第3章
翌朝、最悪の気分でアヤカは目を覚ました。
ベッド横のテーブルの時計をぼんやりと確認する。
(もう8時半・・・)
いつもなら店に行ってミナと一緒に開店準備を始めている時間だ。
再び枕に頭を落として、じっと天井を見つめながら昨日の出来事を思い出していた。
自宅に帰ってからアヤカはテレビを見たり、
ネットで事件のニュースや被害者の情報を検索していた。
いいかげんな情報が多く飛び交っていて、アヤカの気持ちは暗くなる一方だった。
そのままベッドに入り、目覚まし時計をかけずに寝てしまったらこんな時間になってしまった。
最悪、最悪、最悪、、、この言葉が頭の中でグルグル回転した。
(とりあえず起きよう)
もう一度目を閉じたい欲求を振り切って、アヤカはもそもそとベッドから這い出た。
ベッド横のカーテンを開けると今にも空が割れて泣き出しそうな曇り空だ。
(まるで今の私の気分みたい)
一人暮らしのアヤカのアパートの部屋はシンとしていた。
まわりの住人もすでに通学したり出勤してしまったのだろう。
アパート全体が静寂に包まれている。
アヤカのアパートは益戸と香椎の真ん中あたりにある
シングル向けの4階建ての中古アパートだ。
リノベーションしてあるので、そんなに古さは感じられない。
アパートのすぐ側には江戸川から分かれた支流の小さな川が流れていて、
もうすぐ訪れる夏は蝉の声でうるさいほどだが、
川沿いの道は春は桜が咲き、道端には花が植えられ気持ちのいい散歩道である。
アヤカも時々一人で散歩する。
アヤカの部屋は3階で1DKの一人暮らしには十分な広さ。
割と大きめの台所と、6畳のダイニング、4・5畳のベッドルームがある。
家具はウッド調の色合いで統一しているが、
基本シンプルが好きなので、あまりモノを置いたりや飾りつけをしていない。
母からはあまり女性的な部屋でないと言われた。
(ほっといて)
一応気にしてグリーンを少し置いてみたのだが、どうも相性が悪いらしく枯らしてしまった。
時間をかけて熱いシャワーを浴び、気分をシャッキリとさせた。
今日は黄色のブラウスとブルージーンズを選んだ。
服だけでも明るくしようと思ったのだ。
スリッパをパタパタとさせながらキッチンに行き、ヤカンに水を入れて火をかけた。
食器棚からお気に入りの『マリメッコ』の花柄マグカップを取り出し、
『トワイニング』の『レディグレイ』のティーパックを入れる。
インスタントの紅茶を入れるなんてカフェの店主としてあるまじき行為?
いえいえ、ティーパックといっても美味しいものも多いんだから。
このトワイニングのレディグレイはアヤカの大のお気に入り。
オレンジで風味付けされ、香りが高く、一人で飲むにはぴったり。
テーブル上にあったカフェ・ヴェルデの紙袋からプレーンスコーンを2つ取り出す。
昨日ミナが焼いたものだ。
オーブンで少し温めて、冷蔵庫からバターとアプリコットジャムを出した。
ピーっと音を立ててヤカンが鳴った。
マグにお湯を注ぎ、席に着く。
「いただきます」
アヤカの朝食が揃った。
スコーンは朝食としても、軽い食事としても1日中食べられる。
食事メニューが無いカフェ・ヴェルデでは常に注文される人気メニューだった。
