第7話
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「────オ……ろ……」
……遠くから声が聞こえる。
「……オ……シオ……きろ」
……名前を呼ばれている気がする。
「シオ! 起きろ!」
切羽詰まった声に急かされて目を開けてみたものの、二重にボヤけた天井がグルグル回っていやがる。
「あ〜悪い悪い。話の途中で寝ちゃったみたいだな、俺」
いやあ、失敗したなぁ。久々に飲んだらコレだよ。
目が回って気持ち悪いのか。
飲み過ぎて気持ち悪いのか。
それとも、その両方なのか?
ズンズン痛む頭に手を当ててベッドの上に半身を起こすと、何やら慌てた様子の後ろ姿が目に入った。
俺は「悪いけど水くれない?」と、尖がった耳を頭に生やした後ろ姿に声を掛けた。
「お~い、聞いてんのか~」
何がそんなに忙しいのか知らねえが、何度も声を掛けてんのに無視しやがって……
「ガ~ウ~ル~」
だが、振り返ったのはガウルじゃなかった!?
獣人族には色んなのがいる。犬っぽいガウルと違って、こいつは何だかネコっぽいぞ?
「ちょっ、お前、誰だよ!?」
「シオ、寝惚けてんのか!?」
「だから! 誰だ! お前はっ!? 勝手に人ん家に上がり込みやがって!」
泥棒か? それとも居直り強盗の類か!? 馴れ馴れしく人の名前を呼びやがって……あれ?
いや待てよ。確かコイツは糧食班で一緒だったテトラ・テ・マ出身で、俺の作った家庭料理にいちいち感動してた……
「お前、もしかしてフィントか!? いやぁ、久しぶりだなぁ」
「何が久しぶりだ、馬鹿シオ! 夜襲だ!」
「ヤシュー? なんだそれ? 美味いのか?」
ヤシュー……どっかで聞いた事のある料理だけど、どんな料理だったっけ?
「とにかく早く外に出ろ! 火にまかれるぞ!!」
火? 火だって? 火はマズい!
「火事か? 火事だと? 火元はどこだ?」
「火元なんて気にしている場合か! そんなのいいから、さっさと天幕の外に出るんだ!」
天幕だって? いや、ここは俺の店で、なんでフィントがここにいて、じゃあガウルはどこに?
意味不明な状況に混乱する頭を抱えたまま、フィントに引き摺られるようにして外に出ると、そこは────
「なっ? なんだこりゃあ!?」
そこかしこから上がる火の手が篝火の代わりに闇を照らし、辺り一面に黒っぽい煙が立ち込める。
聞こえてくるのは激しい剣戟の音と悲鳴と怒号。そして、これは血と肉と脂の……
忘れかけていた不吉な臭気に、酒で鈍っていた意識が覚醒する。
間違いない。ここは三年前の────
「うん、夢だな」
久しぶりに酒なんて飲んだ上に、憧れの女性の話なんかしたモンだから、夢と想い出とが繋がっちまったんだな。
そう考えると、妙に落ち着いた気持ちになって周りを見渡してみる事にした。
帝国騎士団の紋章の入った天幕がゴウゴウ音を立てて燃え上がり、寝間着に鉄兜を被ったアホや、鎧の前後を間違っていて上手く装着出来ないアホ、両手に盾を手にして叫び回るアホと……戦場は珍妙なアホどもで大混乱だ。
なるほどな。ガウルの言っていた通りだ。当時は気付かなかったけど、いくらなんでもコレはお粗末だ。急襲を受けたとはいえ、騎士あるまじき恥態だ。
考えてもみれば成人とはいえ、15歳になったばかりの俺なんかが招集されるくらいだし、軍はよっぽど人手が足りなかったに違いない。
しっかし、あん時はビックリしたなあ。「後方は安全だから」なんて上官に言われてたのに、まさか騎士団本陣が魔王軍の夜襲を受けたんだもんな。あんなに間近で魔物なんて見たのは初めてだったから、ホント焦ったわ。
そりゃあ、一通りの訓練は受けていたけど、戦闘訓練の相手なんて魔物に見立てたワラ人形か、鉄鍋被せた木人形だったし、戦場に出たって後方支援な俺たちは、小鬼や犬鬼なんかの魔物の類いなんて遠目にするだけで────いや、違う。
俺はずっと昔、目の前で魔物を見たことがある。
10歳になるか、ならないかの頃に。
生きたままの蟹を豪快に、それでいて下品に食い散らかすのにも似た咀嚼音が聞こえてくる。
両親は、まだ幼い俺を逃すので精一杯だった。
────私たちの事はいいから早く!!
