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第4章

午後12時半。

アヤカとミナは車で益戸西部の郊外ある千花大学に向かっていた。

アヤカが柏原教授の研究室に電話すると、庄治准教授は不在とのことだった。

次の講義は午後3時からなのだが、講義の時間まで部屋に戻ってくるとは限らないと告げられた。

「准教授、ちょっと時間が空くとすぐどこかに行ってしまいますからね」

准教授は講義の合間にいろんな場所に行っては、植物の採集に行ってしまうのだという。

電話に出たのは柏原教授のところに通っているうちに顔見知りになった秘書の秋元さんだ。

そうだ、秋元さんにも話を聞こう。

そう思って早めに研究室を尋ねることにした。

「あら、じゃあお待ちしています」

よかった、多めにお菓子を用意してて。

アヤカはにんまりと笑った。

車の中は少し蒸し暑かったので窓を開けている。

風が入って気持ちいい。

チラっと横を見ると助手席のミナも窓の外に目を向けている。

空は曇っているが、もう夏の気配だ。


10分で千花大学の駐車場に到着した。

客用駐車場に止め、後ろの座席に置いておいた紙袋を取り研究室に向かう。

庭の打ち合わせはずっとアヤカ一人でやっていたので、千花大学に来るのはミナは初めてだ。

あちこちに目をやっている。

2人で歩いていると、ちょうどお昼時なのでたくさんの生徒達が歩いていた。

(若いなあ)