スコーンを横に半分に割り、ジャムとバターを付ける。
ジャムとバターの甘さが口の中に広がり、温めたスコーンのミルクの風味と重なる。
紅茶にミルクを入れ熱さにふうふうしながらすする。
美味しい。
一人なのに思わず笑みがこぼれる。
もったいない、こんなに美味しいのに昨日はほとんど捨ててしまった。
スコーンを食べ終わると、紅茶のカップを持ってソファに座りテレビを付けた。
朝のニュースバラエティにチャンネルを合わせた。
しばらく見ていたが、カフェ・ヴェルデの事件は出ない。
リモコンでパチパチといろんな局に変えてみる。
(さすがに全国キーではやらないわよね)
アヤカがホッと安心したとき、突然、画面にカフェ・ヴェルデが映った。
大通りに面したカフェ・ヴェルデのイングリッシュガーデンの画像だ。
警察が規制線を張っていたので、店正面からは撮れなかったのだろう。
ニュースは画像と音声だけで店の名前と場所、死体が見つかったこと、被害者の判明、犯人はまだ捕まっていないということだけで、1分足らずですぐ次のニュースに移った。
(ああ、全国区でニュースが流れちゃった)
一瞬暗い気分になったが、アヤカが思っていたより大きく取り上げられていない。
そうよね、こういう事件なんて毎日起きていることだし。
でも、まさか自分の身近で起きるとは。
アヤカは深くため息をつくと、今日やるべきことに向けて気持ちを奮いたたせた。
アヤカはスマホを手に取ると、電話をかけた。
「もしもし、ユキコさん?」
「アヤカ!?大丈夫?ニュース見たわよ!」
元上司、益戸タウン誌編集長のユキコさんが勢いこんで電話に出た。
「大変なことになったじゃないの!お店、どうするの・・・そのこれから」
「ユキコさん、お願いがあるんです。私、犯人を見つけたいんです。
被害者について情報を集めてくれませんか?」
「え!?」
「あの死た・・・いえ、被害者は学生なんですけど、バイトでホストをしていたみたいなんですよ。
なんかその周辺に怪しい情報とかないか知りたいんです」
「・・・」
ユキコが沈黙する。
「昨日、ネットで調べてみたんですけど、被害者の田中カズキは香椎の『ダイヤモンドヘッド』というホストクラブに勤めていたらしいんです。店のホームページに写真が載ってました。
・・・ユキコさん、聞いてます?」
「聞いてるわよ。そのダイヤモンドヘッドって店も知ってる。香椎の駅近くの歓楽街にあるの」
さすがユキコさん、この辺りの情報に詳しい。
「でも、アヤカ。あなたそんな事件を調べるなんて・・・危険じゃないの?」
今度はアヤカが沈黙した。
「犯人、まだ捕まってないんでしょ?・・・店は気の毒だけど、犯人が見つかるまで、
世間のほとぼりが冷めるまで待ったほうがいいんじゃない?」
ユキコさんの意見はもっともだ。
でもこのまま見ているだけなんてできない。
昨日の臆病な自分はどこに行ったのか、アヤカは犯人に怒りを覚えていた。
カフェ・ヴェルデを、私たちの生活を、おばあちゃんの場所を・・・犯人は汚した。
ふーっというユキコのため息が聞こえた。
「わかった、アヤカ。まかせて、やってみるから。益戸タウン誌の全勢力を上げて情報を集めてみせるわ。みんなもきっと協力してくれるから。それにね・・・」
ん?
