第46話 彼なりのハッピーエンド
………………死神の刃が振り下ろされる気配は無い。
一体何が起きたのかと、両目を開けて、恐る恐る顔を上げた紫音は、
「あ……」
驚きに小さく声を漏らす。
仁王像のような屈強な身体。短く逆立った黒い髪。銀の長槍。
「何だお前は。忍者のコスプレか、それ?」
目の前には、自分と梵の間に割って入るようにして長槍を携えた裕貴が立っていた。
そんな彼の姿を見咎めて、梵は頭巾の奥の目を細める。
「む、アガルトリアの番犬か。入り口は塞がっていたはずだが、君はどこからここに入ってきた」
「ちょっとばかし、俺のいる部屋からこの部屋までの最短経路をウチのセグメントマスターに新しく作ってもらってね。そこを通って来たんだ」
裕貴が軽く顎をやった方には、先程まで存在しなかったはずの扉が一直線にいくつも開け放たれている。
「それよりお前、ハナから防衛プログラムを相手に体力とリソースを消耗したこいつらを始末しようって算段だったのか? 中々卑怯なことを考えるもんだ」
「君の言う通り。あの怪物を相手にリソースを使わずに戦うことは不可能。戦いが終わった後に狙えば、確実に殺せると踏んだのだが、こんなにも早く君がここに来てしまうとはね。それにセグメントまで奪われて――」
そこまで言いさしてから、梵は相変わらず無感情な瞳で裕貴を睨みつける。
「一応聞くが、フラグステーションは今どこにある?」
「誰がテメェに教えるか」
「……分かっている。聞いてみただけだ」
そう低くやや残念そうにつぶやくと、梵は踵を返す。
「目の前で獲物を逃がすというのは屈辱ではあるが、セグメントを奪われた今、アガルトリアの番犬を出し抜いてそこの少女を殺すというのは、いささか拙には荷が重いな。ここは一旦、引かせてもらうとしよう」
そのくぐもった低い声に、裕貴は「ああ?」と素っ頓狂な声を上げる。
「簡単に逃げられると思ってんのか? ここはとっくに俺たちのセグメントだぞ」
「生憎と、逃げる術ならいくつか用意している」
次の瞬間、突然の破裂音と共に梵の姿が紫色の濃い煙に包まれる。身構える紫音と裕貴だったが、煙が晴れた次の瞬間には梵の姿はどこにもなかった。
「典千紗! 奴がどこに行ったか分かるか!」
『それが捕捉しようとしたら、一瞬でエリュシオーネから消えたよ。おかげで追跡もできない! 何者だい、そいつ!?』
「……さあな。まあひとまず、これでこのセグメントから敵は完全に居なくなったわけだ」
裕貴は舌打ちすると、ブンと槍を振るう。
梵がいなくなったことでひとまず危機は脱した。だがまだすべてが解決したわけではない。
紫音は渉を抱き起こす。
「渉、しっかりして!」
声をかけてみるも、彼は苦しそうに息を荒げるばかりだ。
このまま渉の体力がゼロになれば、彼は負けた代償を支払わねばならない。しかしエヴォルグとの戦いでリソースを大きく消費したせいで、今の彼のリソースシグナルはレッドを示している。危険域だ。とてもリスポーン分のリソースを支払うことなど出来ないだろう。
――背に腹は代えられない。
紫音は裕貴を見上げ、すがるように懇願する。
「ね、ねえ……、お……あなたは、まだリソースに余裕があるでしょ? お願い、少しでいいの、渉に分けてあげて……」
裕貴は紫音の腕の中の渉へと視線を落とす。ほんの僅かに、息も絶え絶えの少年の顔を見つめて……それから小さく首を横に振った。
その反応に紫音はしばらく呆気に取られていたが、やがて顔を歪め、柳眉を逆立てて吠え立てる。
「何でよ!? 渉が敵だから? それとも私のことが嫌いだから!?」
食って掛かるも裕貴は何も答えない。ただ二人から視線を逸らすだけだ。
「もういい! お前なんかに期待した私が馬鹿だった!」
憤然として紫音はターミナルを立ち上げる。
自分のリソースも大した量は残されていないが、今自分が持っている分を渉に渡せば何とかなるかもしれない。そう考え、紫音は急いで彼に自分のリソースを譲渡しようとする。だが――、
『対象プレイヤーにリソースを譲渡することはできません』
『対象プレイヤーにリソースを譲渡することはできません』
『対象プレイヤーにリソースを譲渡することはできません』
視界にはウィンドウと一緒にそんなメッセージが赤く表示されるばかりだ。
「何で! 何でよ……!」
悲痛な表情を浮かべ、ただひたすらに苛立ちをターミナルへとぶつける紫音。それでも表示されるメッセージは変わらない。
だがやがて、彼女の声に意識を取り戻したのか、虚ろな目をした渉が微笑みかける。
「……無理だよ、紫音」
「渉!」
「リソースを……譲渡できるのは、体力のあるプレイヤー、に対してのみだ。僕の体力は、既に尽きている。システム上無理なんだよ……」
「そういうことじゃない! 何で私を庇ったりなんかしたの!!」
「……何度も言わせるな。僕が強くなりたかったのは、君を守るためだ。君を、見捨てられるわけないだろ……?」
そう言う彼の身体は小さく震えていた。きっと今の彼が感じているのは、死にゆくことへの恐怖だ。それでもそれを懸命に隠そうとしているのか、彼は普段通りに振る舞って見せる。
「ねえ渉、今のあなたにならお願いできる。私と一緒にアンリアルを攻略してほしいの。あなたがいれば心強い」
「それは無理だよ、紫音。……僕は、ここでゲームオーバーさ」
「あなたは非力な子供の自分じゃ、私の助けにならないって言った。だから電怜の技術を求めているんだって。……でもそんなことない。お願いだから……置いていかないで……!」
渉の言葉に、それでも紫音は諦めきれないような悲痛な表情を浮かべる。
そんな、まるでだだをこねる聞き分けの悪い妹分を諭すように、渉は掠れる声で紫音に語りかけた。
「そんな悲しそうな顔をしないでくれよ。このゲームを始めて最初に人を殺した時、いくつか考えていた自分の終わり方の中……その中のどれよりも悪くない、最高の終わり方なんだぜ? こうして君の腕の中で死ねるんだからさ」
すっかり血の気が引いた渉の冷たい手が、震える紫音の手を握る。
「どうか……君にも、そう悪くない結末があらんことを……」
そう満足げな笑顔で言い残すと、少年は少女の腕の中で光となって消えた。
残された少女は、ただ力なくうなだれるだけだった。