第3話
「さあ、始めよう!」
使い込んだ愛用のフライパンを焜炉に掛け、徹底的に臭みを抜いた牛脂の塊を乗せる。
じんわり溶け出した脂でもって刻んだニンニクと摘んだばかりのフレッシュハーブを混ぜ炒めると、食欲を誘う香りがフワッと立ち昇った。
「ねえ、何だか良い匂いがしてきたよ」
フロアにまで漂い始めた香りに、釣られた客の声が聞こえてくる。
まだだって。もう少し待っててくれよ。もっと凄いのを届けてやるからさ。
そのタイミングで、最初に取り分けておいた皮付き肉をフライパンに放り込んだ。
「すごい! ジューッて何の音!?」
「それに香ばしくて良い香り!」
こんがり焼けた肉の香りと、熱した脂で皮が弾ける音は食欲を……いや、本能を揺さぶるんだ。
爺ちゃんは言っていた。"料理は舌で味わうだけのものではない。目で、鼻で、耳で愉しむものです"と。
「ここで、いよいよ主役の登場だ」
串に刺した鹿肉をタレから取り出し、そのまま竃の中へと差し入れる。内部に篭った熱を利用して炙り焼きにするんだ。
俺は押し寄せる炎と熱気に目を細めながら、肉が最高に美味くなる瞬間の為に、炎と肉とを睨み付け、耳を澄まし、匂いを嗅ぐ。
────色か? 音か? 匂いか? それとも、その全てか?
ここで急いては表面は焦げ焦げ、内側は生焼きになっちまう。
引き上げるタイミング……それは料理人としての経験と勘を信じるしかない。
「────ここだ!」
頃合いを見計らって鹿肉を抜き出すと、金串の先から透明な肉汁が滴り落ちた。よし、中まで火が通ったな。
間髪を入れず前もって温めておいた皿に、まだジュウジュウと音を立てている鹿肉を乗せ、食べやすい大きさに素早くスライスする。鮮やかなピンク色の切り口から溢れ出した肉汁が堪らなくジューシーだ。
そして、その上から焦がした皮付き肉をパリパリと砕いて振りかける。グリルの野菜も編目の焦げが付いて良い具合だ。
「さぁて、仕上げのソースは、っと」
残った肉汁とコクのある赤葡萄酒を混ぜ、隠し味にウサギの血の煮凝りを加えてフライパンで熱すれば、ブラッディソースの出来上がり。野性味溢れる赤いソースは、ワイルドな風味の鹿肉に完璧に調和する。
「どうだ、出来たか?」
ソースに塩を足して味を調えていると、ガウルは料理が完成するのを見計らったように、前菜の皿を下げて戻ってきた。
「店長、自信は?」
俺は返事の代わりに、ソースを付けた鹿肉の切れ端を摘まんで、ガウルの口元へ突き付けてやった。
「文句は喰ってから言え」
”寝言は寝てから言え”みたいなイントネーションで返すと、ガウルは直接、俺の指からパクッと喰いちぎるようにして鹿肉を奪い取った。
一心不乱に咀嚼している獣人族の顔を見ていると、なんかデカい犬を餌付けしているような気になってきた。
「ちょっと、店長……」
ガウルは眉間にシワを寄せ、モグモグしながらも精悍な顔を険しくさせる。
「どっ、どうした?」
もしかして焦げが強かったか? それとも肉の洗浄が足りなくて生臭さが出たか!?
その時、犬耳を伏せて深々と俯いていたガウルが一声唸った。
「超・美味い」
「何だよ……ビックリさせんなよ」
「オレ、食に関してはウソ言えないタイプだから」
青みかかった灰色の尻尾が猛烈な勢いで振れている。これはウソでもお世辞でもなさそうだ。まったく、ヒヤヒヤしたぜ。
”皿に上げたら完成と思ってはいけません。それは、作業が終了しただけです。
食べていただいてこそ、初めて料理は完成するのです”
爺ちゃんの教えの通りだ。味の感想を、食べた人の表情を確認するまでは、とてもじゃないけど安心なんて出来っこない。こればっかりは何千、何万皿と料理を作ろうが、慣れる日なんて来やしないだろう。
「よし、出来立ての熱々をお届けしてくる」
ガウルは鹿肉と冬野菜を乗せた皿を、三枚まとめて器用に持って、テーブルへと運んで行った。
「お待たせ致しました。”ジローメ鹿の直火炙りと、旬の冬野菜のグリル焼き”で御座います。ブラッディソースを添えましたので、どうぞお好みでお使い下さい」
しばらくすると、テーブル席からは、「キャア!」とか「イヤ~ン!」と、悲鳴にも嬌声にも似た歓声が聞こえてきた。
良かった。この分なら、きっと満足して貰えた事だろう。
しかしガウルの奴、ちょっと味見しただけなのに、どうしてあんなにペラペラと、それっぽい事が言えるんだ? だいたい、”なんたら店長のお任せランチ”とやらは、どこへ行っちまったんだ?
***
「またのご来店をお待ちしております」
夜がとっぷりと更け、ラストのお客様をガウルと二人、並んでお辞儀でお見送りした。
夜風が殊更に冷たく感じるのは、ビュウビュウ吹きっさらす北風のせいだけではない。
ああ……明日は楽しい定休日だってのに、イマイチ客足が伸びなかったな。
「お疲れ様でした。店長」
「ああ。お疲れ、ガウル」
残念ながら、勤労を労って貰えるほど疲れていないのが空しい。
そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、ガウルは給仕服の襟に手をやり、くいっとネクタイの結び目を緩めた。
「なぁ、店長。オレ、腹減ったよ」
つくづく思い知らされるが、こいつは仕事とプライベートのON/OFFが、やたらとハッキリしている。態度どころか、こうして口調までもがキッチリと変わる。ホント、その気持ちの切り替えっぷりには感心するわ。ちなみに俺は、結構ズルズル引きずるタイプだ。
「あのさぁガウル、聞いてくれよぉ」
「そうだな。オレ、夕飯は肉が良いと思うんだ」
「あのなぁ。俺、まだ何も言ってないんだけど」
「じゃあ何の相談だと? このタイミングで夕飯の相談以外に、いったい何の相談があるって言うんだ?」
がるるる、と唸らんばかりの態度。ガウルの肉に対する執念には、まったく恐れ入る。
「お前、なに怒ってんだよ。夕飯の話じゃなくて、昼に女性客が来ただろ? 3人組の」
「ああ、鹿肉の。あれは美味かった」
ベロリ、と舌なめずりするガウル。
そう、あれは美味かったはずだ。
「だけどさぁ、ちょっと残した人がいただろ」
「……それが気になっているのか?」
射るような、心の底を見透かすようなガウルの青い瞳に気圧される。
「ん……まあ、ね」
「それは安心しろ」
「安心? 何を?」
「その肉はオレが責任を持って平らげておいた」
「いや、そういうんじゃなくてですね」
「まあまあ、店長。その話はメシを食いながらにしようじゃないか」
尚も喰い下がろうとしたが、ふっ、と表情を緩ませたガウルに肩を抱かれ、俺はそのまま抱えられるようにして暖かい店内へと押し込まれてしまった。