前編。壁サークルはあまくなかった。
俺自身は壁サークルに並んだことはないので、新刊が売り切れた際の周りの反応はイメージです。
リアル真夏の超大型同人誌即売会に参加された皆様。お疲れ様でした。
in2018年8月12日。
『あぁ、イフイフ? イフイフ? 聞こえますかー?』
電話の向こうから、調子のいい声がする。声の主は斉藤丈、この毎年恒例夏冬の祭典こと大型同人誌即売会に参加してる友達、同士だ。
「ずいぶんとご機嫌だな。お目当てのブツはどうやら、手に入ったみたいだな」
『おうよ。そっちはどうよ?』
「バカヤロウお前。お前が並ばせたの、壁サークルだぞ。まだ十人は余裕でいる。新刊、残るかなぁ?」
暑さにいらついてる俺は、声の調子がついつい荒くなった。
頼まれたって言うけど、俺も俺でここの新刊はほしかったところ。はたして二つ、残ればいいけど。
『じゃ、引き続きよろしく』
「了解」
相手の返事を待たずに通話を終えた。
この大型同人誌即売会。三日間の開催期間の来場客は、毎年五十万人ぐらいって話だ。
大して日よけがないせいで、そりゃあもう地獄の暑さ。入場待機列、場所によっちゃもろに日を浴びる羽目になる。
幸い今回、俺はうまいこと日陰で過ごすことができたおかげで、ちょっとはましだった。つってもまあ、会場に入ったところで、ろくに冷房なんかありゃしないんだけど。
で、俺がいるのは企業と同人に分かれてるうちの同人ブース。それも人気のサークルの新作を買うために並んでいる。
一人。二人。三人。だんだん近付いて来る。ちらっと見えたサークルスペースに積まれた同人誌の厚みに、心の中で頭を抱えた。
ーーあちゃー。このままだと、売り切れるな。どうすっか。
「それでも。可能性を諦めちゃいけないんだ!」
静かに自分を奮い立たせ、俺は更に待った。そう。
「新刊、完売しましたー!」
この最後通知を聞くまでは。
湧き上がる拍手、それに混じる落胆の声。俺もガックリと肩を落とした組だった。
ゾロゾロとブースを後にする長蛇の人波。流されないようにしっかりと地面を踏みしめる。
「くそ、こんなくそ暑い思いして収穫なしかよ。最悪だな
ここに来るまでにもらった、企業ブースの団扇で自分を仰ぎながら愚痴る。汗で冷えた体には、この団扇から来る風はちょっと冷たいけど、それでも放置しておくよりは遥かにいい。
このスーっと体中を通り過ぎて行く冷風は、暑さといっしょにいらいらまでおいやってくれてるような気分になる。
団扇の風までぬるくなくてよかったぜ。暑さが若干弱まってるみたいだな、今は。天気予報通り。
「委託待ち、か」
ボソっと呟いたところで、薄手の長ズボンの左ポケットが震えた。
委託待ちとは、同人誌を専門に扱う店に、同人誌を委託販売するサークルがいて、そうして店頭に並ぶのを待つことを言う。
こうして会場で買うよりも値段が高くなるし、場合によっては会場購入者限定品が手に入らなかったりもする。ただ、入手しやすさは格段に上がる。それが委託されることのメリットだ。
なんとか人波が去ったので、電話を取る
『あぁ、イフイフ? イフイフ? 聞こえますかー庵野仗君?』
「ああ、聞こえるぞ」
『その声。駄目だったのか』
「イグザクトリー、その通りでございます」
もうテンションを作るのもめんどうなほどに気力を持っていかれた。
『そっかぁ、委託待ちだなぁ。出かけるの、遅すぎたか』
「かもな」
とは言うが、地元の始発電車でこの会場まで来た。それでもなお戦利品にありつけないことがある、それが壁サークルと言う場所なのである。
「んじゃ合流すっか?」
『ああ。合流場所、覚えてるな?』
「会場併設のコンビニな」
『クーラーが恋しいぜ』
「まったくだ。んじゃな」
『おう、お疲れ』
「おう」
俺の返事を受けて電話が切れた。
会場併設のコンビニはこの期間、レジを八台に増設する。それほどの人の往来があるのが、この即売会である。
「あれ? 二重顎じゃん。よっ」
俺の右横に走り込んで来て、真横でそう軽っちい声を出した女子。
このリアルロリボイスは間違いない。
横目で確認したら、予想は的中した。
「神田。お前も来てたのか、三日目に」
「うん」
神田えみり、通称えみリッチ、リッチをカタカナにするのがポイントらしい。俺とは同学年の別クラス。
オタク仲間なので、接触の回数は違うクラスの人間って考えると多いだろうな。
身長が150cmあるか否かと言う小柄な女子で、平気な顔して猫耳を愛用している。瞳が大きく、陳腐な表現をするのなら、漫画の中から飛び出して来たような美少女……いや、背丈を見ると美幼女でも通りそうだ。
ただでさえ目立つその容姿に加えて、ひじょうに声がかわいらしいのである。素でアニメ声と呼ばれるような、かわいらしい声をしていることがこの娘の個性をより際立たせている。