アヤカが大学生だったのはもう15年も前か。

生徒達は一様にお洒落な格好をしている。

もうチェックシャツにチノパンなんていないのかしらね。

自分の大学時代を思い出す。

あの頃は・・・今考えると恥ずかしい格好をしていたと自分でも思う。

田中カズキもこの中にいたのね・・・。

そう考えると田中カズキが少し憐れに思えてきた。

どういうわけであれ、自分の最後がブルーシートに包まれるなんてヒド過ぎる。

しかし彼の死を望んだ人がどこかにいるのだ。


コンコン。

柏原教授の研究室のドアを開けた。

「秋元さん?鈴井です、失礼します」

アヤカが声をかける。

明けたとたん、ムッとする湿気を感じる。

アヤカはもう慣れたが、初めて来るミナはびっくりしていた。

部屋は大小の熱帯植物にほぼ支配され、申し訳ないように机や来客用ソファが置かれている。

ジャングルの管理者、もとい秘書の秋元さんが席を立って迎えてくれた。

秋元さんはかなり小柄な女性だ。

身長は150センチないかもしれない。

コロコロとふくよかで、髪はグレーでぴったりとしたボブカット。

グレーのワンピースを着て、首から老眼鏡を下げている。

いつ訪問しても、笑顔で迎えてくれてほっこりした気分にさせてくれる。

しかしあの柏原教授とずっと一緒にいるのだから、相当な人物だ。

「鈴井さん、お久しぶり」

「こんにちわ、秋元さん。これお土産です」

「ありがとう。ちょっと期待してたの」

笑みを浮かべて、秋元さんは紙袋を受け取った。

相変わらずチャーミングな人だ。

「お世話になった生徒さん達にも。あ、それと紹介します。ウチのパティシエの平原ミナです」

頭上を見上げて植物を見ていたミナが慌てて秋元さんに向き合う、

というか背が高いので見下げる形になった。

「初めてお会いします。カフェ・ヴェルデパティシエの平原と申します」

「まあ、あなたがいつもこの美味しいお菓子を作ってくれている方なのね。

私、あなたのお菓子の大ファンなのよ!」

一瞬ミナは面食らったようだが、はにかみながら笑顔を見せた。

フレンチのパティシエをしていた頃は、直接お客様から感想を言われる機会があまり無かったのだろう。

「私はまだお店に行ったことがないんだけど、今度ぜひ伺いたいわ」

「ぜひ、いらしてください」

ミナがこんな風に感情を表すなんて珍しい。

なんだか私も嬉しくなっちゃう。

紙袋を覗いた秋元さんは「座っててくださいね」と言い残して奥の台所に消えた。

アヤカとミナがソファに座ってしばらくすると、

アイスコーヒーと切ったパウンドケーキを持って出てきた。

この研究室が蒸し暑いことはわかっていたので、アヤカはアイスコーヒーにしたのだ。

それと厨房に保存しておいたミナ特製のトリプルサマーパウンドケーキ。

パウンドケーキはバターをたくさん使っているので保存が効く。

美味しく食べるには1週間ほど置くのがベストだ。

ケーキは焼いたばかりのほうが美味しいとは限らないのだ。

切ったパウンドケーキにフォークを添えて出してくれたのだが、手でいただく。

ミナが作るお菓子の大半は手でつまめるものだ。

カフェ・ヴェルデのモットーは気軽にお菓子をつまんで珈琲を飲みながら寛いでもらうことなのだから。

「ん~、美味しいわ」

秋元さんが手を頬に沿える。

ミナのトリプルサマーパウンドケーキは、オレンジ、レモン、ライムの皮をラム酒に浸けたものを

たっぷりと入れたものだ。

爽やかな柑橘の風味で軽めのパウンドケーキに仕上がっている。

このケーキはホットよりもアイスコーヒーにぴったりだ。


「秋元さん、ニュース見ました?」アヤカが聞いた。

「ええ、見たわ。あれがあなたのお店なのね」

「そうなんです。・・・ニュースでは庭だけ映っていたみたいですけど」

「見たわ。ウチの研究室の生徒達が作った庭なんでしょ?

綺麗だったわね。だけどあそこに死体があったなんて・・・」

「あ、あそこじゃないんです。裏庭なんです・・・あったのは」

アヤカが否定する。

「そうなの?」

ああ、そうか、みんなニュースを見て誤解してるのね。

「秋元さん、被害者の田中カズキって生徒知ってます?」

「うーん、どうかしら。ウチの益戸キャンパスだけでも生徒が2千人くらいいるのよ」

「そんなにいるんですか!?」

「そうね。千花大学全体だと1万、大学院を入れると1万3千人くらいいるから」

アヤカは小さくうめき声をあげた。

そんなにたくさん生徒がいるのなら、一人の生徒の情報なんて無理かな・・・。

「彼、経済学部らしいんですが・・・」

ミナが代わりに尋ねる。

「経済学部?うーん、私は教授たちと直接話すことはあまりないんだけど・・・ちょっと待っててね。

20分くらいで戻るから」

そういって秋元さんは部屋を出て行った。

どうする?

アヤカはミナと顔を見合わせた。

秋元さんが出て行ったので部屋には誰もいない。

とりあえず、待つしかないか。

ミナは立ち上がってあちこちの熱帯植物を観察していた。

アヤカは座ったまま事件を考えていた。

きっと警察が話を聞きに来ているはずだけど、何か別の情報があれば・・・。

電話が鳴ったので現実に戻された。

(どうしよう?秋元さんいないし・・・)

アヤカが迷っているうちに3度目のベルでミナが電話を取った。

「はい・・・研究室です」

ミナはこの研究室の名前を知らない。

「あ、庭のセンセイですね。カフェ・ヴェルデの平原です。ええ、店でお会いした」

え!?准教授?

アヤカが腰を浮かせる。

そのまま庄治准教授とミナの会話が続く。

「そうなんです、秋元さん今部屋にいらっしゃらなくて。ウチのオーナーと一緒です」

「・・・あの件で・・・わかりました。秋元さんに伝えますね。はい、じゃあ」

ミナが受話器を静かに置いた。

「なんて!?」

「センセイ、今益戸の北のほうにいるって。講義が始まる前に戻るって言ってたんだけど・・・」

「だけど?」

「アヤカと一緒にセンセイに話を聞きに来たって言ったら、すぐ戻るって」

ミナがにっこり笑う。

准教授が・・・私のために!?

顔が赤くなっていたに違いない、軽くミナがクギを差した。

「センセイは事件に興味があるみたいよ?」

なんで落とすのよミナ!


