第4話 希望する死
「ねえ、あなた。ちょっと大丈夫?」
声をかけられ、紫音はゆっくりと目を開く。虚ろな視線の先では、白い看護士の格好をした若い女性がこちらを心配そうな顔で覗き込んでいる。だが紫音が目を開いたことで安心したのか、女性は安堵したような笑みを浮かべた。
「よかった、目を覚ましたのね」
「……あれ?」
紫音は辺りを見回す。
老人や松葉杖をついた人々が椅子にのんびりと腰掛けており、白衣姿の男女がせわしなく行き交っている。時折、チャイムの後に人の名前を呼ぶ声が聞こえる。ここはどうやら病院の待合室のようだった。
自分は看護師に起こされるまでここで眠っていたらしい。だが、どうしてこんなところで眠っていたのだろう。紫音はぼんやりとした頭を懸命に稼働させて、記憶を辿る。
確か自分はこの病院に健康診断を受けに来たのだ。そして受付を済ませ、名前を呼ばれた自分は診察室に入り、そこで診断を受けている最中に意識が朦朧としてきて、それで花音の夢を見て――……。
(あれは本当に夢だったんだろうか)
花音が死んでから彼女を夢に見ることは幾度もあった。だけど先程見たのは、これまで見た夢の中で一番リアルだった。そう夢なんかではなく、まるで本物のような――、
「あなた、泣いてるの?」
「えっ?」
看護師に指摘されて紫音は慌てて自分の頬に触れる。指が暖かな液体に濡れた。頬に触れた指を見てみれば、指先についた透明なそれは涙だった。
悲しくなどないはずなのに、どうして自分は泣いているのだろう。もうずっと泣いていなかったはずなのに。涙など、とうに枯れたと思っていたはずなのに。あんなにもリアルな花音の夢を見たせいだろうか。
考え込む紫音。そんな彼女の顔を看護師が覗き込む。
「あなた……もしかして星宿紫音さん?」
「そうですけど?」
「やっぱり」
突然自分の名前を呼ばれたことに困惑する紫音を置いて、看護師は合点がいったような顔をする。
「さっきからずっとあなたのこと呼んでいるのに、来ないからおかしいと思っていたのよ。こんなところで寝ていたのね」
「私に何か用ですか?」
「お会計、準備出来たわよ」
お会計。
彼女の言うお会計とは、もしかして健康診断のお会計のことだろうか。
「いや、それが私、健康診断の途中で寝てしまったみたいなんですよね……」
そう照れ笑いを浮かべる紫音に、看護師は怪訝な顔をする。
「何を言ってるの? あなたの健康診断はもう終わったわよ」
* * *
自宅マンションのエレベーターに乗りながら、おかしなこともあるものだと紫音は思う。
結局彼女は、健康診断を受けることなく、そのまま自宅へと帰ってきてしまった。
しかしそれもやむを得ない。あれから何度看護師に事情を説明しても、『健康診断は終わった』の一点張り。その内紫音も埒が明かないと考え、受けてもいない健康診断の料金を精算して病院を出てきたのだ。
(まさか夢を見ている間に健康診断を受けていたっていうの?)
ひょっとして厄介な病気にでもかかっているんじゃないだろうか。これでは健康診断の結果が心配だ。受けた記憶など無いが。
そんなことを考えながら、紫音はエレベーターから目的のフロアへと降りる。
何にしても健康診断は終わった。それも予想よりもずっと早くだ。これで残りの時間は花音と楽しく話が出来る。
そう前向きに一歩踏み出したその時、突然、視界にノイズが走る。いきなりのことに紫音は額を抑えて一歩前によろめく。そんな彼女の視界を再びノイズが走った。ノイズは徐々に視界全体へと広がっていく。
混乱の中で紫音は不思議と直感していた。
間違いない、先程の夢で見たものと同じノイズだ。
(何なのこれは……)
よろよろとマンションの廊下を歩きながら紫音は困惑する。
ノイズのせいだろうか。何だか気分が優れない。心なしか熱もあるような気がする。
病院に行って健康診断を受けた帰りに体調を悪くしていては世話がないと笑いながらも、紫音は自分の置かれた現状に対して内心は酷く焦っていた。
無理もない。今や彼女の視界のほぼすべてがノイズで一杯だったのだから。
どうやって鍵を開けることができたのかは自分でも分からなかったが、紫音は何とか自宅の玄関ドアを開けて家の中へと入る。
靴を脱ぐ余裕など無かった。
そのまま廊下を抜けていつものように花音の元へ向かおうとしたところで、ついに視界がすべてノイズで埋め尽くされる。
前後不覚になり、慌てて壁に寄りかかろうとするも足がもつれてバランスを崩す。大きな音を立てて床に倒れ込み、紫音は胸を抑えた。
(苦しい……)
酸素を求める魚のように必死で口をパクパクと動かす。
だが紐か何かで首を縛られたかのように、息を吸うことが出来ない。身体を思うように動かすこともままならない。
まるで自分の身体が自分のものではないかのような、そんな錯覚に襲われる。
助けを呼ぶために携帯電話を取り出そうとする紫音だったが、小指一本動かすことすら叶わない。
――自分はこのまま死ぬのだろうか。
一瞬そんな不安が紫音の頭をよぎる。だがそれはすぐさま小さな期待に変わった。
それもいいかもしれない。どうせこんな世界、いたっていいことなんて一つも無い。クラスメイトも両親も、神様も、何もかもクソッタレな世界だ。
それよりも、死ねばもう一度あの世で愛する妹に会えるかもしれない。ならここで終わったって……死んだって、別に構いはしない。
そこまで考えてから、紫音の意識は完全に途切れた。