの家賃はタダだし、その上に師匠からそこそこの給料も貰ってる。
特に最近はやたら物騒な事件が多くなったせいか、このところは男女問わず、何か護身術を習うのが流行ってるみたいだ。そのせいか最近ずっと、まるで進学塾にでも通うような感覚で小中学生が空手を習いに来ることが多くなった。
だから、空手道場の先行きは順風満帆、取り立てて困った事なんて何もない。
まっ、あえて悩み事を一つ挙げるとすれば……どうにも使えないバイトが、約1名いるってことぐらいか。
「祐さーん、おるんやろ?」
ハハッ、早速来やがった。玄関から、さんざん聞き慣れた太い声が、軽やかに呼びかけてくる。
奴の名は幸四郎。俺が奴をちゃんと名前で呼ぶことは、そうそう滅多にない……つーか、まずあり得ない。いつも俺は、略して「コー」って呼んでるからだ。いちいち呼ぶの、めんどくさいし。
奴はこの道場の一部屋を借りて住み込んでる、一見バイトらしくみえる居候だ。まあ俺にとっちゃ、腐れ縁というか、アホ仲間というか……うーん、なんて言ったらいいのかな。とりあえず俺のベストパートナーって、嘘でもいいから言っといた方が聞こえはいいだろう。
とにかくコーとのつきあいはずいぶん長い。そういえば「ゴッドファーザー」のテーマをパラリラ鳴らしながら、真夜中の国道1号をバイクで突っ切ったこともあったっけ。
「どこ言っとった? コー。午後練ならもう終わってまったで」
俺はタバコの火をグリグリともみ消しながら、遠巻きに聞こえる姿なき声に向かって答えた。
「ハッハッ。悪りい、ちょっとヤボ用で……それより祐さん、ちょっとこっち来やぁ」
いつもより心なしか声を尖らせたつもりだったけど、罪悪感なんてサラサラないって口調でコーは切り返してみせる。反省の色すらうかがえないふぬけた太声が、開け放した道場の扉をくぐり抜けて飛び込んできた。
初対面の人はギョッとするかもしれないけど、奴はずっと昔からこんな感じだ。マイペースなんてきれいなもんじゃない……骨の髄まで自己中が染みついてる男だから、今さらどうしようもない。
「早よ入って来い。道場の掃除まだ残っとるだろ……ったく、今日の分は給料から引いとくでな」
「そんな冷たい事言わんでさ。見逃してよ、俺と祐さんの仲だがや」
ハッハッハッ。
見逃すか、ボケ。
「ねえ……入っていいの?」
「ああ、どうぞ。汚い所ですまないけど」
あれっ?
入ってきたら真っ先に蹴飛ばしてやろうと、道場の入り口でじっと身構えてた矢先だった。なんだか聞き覚えのない声が、玄関の方から聞こえてくる。
声色からして、明らかに女だ。さてはコー、また女連れて来やがったな。もう今年に入って確か……えーと、4人目くらいじゃねえか? しかもなんだ、妙に気取って「共通語」なんか喋りやがって。
えっ? 「共通語」って何かって?
まあ、ぶっちゃけて言っちまえば「世界各国どこでも通じる言葉」ってとこかな。堅く言えば「国際交流の多様化に対応するため、制定された標準言語」……長げぇな。こう聞くと共通語ってやたら難しくて大それた言葉みたいに思えるけど、実際は英語とほとんど変わらない。
理由はよく知らないけど、今はその共通語とかいう奇妙な言葉が世界のスタンダード言語になってる。テレビ見てても、ニュースとか教養番組とかは共通語で放送してるのが普通だし。
共通語ができた詳しい経緯は……んーと、忘れた。えーと、まあ、一つだけ頭に残ってる事といえば……20年くらい前に「世界共通語推進政策」ってのが為されたって、中学の時に習ったことくらいか。言葉は覚えてても、漢字を覚えてなくてテストはバツだったっけ。
まあ、でも俺が共通語を喋る時は外国人に道を聞かれた時くらいで、普段は日本語、とりわけ俺は崩し気味の汚い名古屋弁しか喋らない。だから共通語なんて、滅多に使う機会はないなぁ。
いくらボーダレス言語って言っても、根強い島国根性がまだ生きてる日本ではその実用性が機能してないのが現実だ。
「悪りい悪りい。午後練には間に合うと思っとったけどなぁ」
なんてゴタゴタ考えてる間にも、ペコペコと何度も頭を下げながら、栗色の髪を肩まで伸ばした男が足早に道場へと入ってきた。
腰を伸ばせば、大柄で一見ひょろっとした体格。無造作にセンターで分けた栗色の前髪が、首を振る度にバサバサと揺れる。
こう見るとやけに腰が低い様に見えるけど、この姿を信用したらこっちの負け。やたら謝ってる仕草を見せて物事をうやむやにしようとするのは、こいつが使うお決まりの手だ。
それにしても……どうせまたナンパでもしてやがったな。このバカヤロー。
「午後練は1時からやって言っとかんかったか? コー」