「お待たせしたわね」

せかせかと秋元さんが部屋に戻ってきた。

ふうふう言いながらソファに座り、アイスコーヒーを手にして一息つくと

「事務室までちょっと遠いのよ。あのね、今事務室の経理部の人に聞いてみたの。

少しだけわかったことがあるのよ。彼、田中カズキくん、2年前に留年したみたいなの」と話し出した。

ああ、23才で大学4年生なのは留年したからなのね。

「それでね、その理由というのが単位が足りなかったからみたいなの」

「やっぱり・・・授業をさぼっていたんですか?」

「さぼっていたというか、バイトが忙しかったみたいで授業に出られなかったというのが本当みたいね」

え、でもホストって夜のバイトでしょ?

「一度、事務室に担当教授と一緒に相談しに来たみたい。なんとか猶予が欲しいっていうことでね」

うーん、やっぱり見かけどおりにチャラかったってこと?

「でも、変よね。教授と一緒に来るってことはその生徒を辞めさせたくなかったってことでしょ?」

ミナが考え込みながら言う。

「そうなのよ。教授も一生懸命田中くんの学費の支払いを待って欲しいと頼んでいたみたい。彼、ホストクラブでバイトしてたって言ったわよね?」

秋元さんがアヤカを見た。

「そうです」

「でもね、教授が連れていた生徒さんは、そんな派手な格好はしてなかったみたい。なんていうか地味で真面目そうな生徒さんだったって言ってたわ」

「そうなんですか?」

それが本当なら田中カズキはここ1、2年でまったく変わってしまったことになる。

一体何があったの・・・?

「秋元さん」

アヤカが呼びかけると、コーヒーを飲んでいた秋元さんが顔を上げた。

「田中カズキの担当教授の名前を教えて頂けますか?できれば直接お話を聞きたいんです。私たちが話に聞いてた人物像とはかなり違うみたいで・・・」

「ああ、それなら経済学部の宮井教授よ。でもそのときの教授は違う人なの。佐原教授、よかったら予定を聞いてみましょうか?」

「ぜひ、お願いします」

そこに庄治准教授が帰ってきた。

「ただいま。ああ、鈴井さん、平原さん、いらっしゃい」

相変わらずぼさぼさの髪で青いつなぎの作業着を着ている。

「まあ、庄治くん。早くこっちに!」

秋元さんが飛んでくる。

准教授が歩くたびに足元の長靴に付いた泥がボロボロと落ちる。

そのまま准教授を部屋の隅にあるロッカーの前に連れていった。

准教授がロッカーの前に敷いてあるマットの上で長靴を脱ぎ、続いて青い作業着を脱ぎだす。

え!?女性の前で?

アヤカが慌てたが、下にはちゃんとTシャツとジーンズを履いていた。

なんだ・・・。

ミナがじーっとソレを見ている。

准教授は青い作業着を脱ぎ去るとそのままおいて、マットごと丸めた。

そしてロッカーからローファーに履き替え、やっとこちらに歩いてきた。

作業着を着ていない准教授を見るのは初めて。

意外と締まった身体をしている。

そういえば、柏原教授もそうだっけ。

園芸科は土を運んだりするからけっこう力仕事なのよね。

新しい准教授を発見して、アヤカの頬がほんのり赤くなった。

「お待たせして申し訳ありません」

「い、いえ、こちらこそ突然お邪魔して」

汗をかいているのかハンカチを取り出し、おでこを拭いている。

あ、あれ?

准教授、意外と・・・イケてる?

