第8話
「め、女神さま……」
俺の口から自然と零れた一言に、いざ長剣を抜きかけていた少女の動きがピタリと止まった。
「め、女神様って? もも、もしかして、わっ、私のことかな?」
少女は剣を握るはずだった手で、自分の顔を指差してモジモジしながら聞いてきた。
モゲるんじゃないかと思うくらい首を上げ下げして肯定すると、彼女は自分の髪と同じくらいに真っ赤になった顔を両手で覆った。
「やだ~っ! そんなストレート過ぎる褒め言葉なんてっ! やっだ~!」
「お世辞なんかじゃないです。俺には貴女が女神にしか見えません。いや、女神そのものです!」
俺はひたすら頭を上下し、少女は手で覆ったままヤダヤダと顔を左右に振り続ける。
「ねえ、君! もっと頂戴!」
「はい? 頂戴って何をですか?」
「もっと褒めて! もっともっと褒めて!!」
「えええっ? えーっと、その姿は花園に咲き誇る大輪の赤い薔薇の如く……」
俺は乏しいボキャブラリの中から、思い付く限りの美辞麗句の数々を少女に向けて叩きつけた。終いには高級料理や珍しい食材に例えるまでネタを出し尽くすと、少女は頬をピンク色に染めて満足そうに微笑んだ。
「才能あるね、君! 私いま、凄くテンション上がってるよ!」
「はあ、そうですか。それは良かったですね」
「そこで待っていて。喰人鬼なんて、すぐにやっつけてやるんだから!」
やるぞー! と、少女は気勢を上げて、今度こそ腰の左右に差した二振りの長剣を一度に抜き放った。
オーガ……そうか、あれが悪名高い喰人鬼か。
魔王軍の中でも最大級に危険な人喰いの巨人。それなりの知能のある、人の姿に似た魔物の中でも抜きん出た巨躯と怪力を誇り、歴戦の戦士10人が相討ち覚悟で、やっとオーガの一体を倒せるかどうかと聞く。
そんな凶悪な怪物を相手に、吹けば飛ぶような可憐な少女が挑むというのか? しかも少女は二振りの長剣以外には、寝間着らしき薄手の服しか身に着けていない。
だけど、どうしてだろう? 双剣を手に凛と立つ少女の姿を見ているだけで、オーガなんて恐れるに足りないような気がしてきた。
「褒め上手の君! そこの物陰に隠れていて!!」
言われて瓦礫の裏に身を隠したのと同じくして、少女と喰人鬼の激しい闘争が始まった。
筋肉の塊のような巨体から鈍重な印象を受けるオーガだが、振るう拳は思いの外に速くて重い。ただ闇雲に振り回しているように見えても、その一撃は致命傷になりかねないだろう。だが、少女は両手にした剣で受け流すでもなく、紙一重、いや、紙二重くらいの余裕でもって殺人的な拳を躱している。
「遅い遅い! そんな羽虫が止まるような拳では、夜が明けたって私には当たらないわ!」
少女は小気味の良いステップを踏んで攻撃を難無く避け続けていたが、空を切ったオーガの拳が地面を強打した弾みでバランスを崩してしまった!
「危ない!!」
ぶうん、と唸りを上げる横殴りの剛腕が、少女のか細い身体に叩きつけられた! かのように俺の目には見えたが、全身から血を噴き出して苦悶の声を上げたのはオーガの方だった。
「ちっ、踏み込みが浅いか。さすがに頑丈ね」
血糊を振り払い双剣を鞘に納めた少女は、何を思ったか切り揃えた前髪をかき上げて、その秀でた額を夜気にさらした。目を凝らすと、少女の額の中央に逆三角形のアザのような模様が見えた。
「可愛くないからイヤなんだけど、仕方ないわね」
殺し合いの真っ最中に、彼女は武器を納めて何を始めるつもりなのか?
その一方で、斬り刻まれて深手を負ったように見えていたオーガの傷が、みるみる塞がっていく。
凄まじい回復力でもって態勢を立て直したオーガは速さでは勝てないと悟ったか、両手を大きく広げてジリジリと距離を詰め始めた。
まずい……少女がどれだけ素早く動けても、あれだけ接近されては最初の一撃は避けようがない。
それなのに彼女ときたら、おでこを露出したまま、まるでお祈りでもしているかのよう目を閉じて何かを呟いている。
「我が聖痕『大いなる力の三角』の名に於いて命ずる……封印術第一式・限定解放」
呪文のような呟きが途切れるのと同時に、一際大きな吼え声を上げたオーガが猛牛のような勢いで突進する!
ダメだ! とてもじゃないけど避け切れない――――
だが、思わず顔を伏せかけた俺の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
「非力ね。押し返せないのかしら?」
かっ、片手でオーガの突進を止めている!? 若木のように細い、あの腕で?