どこからともなく漂ってくる新鮮な血の臭いが鼻腔を掠める。
どこをどう逃げたのかなんて覚えてはいない。覚えているのは父さんと母さんを生きたまま喰い殺した怪物の────
────シオ! 早く逃げて!!
血生臭い吐息を、巨大な生物の息づかいを背中に感じる。ジュルジュルと蟹の身を啜るような音がすぐそこに。
靴の裏に水っぽい感触を覚えて足元に目をやると、じわじわと赤黒い水溜りが広がっていくのが見えた。でも、振り向けない。振り向いてはいけない。母さんがいうように、早く逃げないと。
早鐘のように心臓が鳴る。唾液の出し方を忘れてしまったように口内はカラカラだというのに、水っぽい物が胃袋から込み上げてくる。
振り向いたら駄目だ。そこには怪物がいるというのに。それなのに俺は────
「ああ、うあ、ああぁ……」
声にならない呻きしか出ない。喉が乾きすぎて助けを呼ぶ叫び声すら出てこない。
俺の身長の倍近くもある醜悪な姿の巨人が、腰を屈めて俺の顔を覗き込んでいた。そいつには目も鼻もあるだろうに、裂いた魚の腹みたいな、バックリと大きく開いた口だけしか視界に入って来ない。そこに適当に並べた鋭い杭のような歯の端に、シャツの切れ端が引っ掛かっていた。ついさっきまで誰かが着ていた物だろう。
早く逃げなきゃ、と思ったのに、足がもつれて水溜りの中に座り込んでしまった。そんな俺を見て、巨人は口の端を釣り上げて嗤ったように見えた。
俺は知っている。この表情は”本当に美味そうな物”を見たときに、誰の顔にも自然に浮かんでしまうヤツだ。
「オマエウマソウダナ」
そう言ったように思えた。この人喰いの巨人は、俺を食い物だと認定したようだ。
山から切り出したばかりの丸太のような腕が、焼き串みたいな剛毛に覆われた手が、俺の頭上にゆっくりと翳される。傍から見たら、お爺ちゃんが可愛い孫の頭を撫でるような動きに見えるだろう。
俺はもう、迫る来る恐怖に負けて目を閉じていた。それこそ撫で撫でされるのを待つ子供のように。
そして、頭の天辺に死の重圧を感じた────
「そこの君! 伏せて!!」
夜の闇を一直線に斬り裂くような女の鋭い声!!
俺は底の浅いプールに飛び込むような覚悟で、血溜まりの中に倒れ込んだ。
目を閉じていたから、何が起きたのかは分からない。耳に入ってきたのは風を切る金属音と、絞り出すような咆哮。そして「こっちよ!!」と、俺を誘う女の声。
俺は目を閉じたまま、声が聞こえた方へ猛然と這った。そして、何か柔らかい物にぶつかって、ようやく俺の高速ハイハイは止まった。
「君、怪我はない?」
恐る恐る目を開く。優しく、だけど力強く俺を抱き留めてくれた声の主は、まだ少女と呼んでもおかしくはない年頃の女の子だった。
両手で包めそうなくらいに小さな顔の中で、ルビーのような瞳が輝いている。女の子にしては濃い眉と目尻の上がった大きな目からは意志の強さが伝わってくるが、それは決して彼女の可憐な美しさを損なうような野卑な強さではない。
「もう大丈夫だからね。彼奴は私がやっつける」
少女は、俺の身体を抱いたまま背中をポンポンと叩き、ゆっくりと立ち上がった。
炎に煽られた長い髪が、まるで燃え上がるように揺らめく。
その姿は爺ちゃんから聞いていた、闇を払い邪悪を焼き滅ぼすという、火の女神そのものだった。
ようやくヒロインの登場です。