「ちょっと今池まで行っとってな……デラ急いで戻ってきたけど。ごめんな、祐さん」
「それより、お客さんが待っとるんやろ?」
コーの顔を横目で見ながら、俺は皮肉も込めてニヤリと笑い掛けてみた。なるほど、コーの方も右手で頭をポリポリ掻きながら、はにかむように笑ってる。まっ、これ以上はお互いに何も聞かないのが、俺達の暗黙の了解だ。
「来なよ、ジュネ」
蝶番の外れかけたドアの向こうを覗き込みながら、コーは照れくさそうに何度も手招きをする。そしてしばらくすると、そこから一人の女性がゆっくりとその姿を見せた。
へぇー、なかなかいい女じゃねえか。
背は170センチぐらいはあるだろうか。すらっとした長身で、ブロンドのミドルヘアーには軽いパーマが入ってる。そして青色のパッチリした瞳。鼻筋も通ってて……当たり前かもしれないけど、どこからどう見ても日本人って姿じゃない。
まあ、俺がパッと見た限りの第一印象は、見るからに気の強そうだなーってイメージの女性だった。大きな瞳は少しつり上がってて、なんだか血統書付きのペルシャ猫みたいだ。
「おいおい、外国人さんじゃねえか。お前なかなかやるな、コー」
「まあね。フランスから来たんやって、彼女。名古屋の観光案内してほしいって言うからさ」
獲物を一回り大きくサバ読んで自慢するハンターみたいに、コーはヘラヘラ笑いながら得意げに答えかける。隣ではそのフランス人の女性が、どこかフワフワしたというか、落ち着かない表情で何度も周りを見回していた。
「ねぇ……シロー。ひょ……あ……人……」
「ああ。俺、あの人のとこで厄介になってんだ」
コーがそう言うか言わないかのタイミングで、女性は俺の方に目線を合わせ、しげしげと俺の顔を見た。
じぃーっ……と、彼女は延々と俺を見つめてる。
なんだ? 俺が何かしたのか? まあいいけど。
「どうも。俺は祐一。まあ、そこにいる大バカヤローの保護者ってとこかな」
さて何を話そうかと考えてるうちに、共通語が自然と口をついて出てきた。語り口が堅いんで共通語の会話は好きじゃないけど、名古屋訛りの日本語じゃ到底通じなさそうだからな。この際わがままは言ってられない。
「私はジュネ・カルム。よろしく、ユーイチ」
まだなんか納得が行かなそうな表情で、ジュネと名乗る女性はそう言いながら俺を見た。
どことなく疑りを込めた彼女の目は、いつだったか警官に訳も分からず職務質問された時を思い出す。
5年ぐらい前だったかな。駅前のデパートでちょっとCD見てただけなのに、そこで誰かが万引きしたらしくて、近くにいた俺がなぜかとばっちり食らった。
「本当にやってないの?」って、若いお巡りにネチネチと10分も疑いかけられるハメになって……ハッキリ言って憂鬱だった。まあ、あの頃は髪も銀色にしてて、格好もいかにも暴走族ってスタイルだったし、とにかくメチャクチャ柄悪かったしな。今は髪も黒髪に戻って、なんだかエセ爽やか青年になってるけど。
それにしても、こんだけ疑り深い視線で見られたんじゃ、なんだか好感が持てないなぁ。ジュネには失礼だけど。
「それよりなんで、こんなムサい所に連れてきたん? コー」
「そうそう。それよりさ、祐さん……アレ見せたってよ」
「なんだよ、アレって」
「だからさ、得意の一芸やって。祐さんの」
あーあ、また始まった。
まあ、コーの事だ。タダで女連れてくるほどお人好しじゃない事ぐらい、こっちも分かってるけどさ。
「ジュネに祐さんの事詳しく話したらさ、どうしてもアレを見てみたいって聞かんでよー。だからさ、ここで一発いいとこ、よろしくお願いしますって」
「あのな。俺は見せもんか? コー」
「はいはいっ! 文句言ってないでやるやるっ!」
俺が悪態をつく間もなく、コーは叫びながら手拍子を始めた。そんなコーの様子をジュネは笑いながら、半分呆れ顔で見てる。
バカ丸出しだぞ。気付け、コー。
「チッ……しゃあねえな」
なんて、口先ではあからさまに嫌そうな素振りを見せといたけど、実を言うと俺は結構乗り気だったりする。まあ、せっかくはるばるフランスからお客さんが来てるわけだし、このまま追い返したんじゃあんまりだしな。
よっしゃ、ここで一発、アレを披露するか。
「えー、ここに一本のタバコがあります。よく見て下さい」
早速、俺はポケットからタバコを一本取りだし、コーとジュネによく見えるように掲げた。その仕草を見てか、ジュネは鋭い目を更に尖らせてじっと俺の手元に目を移す。よし、まずは導入成功だ。
「いい? ホントに一瞬だから、見逃さないようにね」
まだまだお楽しみはこれからだ。俺はタバコをひょいと左手に持って口元に運ぶと、右手の人差し指をゆっくりとタバコの先にかざした。
ポッ……
よっしゃっ!