「探偵みたいでちょっとわくわくしちゃうじゃない?」
「もうユキコさんってば」
アヤカは思わず笑った。
ユキコの励ましが嬉しかった。
電話の向こうでユキコも笑っている。
「みんなーアヤカからよ、元気よ、これからみんなでアヤカに協力して事件の情報集めをするわよ!」
「オッケー!」
「アヤカー、頑張れよー!」
電話越しに元同僚たちの声が聞こえた。
みんな・・・思わず涙があふれそうになった。
午前10時。
アヤカは愛車でカフェ・ヴェルデに向かっていた。
ユキコとの電話を切ったあと、ミナに電話をした。
というのも、アヤカもミナも忘れていたのだが、材料を届けてくれる業者に連絡していなかったのだ。
いつも在庫確認に厳しいミナが連絡を忘れるなんて。
傍目にはわからなかったが、あのいつも冷静なミナですら動揺していたということか。
仕入れは月曜日と金曜日なので、火曜日の配達はないが、
いつ店が再開されるかわからないので、
とりあえず金曜日の生鮮食品の入荷は止めようということになったのだ。
「連絡先わかる?」
「ごめん、事務室にある」
そういう訳で今アヤカは車で向かっているのだ。
ミナに電話したとき、彼女はバイクで香椎から南に20キロほど行った幕葉の海岸にいた。
なんでそんなとこにいたのかは聞かなかった。
ミナもショックを受けているのだ、アヤカと同じで。
ミナには事件を調査することは言わなかった。
いずれ話すだろうが、今はまだ何もわかっていないのだし。
私が行くと言ったミナに今日は休みだからゆっくりしてとオーナーとして言った。
本当なら日曜日は定休日で、店がオープンするにあたっておとといの日曜日は営業していたのだ。
次にチカにも電話してみたが、通じなかった。
いつもなら朝は朝食の支度、娘の通園準備などに追われている時間だ。
今日は店が休みになったので少しはアンと過ごす時間が取れているだろうか。
姪のアンにはアヤカがカフェ・ヴェルデを開くことでママとの時間を奪ってしまったことに
後ろめたさを感じていた。
チカはアンはしっかりした子だと言っていたけど、本当は寂しさを感じているのかもしれない。
とりあえず今は以前のような親子の時間が取れるんだからそっとしておこう。
家から15分ほどでカフェ・ヴェルデの裏庭に到着した。
一度車から降りて”立ち入り禁止”テープを外した。
駐車場に車を止めて一度ごみ置き場で足を止め、チラッと”あの場所”に目をやってから店に入った。
厨房はシンとした静寂が漂っているが、まだお菓子の甘い匂いが残っていた。
そのままカフェフロアに入った。
明かりもついていない暗い店内は気のせいか不気味だった。
誰もいない店内は寂しい・・・一昨日まではお客様でいっぱいの賑やかで明るい店だったのに。
事務室に行こうとカウンター奥の2階へ続く階段を上ろうとして、
ふとイングリッシュガーデンに目を移すと、黒いものが動いているのが見えた。
誰かいる!
音を立てないように静かに窓に近寄ってこっそり窓の外を見ると、
黒のツーピースを来たショートカットの女性だ。
花を持ってウロウロしている。
犯人・・・じゃないわよね。
遺族の方かしら・・・。
アヤカは少し迷ったがそっと窓を押し開けた。
「あの~・・・」
「ひっ!」
声をかけると女性は飛び上がらんばかりに驚いたようだ。
「あの、どなたですか?」
女性はアヤカのほうを向いて表情をこわばらせている。
「私、この店のものです。あなたは田中さんの・・・遺族の方ですか?」
気を取り直したのか、やっと口を開いた。
「いえ、私、、、そう遺族のようなものです・・・」
ん?なんか変じゃない?
「あの・・・どういう?」
女性がせきを切ったように泣き出した。
「私、蘭丸ちゃんの恋人です!」
「どうぞ」
アヤカが珈琲を2つテーブルに置いた。
女性はハンカチで涙を押さえていた手を離して珈琲をとった。
黙って口に運ぶ。
2人の間に沈黙が流れる。
「あの・・・」アヤカが口火を切る。
「失礼ですがお名前は・・・」
「・・・古川マサコです」
やっと女性の名前が判明した。
アヤカは失礼にならないようにこっそり彼女を観察した。
年齢は40歳代半ばだろうか、髪は少し巻き毛のブラウンのショートカット。
