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幸せへの一分

作者: 低品質さん

 ほぞを噛んだ。いかなる決断を下したところで、もう完全な安らぎは訪れない。猶予幾ばくもなく私には後悔の楔が打ち込まれることだろう。他でもない私の手でだ。禁断の扉、パンドラの箱を開けてしまったからには、今宵、心残りなしには眠れない。

 目の前に顕現した一対の円柱形。ポリプロピレン製のそれらは、透明であるがゆえに内部の様子を恥ずかしげもなく、むしろ誇るように見せつけている。悔しいかな、私の与り知らない何者かに意図されるがままに、私は魅了され、惑わされる。責任を転嫁するならば、無駄に神秘的なこの構図がいけないのだ。銀世界に不敵な姿を晒す、いじらしい甘味が二つ。


 ——さて困った、どちらのプリンにしようか。


 炬燵で火曜夜のサスペンスドラマを食い入るように観ていると、探偵が推理を述べる直前で画面が切り替わり、コマーシャルで大きく新発売のプリンが紹介された。決まり切った焦らしに辟易したが――これはいい。ちょうど二日前にコンビニでプリンを買ったぞ。好都合にも小腹が空いてきたように感じる。さあさあ頂こう——小躍りで冷蔵庫の前に行き、開けてしまった。そうだとも、全ては私の過失だった。罵るがいい。

 だが許しを乞わせてくれ。計算外だったと自己弁護させてくれ。よもや冷蔵庫の中にプリンが二つあるとは誰が予測し得ただろう。私が呆けて重複させたのではない。これは昨日、還暦を過ぎている母がこの家に来た時に置いていったものに違いなかった。愛すべき母は息子の喜ぶ顔見たさにプリンを買ってきて間もなく、さぞ落胆したことだろう。そこには我が物顔で居座る先客がいたのだから。買い出しなど滅多に出向かない私の気まぐれに、奇跡的に打ちのめされてしまったのだろう。親不孝者の私は母の些細な傷心を見抜くことができず、今朝無愛想に送り出してしまったのだが、哀れな母に負けず、私も不幸だ。生まれてこのかた、『優柔不断』で人格の大半が形成されてきたろくでなしには、解決は少々荷が重い。


 さて困った、どちらのプリンにしようか。


 当然ながら二つのプリンは異なる風味、また製造元で、このことは非常に残念だった。同じであったなら、無造作に一つを取り出してしまえばそれで万事良しなのだから。さすがに右と左とで迷う珍奇者ではない。

 かたや、二日前に私が買ってきたプリン。焼きプリンなるもので、上面にキャラメルが焦がしてある。かたや、昨日母が買ってきたプリン。いわゆる生プリンだろうか、牛乳の白が残るその底にカラメルソースが溜まっていて、傍目にも舌触りが滑らかであることが窺える。

 ほとほと困った。

 焼きプリンの膜の張ったような食感は好みだ。一度熱した後に冷やしたものというのは、私の好奇心をいつも刺激してやまない。何せ私の買ったプリンなのだから味には責任を持てる。ところがそこで目移り、乳白色のプリンが口の中でとろけることを想像すると、それだけで自信が失せる。こちらはソースも付いて二段構えであり、果たして焼きプリンに劣るだろうか。

 今回いずれを手に取るとしても、それは早急に為されなければならなかった。忘れるなかれ、プリンを食べることはあくまでドラマ鑑賞の裏番組でしかない。選ぶ前に本編が再開されてしまえば私の負け。誰に、とか何に、とかいう問題ではなく、またしても決定できなかったという自責の念に襲われる。この性分が災いして行動に支障が出ることにはいい加減懲り懲りしているのだ。

 『選んだ』は『選ばれなかった』を生む。私には、『選ばれなかった』が私に縋るように感じられる。

 ——見捨ててなるものか——。

 結局どっちつかずになる。選んだら選んだ、選べなかったら選べなかったで、私はこれまで常に未練じみた反省に陥る羽目になっていた。あの時ああしていれば、この時こうしていれば。最善の結果があったろうに。逃がした魚は大きいというやつだった。結局のところ、どうすることが最善かは後になって初めて分かることで、直後に湧いてくる私による私へのヤジすらもやはりただ優柔不断の子、後悔の化身でしかなかった。

 今私の左手は冷蔵庫の扉を支え、右手はどちらかを掴もうと彷徨った。どちらか……。ゴーサインが出されない限り、不憫な右手は冬だというのに冷気の中を甲斐無く徘徊し続ける。


 ピーッという音に思考が中断する。冷蔵庫の開け過ぎだ。私を急かし責め立てるその警告音は、しかし私にとって必ずしもマイナスではなく、混乱や堂々巡りから引き戻してくれた。感謝を胸にプリンどもと束の間面会謝絶。いざ、ここからが第二幕だ。


 沈黙した冷蔵庫の前で暫し顎に手を当てる。

 絶対の正解は理性的な分析を抜かしては実現しない。確かカントも言っていた。手の内にある材料を総動員するのだ。まずは消費期限の面から攻めていこう。この二つには明らかな違いがある。その一つは冷蔵庫に鎮座していた時間だ。