長い前髪をかきあげると優しい目がのぞく。

アヤカが何も言わないのを見ると、ミナが話し始めた。

「センセイ、うちのニュース見ました?」

「ああ、僕は見ませんでしたけど、今日ここに来たらみんなが話してました」

准教授がソファに座る。

「センセイ、被害者は田中カズキと言うんですけど、何かわからないかと思って来てみたんです」

「今、秋元さんが事務室で少し調べて来てくれたんです」

ここからはアヤカが引き取った。

秋元さんが調べてくれたことを話している間に、秋元さんが准教授の分のアイスコーヒーを持ってきた。

「庄治くん、経済学部の宮井教授、知ってる?」

「知ってますよ。それに佐原教授も」

身体をひねってアイスコーヒーを受け取りながら准教授が答える。

「じゃあ、経済学部の秘書に予定を聞いてみるわ」

そのまま机に座り、秋元さんが電話し始めた。

「ああ、暑かった。カフェ・ヴェルデの珈琲、アイスも美味しいですね。・・・鈴井さん」

「はい!」

アイスコーヒーを半分ほど飲んだ准教授がアヤカを見る。

「大変でしたね。僕に協力できることであれば何でもやりますよ」

「ありがとうございます」

電話を切る音がしてそちらを向くと秋元さんがこちらにやって来た。

「庄治くん、宮井教授は講演で神戸まで行っているみたい。・・・でも佐原教授は今研究室にいますって。教授に聞いてもらったら、今少し手が離せないのでこちらに来てくれればお話しますって」

「わかりました。・・・じゃあ、鈴井さん、平原さん、行きますか?」

揃って、話を聞きに行くことになった。


「ここからが経済学部の棟です」

3人は園芸科を出て、キャンパス内を歩いていた。

キャンパスの端の園芸科から経済学部までは歩いて10分ほど。

千花大学の構内はかなり広いようだ。

先生や職員たちは自転車で移動する人もいるという。

午後1時半。

経済学部の棟に着くと、講義中のため静かだった。

時折大きな教室からマイクを通した声が聞こえる。

研究室が並ぶエリアの廊下を歩くとコツコツという靴の音が響く。

准教授がある部屋で止まった。

部屋のドアの横には『国際情報科 佐原正孝教授』というプレートがある。

「失礼します」

准教授がノックして部屋に入る。

アヤカとミナが続く。

部屋はパソコンがたくさん並べられ、本や資料にあふれている。

わかるだけで英語や中国語などの書籍もある。

柏原教授の部屋とはかなり違う。

部屋の奥の大きなデスクにベストとシャツで身なりを整えた男性が座っていた。

アヤカ達が部屋に入っていってもパソコンのディスプレイに見入っていて気づかない。

代わりに教授の横に立っていた男性がこちらに気づいて教授を促す。

「庄治准教授がいらっしゃいました」

教授がやっとこちらを見た。

「佐原教授。お時間を取って頂いてありございます」

准教授が軽く頭を下げたので、アヤカ達もあわてて頭を下げる。

「おたくの秘書から話は聞いたよ。なんでもウチの生徒のことで話があるとか・・・」

「ええ、そうなんです。・・・以前担当されていた生徒ですけど」

「どの生徒かな?」

佐原教授が立ち上がってこちらに歩いてきた。

「教授、とりあえず、座っていただいては・・・」

先ほどの男性がそっと教授に言う。

「ん?ああ、そうか。失礼した。そちらの女性方は・・・?」

教授がアヤカとミナに目を留める。

「教授」再び男性が言う。

「いや、すまん。かけて下さい」

教授が客用ソファに座るように促した。

「失礼します」3人で並んで座った。

「次の講義の準備をしててね。・・・そんなに時間は取れないんだが、それでもいいかね?」

「申し訳ありません。実は以前、佐原教授が担当されていた田中カズキという生徒についてお聞きしたいことがありまして・・・」

「どういうことかね?」

佐原教授は田中カズキの名前を聞いてもピンとこないようだ。

こういう大学の教授達は世間の情報には疎いのかしら。

「あの・・・佐原教授、私、鈴井アヤカと申します。実は・・・」

時間がないということなので急いでアヤカは昨日の事件の概要を話した。

初耳だったらしく、佐原教授は話が進むにつれ驚きを表した。

「あの田中くんが・・・」

「はい。それで、田中カズキさんが教授のもとにいらっしゃったと聞きまして・・・2年くらい前ですけど。そのときのことをお聞きしたいんです。なんか・・・以前と今の評判というか、印象が全く違うみたいなのでどういうことなのかと・・・」

佐原教授が胸の前で腕を組んでうめいた。

話しにくそうだったが少しづつ話し始めてくれた。

「田中カズキくんはね、講義も前でしっかり聞いていたし、僕のゼミに入ったときも勉強熱心で優秀な生徒だったよ。それがね・・・ちょっと家庭の事情でね」

「家庭の・・・事情ですか?」

「彼が2年生のときに、父親が借金を負ってしまったらしい、その・・・親戚の保証人とかで。それで彼も、田中くんもバイトを増やさないと生活費どころか学費も払えなくなってしまったんだ」