しっかりと化粧をしていたみたいだが、先ほどの涙でマスカラが流れて目の周りが少し黒ずんでいる。
ふくよかな体つきで、背はアヤカより少し低めの160センチくらい。
着ている黒のノーカラーのスーツは仕立てが良さそうだ。
おそらく喪服のつもりなのだろう。
同じく黒のパンプスはしごくシンプルだ。
しかし、指にはゴージャスな指輪が3つもはまっていて、肩から掛けていた小さなショルダーバッグも高価な感じだった。
「恋人宣言」を聞いてアヤカはあっけに取られたが、
激しく泣いているこの女性を促して店の中を通り、裏庭に案内した。
田中カズキが亡くなったのはごみ置き場裏だとわかると先ほどよりも泣きじゃくった。
女性は花を置いてずっと泣いていたので、アヤカはその後ろで所在無く立ち尽くしていた。
5分ほどすると女性が立ち上がってフラフラと裏庭から出て行こうとしたので、
あわてて店内に招き入れた。
危険そうじゃなかったし、この女性が恋人と言ったのが気になったのだ。
蘭丸という名が田中カズキのホスト名ということはホストクラブ・ダイヤモンドヘッドのHPで見て知っていた。
ということはこの女性は田中カズキの店の客ということになる。
身なりもいいし、常連客なのかも・・。
「あの・・・ありがとうございました。蘭丸ちゃんの・・・亡くなった場所を教えてくれて」
落ち着いたのか、やっと古川マサコが話し始めた。
「いえ。あの、ご愁傷様です。私、この店のオーナー、鈴井アヤカと申します。・・・私が、いえ、私たちが田中さんの遺体を発見しました」
「どうだったんですか?その、ニュースでしかわからなくて・・・」
いいんだろうか、教えて。
少し考えたが、当たりさわりがないことなら言ってもいいだろう。
アヤカは田中カズキを発見し、警察が来たことを話した。
ナイフのことや、例の・・白い粉のことは伏せて。
アヤカをジッと見つめて古川マサコは黙って聞いていた。
田中カズキが耳にしていたピアスの話にきたときは、顔が歪んだ。
「それ、私が蘭丸ちゃんにプレゼントしたものです、きっと」
今度はアヤカが黙って聞く番だった。
「蘭丸ちゃんと一緒に香椎の高松屋に買い物に行ったんです。それで、素敵なダイヤのピアスを見つけて。蘭丸ちゃん、遠慮したけどよく似合っていたから。
蘭丸ちゃん、私にもプレゼントをくれたんですよ、ホラ」
古川マサコが耳のイヤリングを見せる。
どう見ても、あのピアスとはランクが違う。
安そうなパールのイヤリングだった。
「蘭丸ちゃん、優しい子なんですよ。母子家庭で熊本にお母さんがいるんですって。
ホストでバイトして学費と生活費を稼いで残ったお金をお母さんに仕送りしてるんです」
それはウソだ。
刑事さんから田中カズキの実家は神奈川県だと聞いた。
両親も健在で、母子家庭だなんてとんでもない!
アヤカは危うく叫びそうになったが、ぐっと堪えた。
「蘭丸ちゃん、いろんなことを私だけに話してくれたんですよ。
大学では経済学部で勉強していて、株や投資の会社に入りたいって。
それでお母さんをこっちに呼んで暮らしたいって」
生きた田中カズキに会ったことはないけど、思いっきりひっぱたいてやりたい気持ちになった。
「私の主人は香椎で不動産業をしているので、そっち方面に顔が効くから、蘭丸ちゃんを紹介しようとしたんですけど、主人に反対されて・・・」
そりゃそうだわ。
「あんなにいい子だったのに・・・」
またさめざめと泣き出した。
アヤカは冷めた珈琲をゴクリと飲んでこっそり顔をしかめた。
それでなくても冷めた珈琲は不味いというのに、今の話を聞いて余計胸がむかついた。
それでもこの女性に反論する気はなかった。
この女性は田中カズキに騙されていたのかもしれないけど、亡くなったことを心から悲しんでいる。
この人に殺人は出来ない。
それとも凄く上手いお芝居に私は騙されているの?
ドンドンドン!!
突然店の玄関ドアを叩く音がフロアに響いた。
誰か外にいる!
ドア上部は透りガラスになっているが、ぼんやりとしか映っていない。
店の外には休業の札が出ているはず。
あれ?でも店の表にも規制テープが張られているんじゃない?
あ、でも古川マサコが庭にいたってことは・・・破られているのね。
それで勘違いしたのかしら・・・?