左手に握ったタバコの先に、ほんの微かだけれど火が灯った。右手に伝わる僅かな熱感と、ゆらりゆらりと立ち上る煙。まっ、とりあえずは成功といったとこかな。
「イェーイ! さっすが、祐さん!」
お約束の合いの手も兼ねて、バカみたいにコーが騒ぎ立てる。これが俺の十八番、ライター無しでタバコに小さな火を灯す術だ。
でも、盛り上がりとしてはどーもイマイチだな。お客さんも、たった二人しかいないし。どっちかって言うと、このネタは酒が入ってる時に、大勢の目の前でやった方がうまくいくし、それに盛り上がるんだけど。まっ、そこらへんは俺自身のテンションの問題かな。
「なっ、すごいだろ、ジュネ? 地元のテレビ局が取材しに来た事もあるんだぜ」
一芸を披露したのは俺だってのに、なぜかコーが誇らしげに自慢話をぶちまける。
コーが言ってんのはホントの話だけど……まあ、テレビ局ったって、オカルト専門のマイナーな茶化し番組だ。テレビ的な盛り上がりとしては悪くなかったかもしれないけど、なんかいかにも売れなさそうなマイナーお笑いコンビがやってきたり、変に大げさにリアクションされたりと、なんだか俺的にはちょっと引いちまったな。
「ふーん……やるじゃない。ねえ、ユーイチ? いつからできるようになったの? それ」
あれ? おっかしいな。
俺はとにかく首を傾げた。なんでか知らないけど、当のお客さんは大したリアクションを見せなかったからだ。それどころか、さっきと同じ職務質問みたいな口調で淡々と俺に問い掛けてくる。
うーん……これを見て驚かなかった人は、今まで一人もいなかったんだけど。相当肝が座ってんのか、それとも単に無感動なのか。
まっ、でも俺自身も、こんな特技なんてそんなに大した事だとは思ってない。第一、こんなタバコ程度の火がつけられるくらいで、得になる事なんてありゃしないし、それほど役に立つ事もない。
……ひょっとして、俺が一番冷めてんのかも。
「ああ……2年くらい前かな。友達と一緒に飲んでた時に、ベロンベロンに酔っ払ってて『ライター無しで火ぃつけてやるぜ!』とか言ってふざけてたら、ホントに火がついちまったんだよ。あん時はマジで夢かと思ったけど、でも現実なんだよなぁ。未だに俺も、なんでこんな小さな火をつけられんのか、分かんないんだけどさ……」
この術を披露すると、大半の人がさんざん盛り上がった後に「で、トリックは?」とか「何を使えばできるの? これ」と問い詰めてくる。けど、この術にトリックなんて物はない。俺でさえも原因は分かんないんだから、トリックどころの話じゃない。
んで、この術を使えるようになった理由を今みたいにつらつら話すと「おいおい、ウソつくなって」と言われるか、テーブルをバンバン叩いて笑われるかのどっちかだ……本当の事なのに。ある日突然、しかも偶然にできちまったんだから、俺自身も何も言いようがないんだ。
けど、ジュネはこんな突拍子もない俺の話を、至って真剣に聞き入ってる。なんか妙だけど、ひょっとしたら外国の人はこの手の話を信じ込みやすいのかな。
「へえー……じゃあさ、次のパーティーにでも、こんな芸はどう?」
なんて、ペラペラ喋ってた矢先。俺の言葉が終わるか終わらないかのタイミングで、クスクス笑いながらジュネはスッと手を挙げた。
ボオゥッ!
「うわあああっ!」
なーんて、何気なしにジュネを見てたのも束の間、事件は起きた……緊急事態発生だ。
ジュネが手を挙げた瞬間だった。タバコを持っていた俺の左手から突然、真っ赤な炎がブワッと上がったんだ。
タバコには微かに火がついてただけなのに、まさかこんな大きな炎が上がるなんて想像もしちゃいなかった。恥ずかしいけどマジでビビッちまった俺は、何も考える間もなくとっさに手をぶん回した。
「熱っちぃー……あれ、タバコは?」
火に翻弄されてさんざんパニックになった俺に、まだ心の休まる暇はなかった。不意打ちで驚かされた次に、今度は自分の目を疑う事になったからだ。
完全に火が消えてから恐る恐る左手を覗き込んでみると、確かに俺が握ってたはずのタバコは跡形もなく消えていたからだ。右手にも、俺の足下にも、見回してもどこにもない。
「アハハハッ。『火の元にはくれぐれもご注意』ってね」
不思議と嫌みっぽくない表情で大笑いしながら、ジュネはふと俺が立っている脇を指さした。
「ウソだろ?」
彼女の指が示すままに瞳を動かした俺は、ただポカーンと口を開けた。
なんていうか……俺がしっかり握ってたはずのタバコは、脇に置いてある灰皿の中にきれいに収まっていた。こりゃ、驚く以外に何もしようがない。
こりゃ逆に遊ばれたな、このジュネって女に。してやられた。不覚。武士の恥なり。ぐはっ。
「すげえ……すげえよ! ジュネ」
「フフッ、まあね」
一転、キラキラ輝く羨望のまなざしで見つめるコーに、ジュネは「どうだ!」と顔全体で言ってるような、なんだか得意げな表情を見せていた。
なるほど。タバコに火を灯す術を偶然身につけた時「俺って、マジすげえ?」とかコッソリ思ってたけど、要するに井の中の蛙だったわけだ。俺よりすげえ奴が、こんなとこにいたなんて。
まったく、こっちは拍子抜けだなぁ。せっかく遠路はるばる来てくれたお客さんをビックリさせようと思ったのに、逆にこっちがビビッちまった。それにしても目の前であんな姿見せつけらたんじゃ、俺の立場は一体何だったのか……
まあ、別にいいけど。
西暦2037年7月12日 15:41
名古屋市営地下鉄 名城線 列車内
「……先頭は依然としてレッドリーブスです。リードは約1馬身半。
2番手には1番人気のローズエンペラー、積極策。
それから3馬身ほど離れましてレディサファイア。
続いて内からライデンプルートが控える展開。
さあ、先頭集団はそろそろ第4コーナーへ!