但し。この娘に対してアニメ声とは、たとえ褒め言葉であっても言ってはならない。
背筋に寒気を覚えるほどに冷たい声で、「わたし、偏見って嫌いなの」と殺意にも似た怒りを向けられるからだ。
「とりあえず、まずひとこといいか?」
「なに?」
きょとん、とこっちを見上げて来る。こいつ、こういうしぐさに、ほんといやみとかあざとさとか、そういうのないよな。
まあ、身長さが自然とこうさせてるから、なんだろうけど。ちなみに俺はこいつより20cmは背が高い。
「少なくともダブルジョウって呼んでくれ。二重顎じゃただの悪口だろうが」
「えー、だって。いっつも二人でいるしー」
「それなら、せめて二人でいる時にだけ、そう呼ぶとかしろ。俺は別に二重顎じゃないから余計変だぞ」
「めんどいっす」
「楽しそうに笑むんじゃない。んで? お前はどうやら、なんかしら手に入ったみたいだが?」
「うん。これだよ、これ。お目当てゲットー、ってね」
左腕に大きな袋をぶらさげてご機嫌である。
「その袋、オトシゴプロか。しかも乱造人間ガシャーンだな。そういや、ちかごろOMegaHerosで活躍してるもんな」
「うん。ちなみに袋の逆側には、次元騎士ウェパマンが書かれてまーす」
「なるほど、OMegaHeros仕様ってわけか」
「そうそう。この画集がメインだったんだー」
「たしか、新旧いろんなオトシゴヒーローのイラストが描かれた奴だったっけな」
うんうん」
心から嬉しそうに、そして楽しそうに声と同時にこくこく頷く。
マスコット的でかわいいんだよな、ほんとこういう動きが。
「ほんと。お前、自分が面白いって感じたら一直線だよな」
「うむ。面白さに垣根はないのだ!」
「満面の笑みだことで。けど、そんなかわいらしい姿惜しげもなくさらしてると目ぇつけられるぞ」
「目?」
かわいらしい、についてはスルーなのか。
「レイヤーさん? こっち向いて!」
「ほらきた」
カメラ小僧にカメラを向けられた神田だが、両腕を左右に振ってノーのアピール。
「嘘だぁ、そんなちっちゃくって猫耳つけてて目もクリクリおっきくて、真っ白いワンピース。レイヤーさんじゃなかったらなんなんだって」
「レイヤーに服装以外の要素関係ないだろ?」
呟き突っ込みなので、リアクションは求めていない。つい出ちゃった、って言うのが本音だ。
「わたしはただの買い物客です。コスプレ予定はないですから!」
こんなに目立つのに、あまり表に出るのは好きじゃないらしい。社交的だと思うんだけどな、こいつ。実は人見知りなのか?
よくわからん奴だな。
「猫耳つけてちゃ疑われても文句言えないぞ」
しっかりと言ってやると、
「これ、コスチュームじゃないもん」
ほっぺた膨らませて言う神田に、周囲の男連中がざわついた。
女性も驚いたような声を上げている、と言うか黄色い悲鳴が上がっている。
「おいおいマジかよ、この猫耳ちゃん、素でだよもん言ってるぞ。しかも違和感がぜんぜんねえ!」
「っべーわ、マジべーわ! かわいすぎだろ!」
「逃げるぞ神田」
「うんっ!」
あっさり頷いてくれて助かった。厄介なことになりそうだ、と思ったみたいだな。
俺達は迷惑にならない程度に走って、目的地であるコンビニまで逃亡をはかった。
横目でこっちに注目してた人達を見たら、あの娘は追いたいがお目当てがあるし、と考えていそうだと推測できる、悩ましげな表情をしていた。それも全員。
途中階段につまずきそうになって冷や汗かいたり、神田を見失いそうになって慌てたりしたが、なんとかはぐれずに早歩き移動中だ。
「なんか、恥ずかしいな。この状態」
ニヘヘっと変な笑い声を出してる神田。
「しかたないだろ、こうしてないと迷子になりそうだからな。お前」
ギュっと握った左手を上下に振る。
「むぅ。子供扱いしないでよね」
言葉通り不満そうな表情で、こっちを見上げて来る。
そのリアクションで子供扱いするな、は無茶ってもんだけどな。
「身長の問題だ。よし、見えて来たぞ」
俺の視線の先には、目的地であるパラダイスこと、コンビニがあった。この、コンビニがある建物には若干の冷房が効いている。
おかげで、他ほど暑くはない。どんぐりの背比べじゃあるけどな。
「ふぃー、やっとかー。余計な汗かいちゃったし、早く冷やしたいよねー」
「だな。まあ……休めるほど空いてれば、だけどな」
未だ人の流れがゆっくりながらも途切れないのを見て言うと、
「いやなフラグ立てないでよ、案の定君」
といやそうなちょっと低いトーンで言われてしまった。
「その音程で言うの、やめてくれないか? 俺、ほんとにそんな感じで、貧乏くじ引きやすいんだから」
人の波が途切れたっ。
「いくぞっ!」
「わー! ひっぱんないでー!」
急いでコンビニ入り口まで走る。
そして、ついに!
そのドアを開くことに成功したっ!