第2話 過去を引きずる少女
「ハイ。じゃ、今日の授業はここまで~」
教師の言葉と六時間目終了のチャイムによって退屈な授業から解放された生徒たちは、喜びの声を上げる。
「おい、今日お前ん家でゲームしようぜ」
「あー、部活かったり~。サボっかなー」
「いやいや、後々怖いことになるからやめとけって」
「ちげーよ。そうじゃねーだろー!」
「ねえ、一緒に駅前行こうよっ!」
ある生徒は部活動、またある生徒は友人と遊び。皆がそれぞれ、思い思いの放課後を過ごそうとしている。
そんな和気あいあいとした教室の中でただ一人、星宿紫音だけは支度を済ませると、その艶やかな濡れ羽色の髪を翻してさっさと教室から出て行こうとしていた。
「星宿さん」
そんな彼女を一人のクラスメイトが呼び止める。紫音と同じ、黒のセーラー服にスカートという出で立ちをした彼女は、どこか緊張したような面持ちだった。
「何ですか?」
そんなクラスメイトに対して紫音は、冷たい切れ長の目と慇懃だが突き刺すような声音の言葉を向ける。そのあからさまに棘のある声に、クラスメイトの少女は一瞬怯んだような表情を見せた。
「あ、あの……保健室の先生が、用事があるからって星宿さんのこと呼んでたよ。それだけだから……!」
言い置いて彼女はそそくさと紫音の元を離れると、別のクラスメイトのところへ行ってしまう。
「大丈夫だった?」
「怖かった~」
「本当何様なのかしらね。少し美人だからって勘違いしてるんじゃないの?」
「しっ! 声大きいよ、聞かれちゃうって!」
そんな話をしながら彼女たちは教室を出ていく。
その様子を見届けた紫音は、ふと自分の背中に他のクラスメイトたちからの冷たい視線が突き刺さるのに気づいて小さくため息をつく。
別に構いはしない。いつものことだ。そう気を取り直してから、彼女は先程クラスメイトの少女が言っていた言葉を思い出す。
保健室に呼ばれている理由は何となく察しがついていた。
ただそれは本当にどうでもいい理由で、普通なら行かないという選択肢もあるはずだった。だがもしここで行かなければ最悪の場合、自分の両親に連絡が行ってしまう可能性がある。
それは紫音にとって本当に最悪のことだ。
(仕方ない……)
そう諦観すると、彼女は鞄を肩に背負い上げて、憂い気な足取りで保健室へと向かった。
* * *
「失礼します。二年A組の星宿紫音です」
保健室のドアをノックしてから、返事も待たずに紫音は中へと入る。室内には消毒液の匂いが充満していた。
紫音の声に気づいたのか、壁際の机に座っていた白衣姿の女性が振り返る。
後ろ手に髪を結んだ妙齢の女性。何となく咥えタバコの似合いそうな気のする彼女こそが、この学校の養護教諭、俗に言う保健室の先生だった。
「ああ、星宿さん。よく来てくれたね。どうぞ座って座って」
「失礼します」
紫音は勧められたやや硬めの黒い丸椅子に腰掛けると養護教諭と向かい合う。
養護教諭は綺麗に片付けられた机の上から一枚の白い紙を手に取ると、早々に本題を切り出してきた。
「星宿さん、あなたこの間の学校の健康診断受けなかったでしょ」
やっぱりこれか、と紫音はその綺麗な顔を気づかれない程度に不快に歪める。
確かに彼女は、今年の四月に行われた校内の健康診断を受けなかった。でもそれはその日たまたま風邪を引いてしまったからであって、故意に行かなかったというわけではない。
「ウチは……と言うより他の学校でもそうなのかもしれないけど、健康診断を受けられなかった生徒には自分で病院の方に行って、そこで改めて検査を受けてもらうことになっているの」
そう言って養護教諭は手にしていた白い紙を紫音に手渡す。そこには病院の住所と簡単な地図が書かれていた。
「それでね、明日大丈夫ってところがあるの。悪いんだけど、そこで受けてくれるかしら」
「明日って休みですよね? 土曜日」
若干わざとらしい驚きを含むその言葉には、『何故休日に学校の用事のために、わざわざ時間を割かねばならないのだ?』という意味が隠されることなく含まれていたのだが、養護教諭は眉を上げるとわざとらしくため息をつく。