「え、でも・・・彼、バイトとはいえホストナンバー2だったらしいんですが、それだとお金が足りなかったのかしら・・・」

すると佐原教授が首を振った。

「いや、そうじゃない。そのときは居酒屋でバイトをしていたんだ。それが、それじゃ足りなかったみたいで別のバイトもしていたらしい。しかし、ホストではなかったな」

「教授、彼、確か昼間は引越しのバイトをしていたと記憶しています」

先ほど佐原教授の隣にいた男性が答える。

「そうだったのかね、小林くん。・・・とにかく昼も夜もバイトが入っていたが単位は頑張ってギリギリ取れていたんだ。それでもその年の学費が払えなくてね。確か家にも送金していると・・・私もなんとかならないかと事務室に掛け合ってみたんだが・・・」

「僕も覚えています。2年生でしたがゼミでも英語が堪能だったので、国際経済情勢もかなり勉強していました。株取引や投資についてね。・・・海外で活躍したいと言っていましたね」

小林さんが小さくポツリと言った。

そうか。

じゃあ、古川マサコに話したことは全く嘘ではなかったんだ。

熊本や母子家庭は嘘だったが、実家に送金したり将来海外で活躍したいと言ったのは本当だった。

「残念ながら彼は留年して3年生には上がれなかった。それと同時にウチのゼミも辞めたんだ。それからは田中君と縁が切れてしまったからわからないがね・・・」

佐原教授が腕時計に目をやる。

「すまないが、もういいかね。まだ講義の準備ができていないんだ」

「あ、ありがとうございました」

アヤカが頭を下げる。

「佐原教授、お時間ありがとうございました」

庄治准教授も頭を下げ、佐原教授の研究室を辞した。


「ふぅ~」

アヤカは思わず大きな息を吐いた。

午後4時にカフェ・ヴェルデに戻るとミナと2人で明日の準備を始めた。

ホストというバイトに対して偏見の目を持っていたのもあったけど、彼は真面目な学生だったらしい。

「夜だけの仕事ってことでホストを選んだのかもしれないわね。そうすれば昼間は学業に専念できるし」

ミナが眉をひそめながら何かの生地を作っている。

「そうね。今の担当教授とは話せなかったけど、どうやら彼、今も真面目には変わらないみたいだし」

佐原教授の部屋を出て、柏原教授の研究室に戻ると秋元さんが待っていた。

柏原教授はまだ外出しているらしい。

秋元さんはいろんなところにツテがあるらしく、田中カズキの最新情報を調べてくれていた。

それによると、田中カズキは格好は少し派手になったらしいが、毎日真面目に大学に通っていたらしい。

新しい教授ともうまくいっているみたいだが、友人はあまりいなかったようだ。

「留年したから同期はもう大半が卒業してしまっているしね」

秋元さんが可愛らしく首を傾げる。

宮木教授のところにも警察は、一之瀬さん達だろうか、聞きに来ていたらしい。

さすが警察、やるこことはちゃんとやっている。

「友人は以前入っていたサークル・・・経済研究らしいけどそこに何人かいたらしいけど・・・それも今は入っていないみたいね」

ふーむ、大学方面はもう手詰まりか。

あとは前田コウキに期待しよう。

それから1時間、アヤカとミナは厨房で仕事に集中した。

しばらく店は開けないと思って、焼き菓子はほぼ廃棄してしまったので、大量に焼かないと。

「あ!」

「何?」

ミナは伸ばしていたクッキー生地からチラッと目を離して聞き返した。

「うん・・・結局業者に連絡するの忘れてた」

「そういえば・・・。でも店は明日から再開できることになったんだし結果オーライ」

「そうね」

顔を見合わせて2人で笑った。


大体の作業が終わったので厨房はミナに任せてアヤカは2階に上がった。

階段を上るとすぐスタッフの休憩室と事務室を合わせたスペースがある。

ロッカーやソファ、小さいテーブルが置いてあるので、

スタッフはここで着替えたり休憩して寛いだりする。

アヤカはひとつだけある机のノートパソコンを開いた。

カフェ・ヴェルデのホームページを立ち上げる。

タウン誌時代にWEB版の管理をしていたので、こういう作業はお手のものだ。

ミナは機械にまったく疎くパソコンどころか今もガラケーだし、チカはスマホしか使えない。

”6/8から通常営業再開致します。皆様のお越しをお待ちしています”