アヤカは立ち上がって、ドアの内側から声をかけた。
「あの、本日は休業なんですが」
「開けてくれ!妻がいるのはわかってる!」
妻?あ!
振り返ると古川マサコがおびえた表情を浮かべている。
ゆっくりと鍵とチェーンを外すと勢いよくドアが開いて、
入ってきた人物にアヤカは跳ね飛ばされそうになった。
「マサコ!」
「あなた!」
がっしりた体格の中年男性が飛び込んできた。
そのまま店内を突っ切り、古川マサコが座っている窓際のソファ席に突進した。
「お前、やっぱりここにいたのか!」
体が大きく、背が高い。
グレーのチェックの上下スーツをノーネクタイで着ている。
顔は四角く、髪は真っ黒で、肌はゴルフ焼けだろうか、日焼けがすごい。
マサコが立ち上がって窓際までじりじりと後退した。
「朝からいないからここだと思ったが、なんてことを!」
「だって、少しでも早く蘭丸ちゃんのところに来たかったのよ!」
「お前・・・・」
男性が身体の横でこぶしをぎゅっと握って震えている。
アヤカのことは目にも入らないようだ。
「恥知らずな!周りに知られたらどうするんだ!俺が恥をかくんだぞ!」
「あなたは仕事ばかりで、私のことなんて放っておいたじゃないの!」
メロドラマか!
思わずアヤカは突っ込みを入れたくなったが、黙って聞いていた。
「あんな若い男にいれあげてすぐ飽きるかと放っておいたら、金ばかり使いこんで!
・・・まさかお前じゃないだろうな・・・?」
「何言ってるの?あなた、まさか私が・・?」
それまで夫から距離をとっていたマサコが顔を真っ赤にさせて夫に詰めよった。
「そんなわけないじゃない!私は蘭丸ちゃんを愛していたのよ!」
「マサコ!」
「蘭丸ちゃんがいなくなって一番悲しんでいるのは私なのよ!」
そういうとマサコはまたシクシクと泣き出した。
急に夫はオロオロとしだし、マサコの体にそっと手を回した。
「すまなかった、マサコ。・・・とりあえず帰ろう」
そのままマサコを促してドアから出て行こうとした。
「あの~」
アヤカが声を掛けると夫がやっとアヤカを見た。
「ん?ああ、すいません、お騒がせしました」
そう言うと、さっさと出て行こうとしたので
「ちょっと待ってください!」
やっと足が止まってこっちを向いた。
「あの、古川さんですか?」
「そうです。・・・妻がお騒がせして申し訳ありません」
軽く頭を下げられた。
「ずっと聞いておられたんですよね。・・・お恥ずかしい話ですが、妻は・・その・・・ホストクラブに通っていて、あの男に貢いでいたんですよ。まったく・・・ひどい男に引っかかったもんだ」
吐き捨てるように言った。
マサコはずっと泣きじゃくっている。
さっきの妻の吐露をこの人は全然聞いていない。
ホストの男が全部悪く、妻は悪い男に引っかかっただけだと思っている。
自分にも非があるとは思っていないんだ。
こういう男は妻の心が離れようとしていても、気づかない。
「失礼します」
「あ、あの」
バタンと扉が閉まり、店にはアヤカだけが残された。
しばらくドアを見つめたまま、アヤカは立ち尽くしていた。
店内は嵐が去ったような静けさが戻っていた。
あ、そうだ、電話しなきゃ。
店に来た目的を思い出して今度こそ2階に行こうと階段に足を向けたとき、店の電話が鳴った。
(んもう!)
出ないわけにはいかなかったので、カウンター上の電話の受話器を取った。
「もしもし、カフェ・ヴェルデでございます」
「もしもし、私、〇〇新聞の〇〇と申します。事件について取材させて頂きたいのですが・・・」
え!?
こういう事態を考えていなかったわけじゃないけど、本当にこういう話が来るとは・・・。
「あ、あの、申し訳ないですけど、警察に聞いてください!」
「しかし・・・」
ガシャン!