「そう言われても明日しかないから。それに、行ってくれないとなると、ご両親にも連絡させてもらうことになるのだけど?」
その言葉に紫音は内心舌打ちする。
早々に抜かれた伝家の宝刀『両親』
大方、担任辺りからこれを言っておけば言うことを聞くと聞いていたのだろう。嫌な大人のやり口だと、心底嫌になる。
だが紫音の反感を買うことを厭わずに彼女を動かしたいのなら、そのカードの切り方は間違っていない。
「で、どうかしら?」
「……分かりました。明日ですね。間違いなく行きます」
紫音にNOを言う選択肢は無かった。
* * *
帰宅部の上に友達もいない紫音は、保健室での用事を済ませると真っ直ぐと自宅マンションまで帰ってきた。
マンションと言っても住人は自分一人のこぢんまりとした1Kの部屋だ。テーブルがあってベッドがあって、棚の上にテレビがあればそれでほとんど埋まってしまう。もっとも、お金を出してもらっている身分でこれ以上望むべくもないのかもしれないが。
玄関のドアを開けた紫音は、靴を脱ぎ捨てると脇目も振らずにリビングへと向かう。そしてテーブルの上に飾られた写真立ての前で静かに手を合わせた。
花瓶に生けられた色とりどりの花と今朝作ったおにぎりが供えられた写真立て、そこには楽しそうに笑う少女の写真が飾られていた。
「ただいま、花音」
先程までの仏頂面から一転、紫音は写真へと優しげな笑みを見せる。こうしてこの写真に向かっているこの瞬間だけが、唯一、彼女が笑顔を見せる瞬間だった。
写真に映っている栗色の髪の少女の名前は星宿花音。紫音より四歳年下の妹だ。
昔は、二人一緒に近所を歩けば『美人の仲良し姉妹』などと言われたものだ。
紫音は妹のことが大好きだった。花音もそんな紫音によく懐き、二人はいつも一緒だった。
――そんな花音が死んだのは今から四年前。
紫音は今でもその時のことを鮮明に思い出すことが出来る。時々夢に見ることもあるくらいだ。
二人で一緒に横断歩道を渡ろうとしたその時、信号を無視して突っ込んできたトラックが花音をはね飛ばした。
小さな身体が宙を飛んで、嫌な音と共にコンクリートの上に落下した。
あまりに一瞬の出来事に何が起きたのか理解できなかった紫音は、しばらく呆然としていた。だがやがて、小さく呻くように姉の名前を呼ぶ妹の声が彼女の意識を引き戻す。
泣き叫びながら紫音は花音の元に駆け寄ると、その小さな手を握って何度も彼女の名前を叫んだ。
しかしその呼びかけに妹が応えることはない。
見る見るうちに血溜まりが路上に広がっていく。周りの喧騒がどこか遠く別世界の物のように思えた。
救急車が到着したのは、それから十分も経ってからのことだった。
結局、花音が助かることはなく、九歳の幼い命の灯火はかき消されてしまった。
花音が死んでから家族の関係は最悪なものになってしまった。
すっかり気がおかしくなってしまった母親は、紫音と顔を合わせる度に、『花音が死んだのはお前のせいだ』と責めるようになった。酷い時には殴られることすらあった。
そんな紫音のことを不憫に思ったのか邪魔に思ったのかは分からないが、父親は家賃や生活費をすべて出すと言って、彼女に一人暮らしをするよう提案した。
当時、まだ中学生だった紫音に対してその提案はあまりに酷だったと言えるかもしれない。だがそれでも彼女はその提案をあっさりと飲んだ。
まるでそれを受け入れることが、花音を助けることが出来なかった自分のせめてもの罪滅ぼしであるかのように。
陽が落ちてもなお、紫音は妹の写真に向かって話を続ける。決して話題が尽きることはない。話したいことは山のようにあった。
「今日はね、珍しく天気がすごく良かったんだよ。でも今って梅雨の時期だから最近はずっと雨で参っちゃうよね。洗濯物が乾かないったらありゃしない」
この日も紫音は一人、いつものように夜遅くまで妹の写真に向かって話しかけ続けた。