先頭はレッドリーブス!
ここでローズエンペラー、一気に上がっていく!
残り400メートル!
ここでエンペラー先頭!
ハナを切ったレッドリーブスはもう一杯か!
先頭エンペラー、リードは1馬身!
2番手は内の方でレディサファイアとアラハマムサシ!
先頭エンペラー! エンペラー……
おっと? ここで外からオレンジの帽子の……
ラストサンライズ! ラストサンライズ外からいい脚!
先頭僅かにエンペラー!
サファイアが2番手、内で粘るがここで、
サンライズが伸びてきてこれをかわした!
サンライズ! サンライズ!
これは大番狂わせだ!
ラストサンライズが今、1着でゴールイン!
2着争いはローズエンペラーと、内で粘ったレディサファイア!
ここは微妙な争いです!
勝ちましたのは人気薄のラストサンライズです!
前走の目黒記念7着から一変、これには驚きました!
勝ち時計は2分11秒6!
圧倒的な人気を集めた、天皇賞馬ローズエンペラーは敗れました!
春競馬の締めくくり、宝塚記念を制したのは11番人気のラストサンライズ……」
ガンッ!
「チィッ……バカヤロー。仕掛けが早ええんだよ!」
イヤホンからダダ漏れの競馬中継を祈るように聴き入っていた隣の席のオヤジが、腹いせに座席を思い切り蹴飛ばしてる……ったく、いるんだよな、こういう奴。
大体からして、俺はギャンブラーは嫌いだ。そもそもギャンブルってのは、当たるか外れるか、色んな不確定要素が絡んでくるスリルが楽しいんだろうけど、俺には何がいいんだか訳が分からない。別に分かりたくもないけど。
得られるかどうかも分かんないデカい快楽よりも、常に得られるささやかな快楽の方が、絶対にいいに決まってる。サラブレッドは時に人を裏切るけれど、タバコは俺を裏切ったりしないさ。
「ご乗車ありがとうございます。間もなく、矢場町、矢場町でございます。矢場町を出ますと、次は栄に止まります」
耳慣れた音声が、微かに揺れる列車の中を通り抜けていった。
車両だけはどんどんフォルムが変わっていくけど、この少し耳につくような声と、じめじめした雰囲気だけはガキの頃から変わらない。八事から名駅までの間にかかる時間もどんどん短くなってるけど、大雨が降ると止まっちまうあたりも相変わらずだ。
「ったくよ、コー。栄まで行くんやったら、わざわざ八事まで戻ってくる事なかったやろ?」
「ハッハッ。とかいいながら、祐さんやってちゃっかりついて来とるがや」
「まあな……っとと」
「この列車は、栄方面、大曽根行きです。次は栄、栄に止まります」
コーとの喋りに気を取られてた矢先、列車は突然ガクンと動きだした。駅裏の酔っ払いみたいにふらつく俺を見て、向かいの席に座ってるジュネは含み笑いを浮かべる。
「ねえ、次で降りればいいの?」
「ああ、もう栄は目と鼻の先さ」
続けざまに淡々と問い掛けるジュネに向かって、流暢な共通語でコーは答え返した。チッ……なんだよコー、カッコ付けやがって。女と喋る時は全然態度違うじゃねえか。
「なあ。いつ頃まで日本にいるつもりなんだい? ジュネ」
「そうね……まだ休暇は2週間ぐらい残ってるから、あともう少しは日本にいるつもりだけど。もう東京と横浜は行って来たし、今度は京都に行こうかな」
「そっか。じゃあ、今年の秋ぐらいにも、今度は俺がフランスへ行こうかな……なんて。ハハッ、祐さんが休暇とボーナスくれればの話だけど」
「だったら、この夏はみっちり働いてもらおうな。覚悟しとけよ、コー」
意地悪っぽく俺が答え返すと、コーはやっぱり? って聞き返すような渋い表情を見せた。
つーか、ムチャクチャ言うんじゃねえよ。休暇だなんて……人手が足りないんだからさ。
なんだか、話す事があんまりなくなっちまった。そのまま俺達はしばらくの間、地下鉄にコトコト揺られながら無言の時を過ごした。
こういう意味のない沈黙の時間って、あんまり好きじゃない。なんだか得体の知れない空気に圧迫されてるみたいで、少なくともいい気分にはなれないな。
「関係ねえけどさ。なあ、この列車、なんか冷房効きすぎとらん? さっきからデラ鳥肌立つんやけど……うー、寒っ」
しばらく黙りこくった後。呟きじみたコーの言葉が、ようやくその気だるい沈黙を破った。
奴は首を上げ、ブルブルッと体を震わせながらしきりに辺りを見回す。
「風邪でも引いたんか? コー」