店の情報を更新した。

これでお客さんが来てくれるだろうか・・・。

ぼんやりとカフェ・ヴェルデのトップページを見る。

トップの写真は店の庭(裏庭ではない)と外観、内観、自慢のメニューに次々と切り替わる。

ホームページのアクセスカウント数がものすごく上がっていることに気づいた。

事件を知った人たちが店の情報を見に来たのだろう。

アヤカ、ミナ、チカ3人のスタッフ写真も載っている。

もし・・・これで客足が遠のいたら店はあっという間に潰れてしまうだろう。

せっかくミナに無理言って来てもらったのに・・・。

チカもやる気になってくれていたのに・・・。


「コンコン」

ミナが口で言いながら2階に上がってきた。

「休憩と珈琲と新作ね」

手にトレーを持っている。

湯気が立った珈琲の香りがあたりに広がる。

「なあにこれ?」

「新作のタルト・シトロンよ」

ミナが珈琲と皿に乗せたお菓子をテーブルに置く。

カフェ・ヴェルデのメニューのひとつで毎日タルトを供している。

直径15センチの丸いタルトで、ミナの気まぐれで毎日中身が違う。

目の前に出されたのはツヤツヤした鮮やかな黄色のタルトだ。

「下からレアチーズクリーム、レモンクリーム、レモンカードの順に重ねて、上にレモンピーるを少し飾りづけしてあるわ」

「美味しそう、それに綺麗ね」

ひとつ取って口に運ぶ。

タルト生地はクッキーのようにサックリしている。

なめらかなクリームがとろりと口の中で溶け合い、レモンピールが食感のアクセントになっている。

レモン本来の酸味に甘いレアチーズが加わって絶妙のバランス。

「美味しい!」

そして珈琲を口に運ぶ。

ああ、幸せ。

さっきまでの悩みが薄れていく。

そうよね、起きてしまったことはもう取り返しがつかない。

やってみるだけやって、ダメだったら諦めよう。

「ミナ、これすっごく美味しい!紅茶にも合いそうよね。すぐホームページに載せるわ」

そう言ってミナの分のタルト・シトロンを奪って机から取り出したデジカメで撮る。

すぐパソコンに取り込み、フォトショで大げさにならないほどに修正をかけた。

「すごいわね」

ミナが珈琲を飲みながらポツリと言う。

「だって、私にできるのはこれくらいだもん。ミナみたいにお菓子の達人じゃないし、チカみたいに人を惹きつける魅力もないし」

「そうじゃなくて。あやかの猪突猛進なトコ」

「それ、私の悪いトコじゃない」

ミナがかすかに微笑んだ。

「アヤカに声をかけてもらわなきゃ、私、きっとずっとあそこでお菓子を作り続けていた。満足感とモヤモヤした中途半端な気持ちのままで。だからアヤカが引っ張ってくれて嬉しかった。アヤカはこうと決めたら一直線だもんね」

「そんな・・・・いつも突発的だって母さんに叱られてるのに」

「でもアヤカはいつも一生懸命だから、周りが支えてくれてる。おばさんだってああ言ってるけど、結局見守ってくれてる。放っとけないんだよ。今回のことだって、いろんな人が力を貸してくれてる」

この事件。

調べてみようと決めたのはいいけど、ど素人のアヤカに手が出るはずもなかった。

それを長谷川のおばさんや、甥の前田コウキ、庄治准教授、タウン誌の元同僚たちが情報を集めてくれている。

母やチカ一家だって心配してくれてる。

特別な人はいなけど、自分は周りに支えられていることを今回の事件で感じた。

なんと言って感謝したらいいかわからない。

だから私も頑張らなきゃ。

絶対犯人を見つけてやる!

「で、そろそろ私のタルト返してくれない?」


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