第8話 叶わぬ自己犠牲
「待て、素人! リソースを置いていけ!」
背後から追いかけるようにして聞こえてくる怒鳴り声に恐々としながら、紫音は花音の手を握り走る。
(な、何言ってるのか意味が分からない……!)
突然の事態に狼狽えながらも、紫音は辺りを見渡す。
周囲には逃げ込めるような場所も、助けを求められるような人影もない。たまに大きな岩があるだけの不毛の大地だ。
振り返ると未だ右目が回復していないのか、学はヨタヨタとした足取りをしている。
(だけどこの調子じゃ、いつ追いつかれるか分からない……)
紫音はとなりを懸命に走る花音の方を一瞥する。
花音はよく頑張っているが、幼い彼女を連れて逃げ切るのは難しい。子供の足では限界がある。かと言ってこのまま花音の合わせて走っていては、いずれ追いつかれるのは自明だ。
このまま二人一緒に走っていては、二人共まとめて捕まって殺される。ならば――
(仕方ない……か)
覚悟を決めると紫音は逃げる足を止めた。
「お姉ちゃん?」
花音が不安げにこちらを見上げる。そんな愛する妹の肩に手を置くと、紫音は言い聞かせるようにして語りかけた。
「私が奴を引きつける。花音、あなたはここから一人で逃げなさい」
「私だけじゃ駄目だよ! お姉ちゃんも逃げないと!」
そう慌てたように言う花音を見て微笑むと、紫音は妹の頬を撫でる。土埃に晒されても柔らかな彼女の髪が指に触れた。
「私は別にいいの。最後にあなたを護ることが出来ればそれでいい」
「お姉ちゃん……?」
「私ね、ずっと後悔していたの。あの日、あなたを助けてあげられなかったことを」
あの事故の日のことは何度も夢見た。
車に跳ね飛ばされ、コンクリートに叩きつけられた血まみれの妹。そしてそれを助けられずにただ泣き叫ぶだけの無力な自分。
夢から目覚める度に後悔した。
どうして自分たちはあの日、あそこに行ってしまったのか。
どうして自分は彼女を助けてあげられなかったのか。
どうして死んだのが自分ではなく花音だったのか。
「あなたを助けることが出来るなら、私はどうなってもいい」
たとえこれが電脳空間などというワケのわからない世界であっても、自分は妹を助けることができるのだ。妹のために犠牲になることができるのならば、こんなにも幸運なことはない。
きっとこれは、神様がくれたやり直しの機会なのだ。酷い神様だと思っていたが、中々どうして粋な面もあるものだと紫音は思う。
「早く行きなさい!」
そう叫んでから紫音は振り返る。正面にはいつの間にか、息を荒くした学の姿があった。
「よくも手こずらせてくれたなァ!」
先程まで残されていた紳士的な面影はもう無い。口から涎を垂らす彼は、獲物を追い立てる獣のようだった。
「理由はよく分からないけど、あなたの狙いは私なんでしょ。だったら一つ約束して。花音には手を出さないで。そうすれば私はこれ以上何も抵抗しない。大人しく殺されてあげるわよ」
「……いいだろう。俺の狙いは最初からお前だけだからな!」
そう言って学は大鎌を掲げる。刃に鈍い赤色の光が灯った。
その光景を見て紫音はそっとうつむく。
これでいい。あとはこの隙に花音が遠くまで逃げてくれていればそれでいい。
花音はもう遠くまで逃げてくれただろうか。それともまだ、もう少しだけ自分は時間を稼ぐべきだろうか。
そんなことを考えたその時、ふと視界の端に何かが見えた。細い脚に黒の小さなローファー。見覚えのあるそれらに紫音は慌てて顔を上げる。
自分の目の前には、とっくに逃げたと思っていた花音の姿があった。
彼女は紫音を護るようにして両手を広げて学の前に立ちふさがっている。
「花音……? そこで何をしているの?」
眼前の光景がにわかに信じられず、紫音の口から震え声が漏れる。