 再び開け、ようやく双方に触れるに至った。ところが、そんな小さな進歩に対する私の感激を踏みにじるかのように、印字された期日は全く同じであった。両手にカップを持っている今こそ、片方を勢いに任せて戻してしまえば解決なのだが、そうはいかない。根拠なしには動けない厄介でつまらない人間だというのは自覚している。

 さて外見の面で一歩抜きん出たのは白いプリンの方だった。赤色をバックに、スプーンの上で形を辛うじて保つプリンへ琥珀のカラメルソースが垂らされる——という、蓋に刷られたそそられる写真が大きな差となる。焼きプリンの方は書体を工夫した文字のみのシールが蓋とカップを固定しているだけなのである。これはテンカウントかと思われたが、焼きプリンの蓋に写真を使って魅力を伝えようとすると上面の艶のある焦げ目を覆い隠してしまう。イメージではなく実物を注視させんとする方針には頷けた。これが最も美しいプリンの姿かもしれないと感じた。そして天秤は未だ水平。

 唸った次の一瞬に値段だ、と閃いた。この忌まわしき迷宮を切り抜けた暁には、より上等な方を腹に入れてしまおう。一人っ子だからか、母が私に与えるものは大抵が一般よりも少し高価だ。そしてそれがたかがプリンだとしても例外ではない、はずなのである。値札が見当たらない以上もはや推測の域に入っているが、焼きプリンがべらぼうに安かったので間違いないとは思えたし、いつの間にやらコマーシャルが三つほど終わっている。ここらで多少強引にでも根拠をこじつけて終着点まで持っていかなければならない。

 よし母の買った方だ、と弾みをつけて、他方をしまいかけて——違和感を覚えて手が止まる。

 初志。私は、焼きプリンを期待して冷蔵庫を開けたのだった。戻そうとしているのは焼きプリン。これはどういうことだろうか。

 焼きプリンを食べようと冷蔵庫を開けたというのに、ごたごたの末に焼きプリンを選ばなかったとしたら私は救われない。それにはたと気づいてしまったのだった。なんということだろう、どうにも逆らい難い。全てが始まる前に、根拠だ分析だと騒ぐ前に、選択肢は一つしかなかった。煩雑な脳内とは違って口内に少量溜まっている唾液は一途だった。だから私は、断腸の思いでせっかくの決着を蹴った。気分を問われれば、風呂上がりに泥水を被った不快が漸近している。

 だが!だがこれでやっと。焼きプリンを包み込むように持ち、私は遂に安堵した。


 本当にそうだろうか。


 これ程までに苦悩したのは、両者が共に魅力的であったからだ。ならば、欲張ってもいいではないか。確かに一つを食べるつもりでやってきた。しかしただ一つで我慢せよと天皇陛下が御触れを出されたことはない。焼きプリンに舌鼓を打ちつつ、生プリンとの食べ比べもできる。これ程平和的な案が出なかったのは私の凝り固まった思考回路のせいだ。こうして悩む時は大概が、どちらかしか手に入らなかったのだ。あからさまに二択のような構図でプリンが眼前に現れたのが諸悪の根源だったのだ。

 ——どうして増やした!待て。蒸し返すつもりか。最後の最後に第三の道を発見するとは愚の骨頂。自分を殴りつけたくなったが、その暇さえ惜しい。新しい議題を俎上に載せることも敢えてしない。解決パートは今にも始まるだろうから。

 またも冷蔵庫が鳴いたがその音は右耳から左耳に抜ける。テレビの方に目も向けず、追い込まれた私は最終策を実行することにした。

 そのような奥の手があるなら初めから使え、と糾弾されそうだがそれは筋違いというものだ。これを使うということは論理を放棄することを意味する。

 打開策即ち捨てる。過剰な付加情報を綺麗さっぱり。そして、今心の底から食べたいプリンを好きに手に取り、颯爽と戻ればよい。本能に任せた方がいいこともあるのだ、偶には殻を破り、直感で一発決めてみせようではないか。


 幸あれ!


「これが真実ですよ。」

 探偵は満を持してそう語り出した。炬燵で眺める私の前には何もない。スプーンすらもない。

 これが真実だ。

 私は『選ばれなかった』のない『選んだ』を噛み締めていた。それはていのいい言い訳で、実はまたも選べなかったのではと一度自らを疑ったが、やはり私は意思を決定した満足感をいつぶりか味わえていたのだ。

 全てを捨て去った結果、私の本能はプリンへの欲が誘発されたきっかけであるコマーシャルこそ余計だと判断した。つまり、食べたいプリンはどちらでもなかったしそもそも小腹は空いていない——それが私の結論だった。本能が食欲を訴えていなかったということだった。後悔は微塵もない。未だ冷蔵庫の中にいるプリンどもに嘲笑われるかもしれないが、私は最善を採用したまでだ。私は踊らされただけであったと、今は振り返ることができる。誘う広告の溢れる社会で、参考にするものが多ければ多いほどいいとは限らないのだ。現に操られた。遅ればせながら自覚したが、本当のところはプリンなんかどうだって構わない。ただ、このドラマの結末を満喫できればそれでいい。

 私はごく小さな幸せを感じた。

 つい一分前の自分と相反してしまってきまりが悪いが——今宵はよく眠れそうな予感がする。


《END》

老人の愉快な葛藤を読んでいただきありがとうございました。


次は、もっと素敵な低品質を。

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