“辟易”に辟易する
正直な話、こんなものを投稿していいのか迷うがムカつくことがあったので腹立ち紛れに。
辟易という言葉がある。
うんざりするとかたじろぐという感じの意味である。
語源は史記で、辟はしんにょうが抜けているが避けると同じ意味であり
易は「変える」という意味があるそうである。
道を譲って厄介事の迫る運命を変える、嫌な運命から逃げるってのはなんとなくわかるのである。
そこから転じて現在の意味になるのもまぁわかるのである。
でもそのへんはとりあえずどうでもいいのである。
自分が気になるのは文章内での活用であり、どういうことかといえば
「辟易する」 「辟易とする」 という二種類が巷間で当たり前に使われている件なのである。
ちょいと調べてみると現代ではつまるところどちらでもよいとされているようなのである。
これが困るのである。
自分はわがままかつ柔軟性に欠けている人間で、脳内では「辟易する」が正しいと固定されてしまっているのである。
うんざりするほど嫌なことがあったときなど
「ああ、自分は今辟易してるな」
と感じることはできるが
辟易"と"するためには『辟易』のイメージを作り、それに沿ったことをしないとダメなんじゃないかと感じてしまうのである。
『辟』などという辟易以外では一生使わないような漢字でイメージを形成するのは困難なのである。
自分の中で強いてそのイメージを形にすると、森田まさのり先生のろくでなしブルースの舌出しポーズになってしまうのである。
(ろくでなしポーズ で画像検索していただくとおわかりになると思う)
当然ながら、読んでいる小説の中のイメージとはおよそそぐわないのである、大抵の場合。
そういうわけで「辟易とする」が目に入るたびに脳内の誤字センサーが誤作動してしまうのである。
ついでに「彷彿させる」「彷彿とさせる」でも同様の現象が起こるのである。
そう、まったく個人的な問題であり、正しいことなんだから認めろよという一言で済む話なのである。
なろうに投稿するような話ではないのであるが、これがまたどうにも直せないのである。
仕方がないので
「“わかっちゃいるけどやめられない” と作詞した青島幸男は偉かったな」
「当然ながら自分が正しいと信じる感覚だけでは世間は回らないのであるな」
などと埒もないことを考えては、このポンコツでナイーブな心を守るのである。
そしてなんとなく語尾をあるにしまくってみるのである。