花音はこちらを振り向くこと無く答えた。
「だめだよ。お姉ちゃんを置いてにげられない」
「花音! どうして!?」
「だってわたしは――!」
「邪魔だ!」
学は舌打ちすると、容赦なく花音の身体を蹴り上げた。
――花音の身体がボールのように宙を舞う。
「あ……」
まるで、スローモーションのように見える光景。
その光景に、紫音は小さな声でつぶやいて、ただただ呆然とするより他になかった。
紫音の眼前で花音の小さな身体が、地面に激しく叩きつけられる。悲痛の表情を浮かべながら、彼女はその場で身体を小さく丸めた。
(何、これ)
眼前に広がる光景に紫音はただそう心の中でつぶやく。
目の前で苦しむ妹とそれをただ見つめるだけの自分。
助けるなどと偉そうなことを言っておいてこの有様。これでは何もかもあの時と同じだ。
身体の力が抜けてしまい、紫音はその場にへたり込む。
それでも必死に震える手を伸ばし、何とか目の前に倒れる花音の手を取る。
唯一、あの時と違うのは、未だ彼女の身体が温かいことだけだった。
「電怜には用はねえ。用があるのはプレイヤーだけだ」
大鎌を携え、学はゆっくりとこちらへ向かって歩いてくる。
近づいてくる足音を聞きながら、紫音は花音の手を握る力を強める。
「ごめんね、花音。折角会えたのに、またあなたを助けられなかった……」
不意に、紫音の瞳から溢れた一滴の雫が乾いた大地を濡らす。
自分にできるのは四年前と同じ様に花音の側で彼女に謝り続けることだけ。そんなことを考えていたら、己の無力さに涙が出てきてしまった。
その時、花音の手がそっと紫音の手を握り返す。
花音の顔を見ると、彼女はこちらに優しく微笑みかけた。
「お姉ちゃんが……にげないなら、いっしょに戦おう……!」
その言葉が小さな唇から漏れた瞬間、花音の身体が眩い碧色に光り始める。光は瞬く間に周囲を覆い尽くした。
この光、色は違えど見覚えがある。先程、アザミが大鎌になった時と同じものだ。
「ま、まさか……!」
目を開くのも困難な眩しさの中、学が驚嘆の声を上げた。
光の中で、紫音は自分の身体が燃えるように熱くなるのを感じる。
まるで頭を切り開かれ、そこにドロドロに溶けた鉄の鉛を流し込まれたかのような、そんな感覚。だが不思議と彼女はこの苦しみに多幸感を覚えていた。
それはきっと、自分の身体に流れ込むものが花音を感じさせてくれるからだろうか。
やがて身体を蝕む心地の良い苦しみが治まる。それと同時に周囲を覆っていた光が収束し、視界が再び元通りになった。
紫音の眼前から花音の姿は消えていなくなっている。代わりに花音の手を握っていた手の中は、一本の剣があった。
刀身は鮮やかなターコイズ色をしており、まるで揺らめく炎の様に波打っている。きっとこの世のどんな宝石よりも綺麗な刀身に、紫音は頭をぼんやりとさせながら魅入る。
「何も知らねえド素人が電怜の武器化に成功したってのか!?」
その声にハッと顔を上げると、学がこちらを見て信じられないという顔をしている。紫音は立ち上がって、すかさず学から距離を取った。
『お姉ちゃん、聞こえる?』
不意にどこからともなく花音の声が聞こえる。まるで直接頭の中に訴えかけてくるような声に、紫音は慌てて辺りを見回す。だが花音の姿は、どこにも見当たらない。
「聞こえるよ! 花音、あなた今どこにいるの?」
『ここだよ。お姉ちゃんの手の中』
「手の中って……」
紫音は手にした剣を見つめる。まさかこの剣が花音だとでもいうのだろうか。
「花音、あなたまさか……」
『説明はあと! 今は目の前の敵に集中して!』
花音に言われ紫音は急いで正面に視線を向ける。
眼前では今まさに、学がこちら目掛けて紅色の大鎌を振り払わんというところだった。
(させるか――!)