叩きつけるように電話を切ってしまった。
ハッとしたときにはもう遅かった。
(しまった!つい焦って切っちゃった!)
もちろん取材を受けるつもりはなかったけど、店の対応としてこれはマズかった・・。
後悔・・・。
肩を落として再び2階に行こうとすると、また電話が鳴った。
(さっきの・・・?)
今度は冷静に対応しなきゃ。
「はい、カフェ・ヴェルデでございます」
「益戸署の一之瀬と申します。・・・鈴井さんですか?」
きゃー、刑事さんだ!
「携帯電話に掛けさせて頂いたんですが、お出にならなかったので、お店に掛けさせて頂いたんです」
あれ?
受話器を耳と肩に挟みながら、慌ててバッグの中を探り、スマホを見ると着信が2件ある。
操作して着信名を見ると、チカと不明番号が表示された。
どうやらコレが警察署の番号らしい。
そういえば、名詞を貰ったっけ、登録しておかないと・・・そんなことをアヤカが考えていると
一之瀬が話し出した。
「鈴井さん、お電話したのは、店の営業許可が出たのをお知らせしたかったのです」
「え!?」
「鑑識の調べで、店内にも店の外にも被害者の指紋は出ませんでした。それに・・・」
それに?
「被害者の殺害現場は店の敷地内ではありません。毛髪も、血痕も出ませんでした」
「ってことはつまり、別の場所でその・・・殺されて、ウチに運ばれたということですか?」
「そうです」
やっぱりウチに捨てられただけだったんだ。
でもなぜウチに?
もしかして私たち3人が知らないうちに誰かに恨みでも買っているの?
「あれから田中カズキの両親が遺体の確認をしました。・・・辛い場面ですよ、こういうときはいつも」
アヤカが黙っていると
「鈴井さん、そういうわけで本日から店を営業しても大丈夫です」
この場合、ありがとうございましたと言ったほうがいいんだろうか。
「・・・わかりました。あの、また事件のこと、連絡してくれますか?」
「うーん、そうですね。捜査上話せないことも多いんですが、ご自分の敷地内で起きたことで不安でしょう。・・・わかりました、ご連絡は欠かさずしますよ」
「ありがとうございます」
心から言葉が出た。
電話を切ったあと、さっきの古川夫妻のことを話さなかったのを後悔した。
もしかしたら、もう調べてるのかもしれないけど・・・。
とりあえず、また明日からカフェ・ヴェルデ再開!
お客さんは来てくれるだろうか・・・こんな死体が出た店に。
とにかくまず着信があったチカに連絡しよう。
もう一度珈琲サーバーからまだ熱い珈琲を入れて先ほど古川マサコがいたソファに座って
電話をかけた。
チラッと店の時計見ると、午前11時前。
もうアンは幼稚園に行ったあとだ。
「ハイ、チカ」
「あ、姉さん!」
チカの弾んだ声が聞こえた。
「今ね、ミッキーと一緒にお茶しているの」
ミッキーとは某夢の国の住人ではない、チカの夫の呼び名だ。
「2人でアンを幼稚園に送って行ってね。良かったら、姉さんも一緒にどうかと思って電話したの」
よかった、チカは昨日のショックから立ち直ってる。
楽しそうな様子のチカに店が再開されることを言うのを躊躇した。
もしかしたら、チカは以前のように専業主婦のままでいたほうがいいんじゃないだろうか。
「あのね・・・さっき刑事さんから電話があったんだけど、店、もう開いてもいいって」
「え!?ホント!?良かった~!じゃあ、これから?」
「え?ううん。今日はもう休みのままだけど、明日からまた開こうかと思って」
チカに先ほどの刑事さんの話をそのまま伝えた。
「わかった。じゃあ、明日は普段通りに出勤ね」
「ねえ、チカ・・・」
「ん?何?」
「あんた、まだウチで働いてくれるの?旦那さんは・・・その、ミッキーはいいって言ってくれてるの?」