「うーん? そうなんかな」
至って味気ない俺の問いに答えながら、コーはまるで神社の屋根に止まってるハトみたいに、何度も首を傾げてた。なんかちょっと様子が変だけど……まあ、見たところ大した事はなさそうだ。
なんだか実のない話をウダウダしているうちに、列車は徐々にスピードを落としながら、一面の闇の中をスッと抜け出した。
「ご乗車ありがとうございます。間もなく、栄、栄でございます。栄を出ますと、次は久屋大通に止まります」
到着を告げる無機的な音声が、さらりと車内を伝わっていく。その声に合わせて、俺達3人はゆっくりとドアの前に並び、列車が完全に止まるのをじっと待った。
「おーっ、今日はすげえ人だな」
「まあ、休日の午後だしな」
コーの言う通り、見えてくるのはホームで電車を待つ人、人、人。
脂と指紋で曇った窓ガラス越しに映るホームには、ズラリと人が立ち並んでいる。見る限りどこまでも続く人の波を見ながら、コーは声を上げた。
なんていっても、こんな名古屋の中心部ではこれくらいの混雑は珍しくもなんともない。さすがに、今日は心なしか多い様な気もするけど。
それにしても、こんな些細な事にいちいち感嘆してられるコーが、なんだか幸せ者に思えてくるな。
キキキィッ……シュン
と、軽い金属音を響かせながら列車はゆっくりと止まった。そして、目の前にある左右開きのドアが、微かな音を立てて開いた、
と、ここまでは何事もない日常の出来事だった。けど……
ワアアアッ!
ドドドドドドドドッ!
「押さないで! 押さないで下さい! 危険ですので……」
頭、真っ白。
真っ白だ。
俺は一体何が起こったのか、すぐには理解しきれなかった。
まず、俺がなんのためらいもせず列車から降りようとした瞬間、向かいの乗降口からダッシュで乗り込んできた奴にドーンと突き飛ばされて、そのままホームに放り出された……そこまではどうにか分かった。問題はその後だ。
俺を乱暴にホームへ放り出した野郎に、いちいちムカついてる暇なんかなかった。片足だけでどうにかホームに着地した瞬間、目の前がまるで洪水みたいにワーッと人で埋め尽くされて……気が付くと俺は、人の波に無理矢理押し出される格好で、ホームの隅っこにたたずんでいたんだ。
「ハァッ……ハァッ。なに、これ?」
その声にふっと振り向くと……そこには今の俺と同じように、人混みの中でもみくちゃにされてるコーとジュネがいた。
激流みたいに突っ込んでくる人に押されて、二人は俺がいる場所からはどんどん離されていってる。このまま二人が喧噪に飲まれて、押し潰されちまうんじゃ……なんて不安が、俺の脳裏をよぎる。
「どういう事だよ?」
俺はただ、その異常とも言える雰囲気に呆けていた。いくら今日が休日だって言っても、混雑には限度ってもんがある。
以前、かなり売れてるバンドのドームライブがあった時の話だ。ここ、栄がバスや地下鉄の乗り換え地点になってるせいか、この界隈は肩をすぼめて歩かなきゃいけないくらい混雑してた覚えがある。けど、その時だってこれほどの騒ぎにはなってなかった。この街、名古屋に住み着いてずいぶんと経つけど、こんな騒ぎはどう考えても初めてだ。
思いっきり息をつき、どうにか気持ちを落ち着けて辺りを見回してみると……
まず最初に俺の目に映ったのは、さっきまで俺達が乗っていたシルバーの列車の中に、押し合いへし合いしながら一気になだれ込んでいく人々の姿だった。その誰もがみな、猛獣か何かから這いつくばって逃げるみたいに、切羽詰まった表情を浮かべてる。
「すいません。ちょっと……」
「……なんや?」
考える間もなく、俺は側にいた50代くらいのオッサンに声をかけていた。
どうやらオッサンの方も、かなり気が立ってたらしい。片手に握ってた新聞をグシャグシャやりながら、オッサンは俺を冷え切った目で見据えた。
「何かあったんですか?」
「知りゃあせんのか? あんたも幸せもんだな」
俺の問いに素っ気なく答えながらオッサンは、人でぎっしり埋まっている列車がゆっくりと走り出すのを腹立たしそうに見ていた。俺もまた、人々を満杯に乗せて暗闇の中に消えていく列車を見据えてみる。
左右にガタガタ揺れながら、溢れんばかりの人を乗せた列車はまた、次のトンネルへと消えていく。にしても、ひどい揺れ方だ。ありゃ完全に定員オーバーだろう。
ビリビリッ!