紫音は振り払われた大鎌を剣で弾くと、間を置かずに返す刀で斬りかかる。
碧色の流線が学の右手首を斬り裂き、次の刹那、大鎌と彼の手首がそれぞれ音を立てて地面に落下した。
「ああああああァァァァァァァァッ!!」
痛みに耐えかね、学の絶叫が辺りに大きく響き渡る。まるで地獄の底から聞こえるような、聞く者全ての背筋を凍らせる身の毛もよだつ悪魔の如き悲鳴。
だがこの時、紫音は別のことに意識を向けていた。
不思議だ。
生まれてこの方、剣なんて一度も手にしたことがないはずなのに、まるで身体に染み付いたかのように戦い方がわかる。どう振るうべきか、どう立ち回るべきか、その一切が明らかだった。
「きっさまぁァァァァァァァァッ!!」
狂ったような声を上げて怒りの感情を爆発させた学は、残された手で再び大鎌を掴むと、紫音めがけて大きく振り上げる。ただその行動は怒りに任せたものだったせいか、先程よりも明らかに隙だらけだった。
一方で、紫音は静かに、そして冷静に剣を構える。
もう一つ不思議なことがあった。
それは目の前の男を斬ることに対して、何の躊躇いもないことだ。
(よくも花音を!)
妹を傷つけられたことに対する明確な殺意をもって、紫音は学に向かって剣を薙ぐ。
学の身体に横一閃が走り、刃を通じて肉と骨を断つ感触が手に伝わる。ただ得物が相当の業物であったのか、初めて人を斬った感触は野菜を切るよりも遥かに軽かった。
「く……そが……!」
上半身と下半身が皮一枚で繋がったまま呪詛を吐いて、学の身体は地面へと倒れる。彼はしばらく紫音を睨んでいたが、やがてその目から光が消え、身体は動かなくなった。
学の身体から流れる赤い血が、乾いた地面を徐々に広がっていき、紫音の靴底を汚す。
初めて犯した殺人の不気味な余韻に浸りながら、紫音はいつの間にか荒くなっていた呼吸を整える。
罪悪感は無かった。
やらなければこの男は自分だけではなく花音も殺したかもしれないのだ。
「そうだ、花音!」
姿を消した妹のことを思い出した紫音は、自分が手にしている剣を見つめる。
『ここだよ、お姉ちゃん』
頭に響くような声は、確かに剣から聞こえる。信じられない話だが、この剣が花音だということなのだろうか。だとすれば、何故彼女はこのような姿になってしまったのか。
一体何が起きているのかと、紫音が口を開きかけたその時、
「お見事」
突として背後から乾いた拍手と一緒に声が聞こえてくる。そちらに顔を向けると、岩の上には見覚えのある人影が立っていた。
「あ……!」
紫音の口から驚きが漏れ出る。
そこにいたのは、健康診断の際、病院の診察室で出会った男、蔵野だった。
しかし今の彼は白衣ではなく、黒の燕尾服という出で立ちをしている。まるで執事のよう風体だ。
「まさか、君の方が勝つとは。私は君が負ける方に賭けていたんだがね」
蔵野は地面に転がる学を一瞥すると、再び紫音の方に目を向ける。
「シトリナ様が君をお呼びだ」
そう言って蔵野が指を鳴らした瞬間、突如、紫音の身体が白い光に包まれる。慌てて光から逃れようとする紫音だったが、逃れようにも光はどんどんとその大きさを増していく。
そのあまりの眩しさに耐えられなくなり、紫音は思わず目を閉じた。
次更新20時辺りです。