俺は二度まばたきをして、三回ごしごし目を擦り、四度は繰り返して少女の腕を見返した。
いよいよ俺の目はおかしくなってしまったのだろうか? 異様に太く見えるぞ、少女の右腕が。
「グルゥウ……」
困惑しているのは俺だけではなかったようだ。オーガは唸り声を上げ、全力を振り絞って突き進もうとしているようだが、少女の掌に頭を押さえつけられたまま、前に進むどころか、むしろズルズル後退させられている始末だ。
「見せてあげるわ。聖痕の力を」
再び、額のアザが輝いたかと思うと、まるで風船が破裂するように少女の寝間着の肩から袖までが弾け飛んだ。
「マジか……」
目を疑うとは正にこの事だ。少女の服が破けたと思った瞬間、オーガの巨体が投石器で打ち上げられたかのように宙を舞い、放物線を描いて遥か頭上を越えていった。
投げた? と頭が理解した時には、既に少女は剣を抜いて駆け出していた。その直後、熟れすぎた果物がボトボト落ちてくるような奇妙な音が耳に届いた。それは、空中でコマ切れにされたオーガの肉片が落下する音だったという恐るべき事実に気付いたのは、ずっと後の事だ。
「はあぁ……これやるとお腹が空くのよね」
パジャマも破けちゃうし最低、とブツブツ文句を言いながら少女が戻ってきた。
「あんまり見ないで。恥ずかしいの」
元から小柄な体を、より小さくするようにして、少女は剥き出しになった肩を抱いた。
頬を赤らめて恥じらう姿は、思わず抱きしめたくなるほど愛らしい……が、さっきのアレは何なんだ? 若木のような細腕が巨木のような剛腕に? 俺、疲れてんのかな。それとも、まだ酔いが醒めきらないのか?
「ねえ、褒め上手の君。その服は糧食班の制服だよね?」
言われて俺は、自分の着ている服を確認する。確かにこれは懐かしの糧食班の制服だ。
ハッ、として俺は上着を脱いで、着て下さい! と、少女に差し出した。
「あ、ありがと」
ちょっと大きいね、と、はにかみながら、少女は制服に袖を通した。
くうっ……この締め付けるような胸の高鳴りは何だ!?
コックコートを模した単なる糧食班の制服なのに、着る人が着ると、こんなに可愛くなるのか! 畜生、どうしてここにコック帽が無いんだ!?
だが、悶え苦しむ俺に向かって、少女は更なる攻撃を畳みかけてきた!
「あのさ、糧食班なら何か食べる物……持ってないかな?」
人差し指を下唇にあて、少女は上目遣いに俺を見た。
ぐはぁ! この胸を突き抜ける衝撃は何だっ!?
なんて貫通力だ……頼む、止めてくれ。俺はもう、これ以上は耐えられそうにない。
「無かったらガマンする」
はい、あります! ありますよ! ありますとも! そうだ、確か腰に下げたポーチの中に……
「これ、口に合うか分かりませんが……」
携帯用の軽食を弁当箱に詰めておいたのを思い出して、少女に差し出した。
「なあに? ミートボールと白いソース?」
「いえ、これは肉ダンゴじゃなくて揚げドーナツです。それで、こっちの白いのは練乳です」
「どおなつ? れんぬー?」
「……ドーナツ、食べた事ないですか?」
物珍しそうに揚げドーナツを眺めている少女の前で、お手本を見せるようにドーナツを一つ摘まみ、練乳をたっぷりつけて口の中に放り込んだ。
うん、揚げドーナツの素朴な食感に練乳が良く合う。夢の中でも味を感じるのが不思議だけど。
「ほら、こうやって食べるんです」
「手でいただいても?」
「爪楊枝でもあれば良いのですが、まあ、クッキーの類と思って下さい」
クッキーと聞いて少女は納得したようで、おずおずとドーナツを一つ手に取った。
「れんぬーは、どれくらい付ければ良いの?」
「それはお好みで」
「これくらい?」
「いえ、もっと豪快にいっちゃって」
指に付いちゃった、と少女は困ったように笑いながら、練乳まみれの揚げドーナツを口にした。
「あのう、いかがでしょうか?」
もくもく無言でドーナツを頬張る少女の横顔を眺めている内に、一抹の不安が頭を過った。
待てよ……この子、揚げドーナツを知らないくらいだぞ。気品あふれるその雰囲気や喋り口調からして、もしかしたら名家のお嬢様か何かじゃないのか?
「これは、なに?」
しまった。やはり口に合わなか……って!?
少女は突然、俺の手から弁当箱をひったくるようにして奪い取り、一つ摘まんでは「ああ、もう!」と怒り、二つ食べては「なによ、これ」と、うっとりしている。
「信じられない。腹立たしいほど美味しい!」
「そっ、それは良かったですね」
「どおなつが口の中でほろほろ崩れていく食感を楽しみたいのに、れんぬーのトロトロがほろほろを優しく包み込んで……あ、もうお終い?」
少女は最後の一個を名残惜しそうに眺め、弁当箱にこびり付いた練乳を丹念に指で拭い取った。
「はっ! 私ったら」
れんぬー、もとい練乳の付いた指を咥えて、少女はようやく我に返ったようだ。
そして、恥ずかしそうに空になった弁当箱を寄越してきた。
「ごめんなさい。私、全部食べちゃった」
「いえ、気に入ってくれたみたいで俺も嬉しいです」
「ねえ、褒め上手の君」
女神のような微笑みを、少女は俺にくれた。
「この戦いが終わったら、”どおなつ”と”れんぬー”、また食べさせてね」
ルビーのような瞳はもう、俺を見ていなかった。
その目線が向かう先では、オーガによる一方的な殺戮が続いている。
彼女は戻るつもりなんだ。あの阿鼻叫喚の戦場に。
「ええ、約束します。楽しみにしていて下さい」
たった一つの約束すらも果たせなかった。
その想いは今も、残り火のように燻り続けている。
それでも俺はいつの日か、戦場で出会った女神のような少女に捧げるために。
昔も今も――――その誓いを胸に。