「こんな調子やったら、いつまで経っても乗れーせんな。どうしよか」
ヨレヨレになった新聞を腹いせに1枚破り捨て、オッサンはポツリとつぶやく。
ただでさえジメジメしてる上に熱気まで立ちこめてるホームの中は、俺がこの目で見てる限りではどこまでも人で埋め尽くされていた。ここから地上との間をつなぐ長いエスカレータにも人が溢れてて、今は動いちゃいない。
ぼんやりとしたまんま、途方に暮れながら列車を待つ人。苛立ちを隠せずに足を踏みならし、やきもきしてる人。中には列車に乗る順番を巡って、罵声を浴びせ合う人までいる始末だ。
こういう時ほど、人の本性が簡単に透けて見えるな。人間って分かりにくいようで、ある意味分かりやすい。
「なあ、どうする? 祐さん」
凄まじい人混みの中からやっと抜け出してきたコーが、俺の顔を見ながら不安げに問い掛けてきた。その隣ではジュネが、乱れた髪もそのままに激しい息をついてる。
どうするって言われても……この状況じゃなぁ。
「とりあえず外に出てみんと、どうにもならんな……」
とにかく、まずはこの状況を把握するのが先決だ。ここでじっと考えてても、また逆にボケッとたたずんでても意味はない。
減っていくどころか、次第にその数を増していく人の波を必死にかき分けながら、俺達は煮えくり返るホームに背を向けた。
西暦2037年7月12日 15:46
名古屋市 栄 セントラルパーク前
暑い。苦しい。
人の波に押しつぶされそうになりながらも、俺達はその隙間をぬって地下道からどうにか抜け出した。
地下道からはなんとか抜け出したけど、延々と続く人混みからはどうにも抜け出せなかった。地上の様子も、駅のホームと比べてほとんど変わりなかったからだ。
鉄骨が張り巡らされたテレビ塔を目印に、俺達はとりあえず広い公園、セントラルパークまでやってきた。けど……ここもやっぱり人で溢れかえっていた。
公園から生け垣を挟んで隣にある車道は、4車線もあるってのに車でどこもかしこも埋め尽くされてる。更にその歩道には、溢れかえる人の波しかとりあえず見当たらない。
ひょっとして、今日はなんかの祭りだったっけ? いや……違うな。祭りだったらジャンクフードの屋台が出てるだろうし、ここにいる人達も楽しそうにしてるはずだ。
道が混んでる事よりも、何が一番変かって言えば……道行く人の顔が例外なく、悲壮感に満ちてる。
なんか……怖いな。
「ったく……どうなってんだよ?」
「ゲリラライブとか、そんなオチじゃねえだろな」
「まさか」
ふざけたコーの言葉をさらっと流し、俺はまた一歩足を踏み出した。
なんつーか……なあ。地下から抜け出してきても結局、人混みに押されて身動きはとれないままだ。どうなってんだよ。口には出さない独り言を繰り返したまま俺はただ、道路脇で人混みと混じり合いながら途方に暮れた。
アスファルトから照り返す熱が、じりじりと俺に襲いかかる。頬からダラダラ流れる汗を手で拭きながら歩く俺の後ろを、コーとジュネは淡々とした足取りでついてきた。どちらも、率先して前を歩こうとする素振りはない。
割と図太いところがあるコーも、どうやら今日ばかりは落ち着かないらしい。この状況からすりゃ当然かもしれないけど、それでもちょっとソワソワしすぎだ。時々、ため息なんかついたりして。
こいつはなぜだか、あからさまに落ち着かない様子を見せる事が稀にある。で、そんな時に限って何かと災難が降りかかったり、悪い事が次々に重なったり……まっ、たぶん気のせいだと思うけど。
「ちょっと、二人とも……」
さっきからずっと辺りを見回していたジュネが、ブロンドの髪を振り乱しながらふと、道路の向こう側を指さした。
「オーロラビジョンがどうかしたのか?」
俺が声を上げる前に、真後ろを歩いていたコーが彼女の言葉にいち早く答えた。
ジュネが指さしたその先には、向かいのテレビ局のビルに設置してあるオーロラビジョンがあった。普段は番宣が流れたり、アーティストのプロモがちょっとだけ写ったりして、セントラルパークへ来たついでに見ていく人も多い。
そのビルの下では、多くの人々がうつろな表情を浮かべて食い入る様に画面を見ていた。そう言えば、いつもは連続写真のフラッシュみたいにパカパカ変化してるビジョンも、今日は遠巻きから見ても激しく画面が変わる様な感じはない。
変だ……確かに何かが変だ。
「ちょっと、行ってみるか?」
考える余地も、必要もない。俺達3人は同時にうなずくと、車道で立ち往生してる車の波をすり抜けながら、道の反対側へと駆けていった。
「すいません。どうしたんですか?」
「……見てみろよ」
俺は早速、隣にいた学生風の若い男に声をかけてみた。しかし開口一番、男は横柄な態度でそう言い放ち、頭上のオーロラビジョンを指さす。
そんな彼の態度に、いちいち怒ってる暇なんかない。彼の指の動きに合わせるように俺達は、ビルのど真ん中に張り付いてるビジョンにピタッと目線を合わせた。
えーっと……
「……えー、繰り返しお伝えいたします。つい先程、日本海の海上で複数のミサイルが日本列島へ向かっている事を、自衛隊のレーダーがキャッチしました。
ミサイルは朝鮮半島から発射された物と見られ、核弾頭が積まれているものと思われます。今後のミサイル進路予測を行った結果、このミサイルは名古屋市中心部付近を照準に発射されたものと思われ、瀬川首相は臨時の非常事態宣言を出し、対応を急いでおります。
現在、名古屋市内では避難を試みる人々や車でパニック状態になっており、複数の幹線道路などで多重事故が発生、また鉄道などの交通機関では車両に乗り込む際、将棋倒しなどの事故が発生しており、交通網はほぼ麻痺状態となっております……」
……は?