電話の向こうで少しチカが沈黙した。
「姉さん、私、姉さんとミナちゃんと一緒に働くのが楽しいの。その・・・姉さんは私を必要としてくれてるのよね?」
思わず言葉に詰まった。
「もちろんそうよ!最初はミナと2人でやろうとしてたけど、あんたが入ってくれてすごく助かってる」
「よかった。私、お荷物じゃないかと思ってて。ほら、私、短大卒業して受付しかしていないじゃない。だからこういう風にちゃんと働くのって初めてで」
アヤカはチカの話に少し驚きを感じた。
チカは短大を卒業してから、就職先の会社で受付嬢をしていた。
美人で華やかな雰囲気をもつチカにぴったりだ。
チカがにっこり微笑めば、大抵の男性は気分が舞い上がってしまう。
受付業務は会社の顔だし、気を使い、細やかな気配りができないと勤まらない。
人の気持ちに少し鈍感なアヤカから見れば、それはすごい才能なのだがそんな風に考えていたとは。
その仕事で出会ったのが今の夫で、娘もいて今は幸せなのだからもっと自信を持ってもいいのに。
「あんたはすごい戦力よ、もうチカがいないとどうやって店を回していいかわからないわ」
チカの気分が良くなるならと少しだけ話を大げさにしたが、どうやらチカは喜んでいるみたいだ。
「ホント!?私、いろんなことを覚えたいの。姉さんがやるラテアートとか、お菓子の焼き方とか」
アヤカが思っていたより、チカはカフェ・ヴェルデのことを大切だと思ってくれているようだ。
私だけじゃなく、チカにとっても思い出の家だものね。
「わかった。じゃあ、どんどん教えて行くからね。ミッキーのほうは大丈夫?」
「ちょっと待ってね・・・」
電話の向こうで2人の話す声がかすかに聞こえた。
「もしもし?あのアレは置いていかれただけってことで少し安心したみたい。
気をつけることって約束されちゃったけど、お店は出てもいいって」
「そう。じゃあ、明日からまたよろしくね。これからミナにも連絡するから」
「うん。・・・姉さん」
「ん?」
「明日からまた頑張ろうね」
そう言って電話を切った。
さて、次はミナ・・・と思って電話をかけようとすると、急に厨房のドアが開いた。
ビクッとして体がこわばる。
入ってきたのはミナだった。
「もう!びっくりするじゃない!」
アヤカは思わず大きな声を出した。
「ごめん」
「結局、来たの?休みだって言ったのに・・・」
「やっぱり気になっちゃってさ」
そう言いながらこっちに歩いてきたが、アヤカが珈琲を飲んでいたのを見ると
そのまま進路を変えてカウンターに向かい、珈琲を持ってきた。
そのままアヤカの対面のソファにドサッと座った。
今日のミナはいつもよりもカジュアルな格好だ。
こげ茶の革のライダースに、黒のTシャツ、黒のストレッチパンツ。
黒のバイカーブーツを履き、肩に掛けていたグレーのリュックをソファの横に置いた。
女性のアヤカが見ても惚れ惚れするほど、カッコイイ。
今日はバイクのヘルメットをかぶっていたためかコンタクトもしているようだ。
髪も今日はそのまま下ろしている。
化粧っ気は相変わらずないが、眉毛と薄いリップだけ塗っている。
ミナが座ったのを確認して、アヤカは話しだした。
長谷川邸の話、古巣のタウン誌に協力をお願いしたこと、
店での古川夫妻のこと、市ノ瀬刑事からの電話。
ミナは時折うなずきなが聞いていたが、一度だけ口を挟んだ。
それは古川夫の話のときだ。
「やっぱり男なんて勝手なものよね」
誤解しないで欲しいが、ミナは決して男嫌いではない。
ミナは一度結婚していた、今は離婚してバツイチだが。
あれはアヤカが27歳のとき、ミナから急に益戸の喫茶店に呼び出された。
「結婚する」
「は?」
何、その晴天の霹靂は?
