ペルシャ防衛戦①
激戦が続く北アフリカ戦線に、英陸軍の主力が拘束されていた。此ことから、中近東軍司令官ウェーヴェル大将も仏領シリアの奪還と、イラク王国とペルシャ王国の政変迄が軍事力行使の限界であった。
したがって、もしヒトラーの要請を受けて、スターリンがザ・カフカス地方やカスピ海を横断して軍事侵攻に出れば、中近東方面の英軍は窮地に陥る。
そこで英陸軍参謀本部としては、中近東方面に新たに連合国側に付いた帝国陸軍を配置する事で、戦力の増強に繋がることを確信していた。
中近東防衛に日本軍の協力を得られるなら、英軍は北アフリカ戦線に、より多くの部隊と航空戦力を投入する事ができる。
今も満ソ国境線では日ソ両軍の間で、緊張状態が続いていることを考慮すれば、スターリンの野望を抑えるのに日本軍を使うのは的確な判断であった。
大日本帝国政府としても、蘭印に続いて新たな石油供給源が確保できれば、戦略的にもプラスになる。
そして、この派兵要請に関して、牧野伸顕外相から打診を受けた際、陸海軍首脳部からも異論は出なかった。
但し、満ソでもソ連軍と対峙しているため、中近東方面へ派兵できる兵力には限りがあった。永田鉄山陸相が三宅坂の参謀本部と相談した上で弾き出した数字は、地上軍部隊は七個師団及び三個独立混成旅団、航空部隊は二個飛行師団(後に渡洋航空兵団に改定)であった。
英国政府からの希望は、[陸軍十個師団以上、空軍三個師団]であったから、戦力的にも充分とは言えなかった。
しかし英国政府は知らなかったが、帝国陸軍では第一次世界大戦の戦訓から、保有師団の自動車化や機械化を積極的に奨めていたため、質においてはソ連軍よりも上であった。
また、派遣第一波には新設された第二装甲師団と機動歩兵連隊が四個含まれていた。
第二装甲師団は、帝国陸軍が開発した新型重戦車である一式重戦車を装備した重戦車大隊を指揮下に置いていた。また戦車部隊と共闘可能な機動歩兵連隊や砲兵大隊を装備した複合師団であった。
英国は装備で劣るペルシャ・イラク両王国に軍を派遣し、親独政権を追放し、親英政権を樹立した。
しかしこの行動は、ソ連を大いに刺激した。
以前よりソ連赤軍の動向に監視を怠らなかった英国外務省は、スターリンがペルシャ北部を狙っていることを、早い時期から予測していた。
但し英国陸軍参謀本部としては、現状の兵力だけでは、赤軍の侵攻には、到底対応しきれないことを認めていた。
例えば、ザ・カフカス方面だけでなく、カスピ海沿岸部や中央アジア方面からも相次いで攻め込まれると、中近東方面軍は完全にお手上げであった。
英中近東方面軍が編成できるのは、三個師団基幹の一個軍団に過ぎない。残る二方面からの侵攻を阻止するためには、最低でも二個軍団、六個師団が必要であった。
英軍としては、残る二方面に帝国陸軍中近東派遣軍の部隊を配備する予定であった。
しかしクウェートに上陸していたのは、まだ三個師団に過ぎなかった。
そこで、連合国軍の防衛態勢が整うまでの間、赤軍の侵攻を航空攻撃により押し止めようと考えた。
帝国海軍連合艦隊の母艦航空隊をクウェートに陸揚げしたのも、陸軍航空隊の準備が整う迄の一時的な措置の筈であった。ところが、中近東軍司令部の予想よりも早く、スターリンの命令を受け、赤軍が動き出した。
真っ先に国境を突破したのは、コーカサス方面のザ・カフカス方面軍管区に集結していたメレツコフ上級大将指揮下の侵攻部隊であった。
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