なんつーか、それって……マジ?
「ハハハッ……どこの局だ、これ? 冗談きついな……」
その言葉が、ボーッとビジョンを眺めてた俺を、ふっと我に返した。
首をコキコキ傾けながら、コーはそのニュースを軽く笑い飛ばしてる。だけどその横顔は、ブレイクダンスを踊ってるみたいな軽快な言葉とは裏腹にぎこちない。事実、回りを取り囲む人々は皆、この世の終わりを意識した様な表情を浮かべていたわけだし……それも仕方ないかもしれない。
たぶんコーは、何も認めたくなかったんだろう。けど……これは現実だ。
「NHKだぜ、コー……」
俺の声に、コーは何も答えようとはしなかった。俺も、それ以上は何も言わなかった。
言ったところで、俺達の身がどうにかなるわけじゃない。それに頭の中は、カウンター気味のストレートをもらって意識が吹っ飛んだみたいに、もう真っ白になっちまってた。もう、まともに喋るどころじゃない。
しばらくして俺の脳裏にフワッと浮かんだのは、たった一つの単語。
終わった。
そのまま俺は、悲壮、絶望がグルグル巡ってる人混みからさっさと抜け出した。
これからどうしようかなんて、何一つ頭にない。ただ、鉛を纏っているような重苦しさと、体中をせめぐ脱力感だけが俺の中を駆けめぐっていた。
歩道の脇に並んだ植え込みの陰に腰を下ろして、俺はコーとジュネをじっと待った。
目の前に並ぶ車の列は、さっきから立ち往生したまま一向に動く気配はない。赤、青、銀、メタリック、色とりどりの車体からは、ゆらゆらと陽炎が上がっている。
「……おぅ」
歩道の向こうから、コーとジュネの二人が並んで歩いてきた。俺は遠慮がちに手を振ったけど、向こうからはなんのリアクションもない。
俺は黙々と考えていた。俺達はこれから、どうすりゃいいんだって。いつかテレビで見たウイルス増殖の早送り映像みたいに、焦りだけがポコポコ生まれて俺の頭を埋め尽くす。でも、いくら考えたって、この状況を抜け出す具体案は浮かんでこない。
どうすりゃいいんだ。どうすりゃ。
俺の目の前に立ち止まってるコーとジュネは、さっきから黙りこくってる。コーなんか視線がフラフラしてて、どう見たってまともな状態じゃない。
淡々と、ただ淡々と。サイレントな時間は続いていく。
「なあ、どうする? 祐さん」
俺の隣、ちょうど沿道に植え込んである木と木の間にドカッと座り込み、別に何をするでもなくコーはつぶやいた。
「…………」
けど、俺は何も答えられなかった。
第一、ここから抜け出す手段なんて何も思い当たらないし、それにもう考えたくもない。 もう俺の中に、結論は生まれていた。
終わった。
終わったんだ。
どうせこのまま、俺達は終わりを迎えるんだ。核ミサイル襲来。突如、俺達の前に立ちはだかった現実。とりあえずは平穏無事に過ごしてきた俺達に、いきなり突きつけられた現実。
現実ってのは今まで俺が思ってた以上に、厳しかったみたいだ。「どんな困難にだって勝てるさ その希望さえ失わなければ」なんて無責任に歌ってたシンガーソングライターがいたけど……いくら希望なんて持ってたって、核ミサイルになんか勝てねえよ。
もう、なんとかして助かろうなんて気力は失せてた。ただ俺の頭にある事は、どうやったらできるだけ苦しまずに終末を迎えられるか、悲しいけどそれだけだった。
「……なっ、ちょっと?」
「うらぁっ!」
ギィッ……ウィィィィィィン……
俺達の目の前にいた黒いタクシーのドアが開いて、そこから誰かが派手に転げ落ちた。どうやら運転手みたいだ。客に車、ぶんどられたな。
車道の真ん中に倒れてもがく運転手をコケにするように、タクシーは路肩へ無理矢理突っ込みながらあっという間に走り去っていった。
「俺達も逃げん? そこらへんで車調達してさ」
その一部始終を見ていたコーが、アクセントもハッキリしない口調でつぶやいた。俺はふと、そんなコーの横顔を見てみる。奴の瞳からは、ハッキリとした生命力がなんにも感じられなかった。
「タワケか? ここを抜けたって、すぐに先で詰まってまうって」
「じゃあ、原チャリはどうやろ?」
「……お前、原チャリパクって補導されたのいつやったっけ? ったく、悪知恵だけはよー働くんだな。けど、大体そんな物がここに置いてあったら、とっくに誰かがパクってっとるって」
ダメだダメだダメだ。
もうダメだ。何を考えたって、悪い事しか頭に浮かんでこない。どこへ行ったんだ、プラス思考。