今まで恋人がいるとも何も聞いていなかった。
ミナは美人なので昔から男子に人気があったが、
ああいう性格なので告白しようとする勇気ある男子はなかなかいなかった。
時折現れる勇者はことごとく玉砕したらしい。
ミナ本人から進んで話すことはなかったので、アヤカは噂が流れるたびにミナに聞き出していた。
そのミナが結婚!?
「人?」
「は?」
ミナが困惑して聞き返した。
「ごめん。何で急に?いたの、そんな人。誰?」
続けざまにアヤカが質問すると、ミナは手でアヤカを制して順番に答えた。
「来月。付き合ったのは半年。今の職場の経営者の息子」
ミナが勤めているブーランジェリーの息子で、半年お付き合いをして来月結婚するそうだ。
言葉が見つからず、アヤカが黙っていると
「びっくりした?」とミナが聞き返す。
びっくりするわよ!
ああ、でもミナらしい。
「まあね、うんでも、ミナっぽい」
「結婚式はしないで、籍を入れるだけだから今と何も変わらないから」
ミナの結婚の条件として、式はしない、今まで通りに働くことを約束したそうだ。
「そっか。とりあえずおめでとう、ミナ!」
「ありがとう」
ぼそっとミナは返事したが、もう少し嬉しそうにしないのかしら。
はあ、美人はいいなぁとアヤカは少し、いやかなり羨ましかったが親友としてやっぱり嬉しかった。
でもあの、ミナが!
翌月、予定通りミナは結婚した。
最初のうちはうまくいっていたようだったが、だんだん思っていたのとは違ってきたようだ。
約束どおり結婚式はしなかったが夫になった両親の希望で、
せめてとウェディングドレスで結婚写真を撮った。
ミナの両親は娘の性格をわかっていて、思ったようにさせていた。
しかし次第にミナは度々夫の仕事に付き合わされるようになった。
ミナの勤めていたブーランジェリーは関東を中心に何店舗も展開していて、
彼はそこの御曹司だった。
ミナはその御曹司の妻としていろんな場所に連れ出された。
キレイは服を着、化粧をすれば美人のミナはそういう場所でかなり目立ったに違いない。
夫は美しい妻を自慢に思っていたようだ。
そんな夫の気持ちとは逆にミナの気持ちはだんだんと離れていった。
そして結婚生活は1年半で終了した。
表に出すことは少なかったが、長い付き合いのアヤカはミナのつらい気持ちがわかった。
離婚と同時にミナは店を辞め、有名フレンチレストランに就職した。
今までの生活を振り切るように、ものすごい努力でミナはトップパティシエに駆け上がった。
そんなミナがアヤカの開いたカフェに来てくれたのに、こんな事件が起きてしまったのだ。
「だから、私も自分で調べようと思うの」アヤカが言うと
「わかった。私もやる」ミナがにやりと笑った。
「そう来ると思った」
きっとミナならそう言うと思っていた。
「じゃあ、具体的に何するの?」ミナの質問にアヤカは一瞬考え込んだが、
「とりあえず、明日からまた営業を再開するから、ミナは店の準備をお願い」
ミナがこっくり頷く。
「私、これから千花大学に行こうと思うの」
「何しに?」
「前田クンは大学での田中カズキを調べてくれるとは言ったけど、私もやってみようと思って」
「ああ、あのセンセイのとこ?」
ミナ、鋭い。
イングリッシュガーデンを作るときに庄治准教授とミナは何度か顔を合わせている。
「えっと、、、うん。准教授なら田中カズキの担当教授とかから何か話が聞けるかなぁって思って」
「ふ~ん」
ミナが目を細めてこっちを見ている。
あら、バレてる?
「ほら、警察はホスト関係から調べているみたいだけど、違う角度からなんかわかるかもしれないし」
ミナが急に立ち上がった。
「じゃあ、ちょっと待ってて、急いでなにか詰めるから」
ミナが時計を見上げるともう12時だった。
「センセイの予定も聞かなきゃいけないし、珈琲とお菓子も持って行ったほうがいいでしょ?
やっぱり私も付いていく」