なんか……もうこれ以上、何かを考える余裕なんてない。どこにもない。
重苦しい息を吐きながら俺はふと、コーの更に向こう側に座ってるジュネの顔を覗き込んだ。彼女はずっと口を閉ざしたまま、車道に停滞する車を眺めてる。
「あんたも気の毒だな、ジュネ。せっかく休暇を楽しみに来たってのに」
「……は?」
ジュネの返答に、俺とコーは揃って口をポカンと開けた。
「は?」だって? 何を考えてんだ……この女。俺達が呆れてんのも裏腹に、ジュネは至って呑気に構えたまんま、足をブラブラさせながらくつろいでる。
あっ……なるほど、まだ自分のおかれてる状況が呑み込めてないのかな。知らないってのは幸せな事なんだって、改めて実感する。
「は? じゃねえよ。核ミサイルが落っこちてきて、俺達このまま死んじまうんだぞ。分かってんのか?」
「分かってる。けど、私達は死んだりなんかしないよ」
声をガッと強める俺に、平然とした顔でジュネは返す。
あーあ、こりゃ天然物だ。大方、あのニュースをホントに冗談だと思ってんだろう。かわいそうに。
生け垣から立ち上がって歩み出すと、ジュネは向かい側のガードレールにもたれかかり、俺達と向かい合ったところで微かに口元を緩ませた。
「多くの人が……死んじゃうだろうね。けど、私達は大丈夫だから」
「はぁ? じゃあなんか、助かる手段でもあるって言うんだな? ん?」
ふざけてんのか? この女は。
腹いせも兼ねた刺々しい言葉を、俺はジュネにぶつけた。けど、ジュネは反論どころか何も言わず、右手を挙げて小さく手招きをする。
こりゃ、ますますもって訳が分かんなくなった。互いに首を傾げながら、俺達はとりあえずジュネの元へ駆け寄った。
「残念だけど、ここにいる全ての人を助けるってのは、私一人じゃ到底無理。だけどあなた達二人なら、なんとかなるかな」
そう言いながらジュネは、俺の目の前に右手を、コーの目の前に左手を差し出した。
何をしようってんだ? こんな切羽詰まってる時に。問い詰めようとしても、ジュネは俺の言葉を目の動きだけで牽制する。
「注意しとく事は一つだけ。私がいいって言うまで、この手を握ったまま何があっても絶対に離さないで。まっ、簡単な事だけどね」
「あのな……バカにしてんのか? ジュネ」
「いいから! もう時間ないんじゃないの? つべこべ言ってたら、あんただけ置いてくよ!」
問答無用で怒鳴りつけてくるジュネに、俺はもう返す言葉を失った。
訳がわかんねえ。けど、まあ……こうなったらもう、なるようになれだ。
レット・イット・ビー。ケ・セラ・セラ。もう知らん。
俺とコーは顔を見合わせ、少しためらいながら差し出された手を握った。それに応えるようにジュネは大きく一回うなずくと、ゆっくりと空を見上げた。
空はスカッと晴れてる。こうして感情を何もかも振り切って空を眺めて見ると……気持ちいいな。これからディープ・インパクトが訪れるなんて、かけらも感じられない。
「いいんじゃねぇ? もうこの際、ジュネの言う事聞いたってさ。案外それで助かったりして……へへっ」
あーあ、コーにまでジュネのポジティブ・ウイルスが伝染してる。まあ、この際だし……もうどうでもいいか。一旦開き直ればこっちの勝ちとでも思っとこう。
「俺達3人、お手々つないでサヨナラか。あーっ、楽しいなぁーっ!」
「フフッ、まさか。縁起でもない事言わないでよ」
バラバラとブチ切れた皮肉をぶちまける俺に向かって、ジュネは微かに笑みを浮かべ、今度はふっと横を向いた。
そしてその時、
「………? うぁっ!」
突然、目の前に一面の青色が広がった。空の青とはまた違う。視界に真っ青なフィルターがかかったような、なんだか映画のワンシーンを見てるみたいだ。
いや、それだけじゃない。青色は俺を包む景色全体を飲み込んで、更に視界ごとグルグルと回りだした。どう言い表せばしっくりくるのか分かんないけど、とりあえず俺が持ち合わせてる言葉ではそれしかない。
言い表せないくらいの息苦しさの中で、俺はまるで身体が宙に溶け込む様な感覚を覚えた。手を絶対に離しちゃいけない……そう、ジュネが言ってたっけな。俺はそれだけを考えて、感覚だけを頼りにジュネの手を強く握りしめた。彼女の姿は、深海の様な青と溶けた景色が交錯する視界には映っていない。
そしてそこから先は、何も覚えていない。ただ、どこからか、潮の匂いがサーッと流れ込んでくるような気がした。ただそれだけ……
ズズゥン……ゴォォォォォッ!