第1章
【プロローグ】
この匂いは・・・?
動きを止めてじっと周囲をうかがう。
視線を上げると建物の奥にぼんやりとした光が見えた。
おかしい。
この家は誰もいないはずだ。
なのになんでこんな・・・。
耳を澄ませば、かすかな金属の音、足音、小さいが話し声が聞こえてきた。
予定が狂った。
チッと舌打ちしたくなるのをこらえ、荷物をチラッとを見る。
今さら引き返すわけにはいかない。
早く、早くこれを片付けなければ・・・。
【第一章】
「ねえ、早くしないともう時間よ!」
アヤカはハサミを手に持ちながら厨房に向かって大きく声を張りあげた。
カウンターに座っていくつもの小さな花瓶にアジサイを生けようとしているところだった。
6月2週目の月曜日。
朝10時少し前。
窓の外に目を向けてみる。
梅雨の時期なので空は少し曇っているが日が薄く射しているのでまずまずの天気といえよう。
「大丈夫だって」
ミナの落ち着いた声が聞こえる。
カウンターの後ろの厨房からカチャカチャと言う音とともに甘いバニラの匂いが漂ってきた。
(これはバニラシフォンかしら)
アヤカは思わずほくそえんでしまった。
ミナの作るシフォンケーキはフワフワとした食感としっとりした食感が同時に楽しめる。
バニラビーンズを使った香り高いシンプルなバニラシフォン。
あわ立てた生クリームとメープルシロップを添えて出される。
珈琲にも紅茶にもよく合う。
(まったくミナってばすごいんだから)
小麦粉、砂糖、卵、牛乳を与えて厨房に閉じ込めておけば
美味しいお菓子と一緒に出てくるんだから。
こんなにいい匂いに包まれたら珈琲が飲みたくなるじゃない。
(ちょっと失礼)
アヤカは立ち上がってカウンター奥にある珈琲サーバーからマグカップに珈琲を注いだ。
この珈琲は軽井沢の有名店「丸山珈琲」の豆を取り寄せたものだ。
丸山珈琲は世界各地から厳選された珈琲豆を取り扱い、
シングルはもちろんオリジナルブレンドの人気が特に高い。
これは丸山珈琲オリジナルブレンドの
”クラシック1991”
深入りの重みのある味わい、
ほんの少しだけキャラメルの風味が鼻を抜ける。
アヤカは熱い一口をゴクリと飲みながら
店の中をぐるりと眺め思わず笑みをこぼした。
『カフェ・ヴェルデ』
それがこの店の名前。
1年と少し前からアヤカは無謀ともいえる
冒険を始めた。
自分の少しばかりの退職金と
なけなしの貯金すべてを注ぎ込み、
このカフェ・ヴェルデをオープンさせたのだ。
「ヴェルデ」という名前は
イタリア語で緑色を意味する。
亡くなった祖母ミドリから名をもらって付けた。
ミドリはアヤカがまだ22歳の大学生のときに
突然倒れ、世を去ってしまった。
優しく穏やかな祖母をアヤカは大好きだったが、
その祖母が一人で暮らしていたがこの場所だった。
祖母が住んでいたこの「益戸」という街は
江戸時代から名が記されている歴史的に古い街で、
街道の宿場町として栄えてきた。
昔から住んでいる人も多く、近年、
都心に出るのに便利な路線があるので
人口が増えた街である。
人が増えたとはいえ、
昔からのこの土地に根づく地主も多いため、
急な都会化もされず
いまだ緑も多く神社や寺も多い。
アヤカが育ったのはこの隣街の「香椎町」
祖母の長女、つまりアヤカの母は結婚と同時に香椎に移り住みアヤカが生まれた。
益戸とは近いということもあって
小さい頃はしょっちゅう祖母の家に遊びに来ていた。
祖父とは会ったことがない。
母が結婚する前に亡くなったと聞いた。
顔は仏壇の写真しか知らず、祖母や母の話の中の祖父しか知らない。
祖父は眼科医で自宅兼診療所としてこの場所で開業してきたそうだ。
祖母ミドリが亡くなったあと、この家はしばらくの間誰も住むことがなかったのだが、
とうとう母と母の弟である叔父がこの土地と建物を処分することを決めた。
母からこの話を聞いたときアヤカがぼんやりと思ったことは
この場所が無くなるということだった。
小さい頃祖母と過ごした楽しい思い出の場所。
誰も住まないのなら売ってしまったほうがいい。
古い建物を維持するには費用がかかるし、税金だってかかる。
それはアヤカにもわかっていた。
この家が無くなることはアヤカ以上にこの家で生まれ育った母や叔父のほうがツライに違いない。
売ることを決めたのは大きな決断だっただろう。
売却の話を聞いてから2週間、アヤカはずっと考え続けていた。
これはチャンスなのかもしれない。
自分を変える為の、最後のチャンス。
最後というには大げさかもしれないが、女性が大きな決断をするにはギリギリの年齢だろう。
アヤカは今年35才、独身である。
自分では美人とは言えないにしてもまあまあの容姿だと思っているし、
性格もそんなに悪くないと思っている。
まあ欠点といえば母譲りの頑固な性格なのかもしれない。
このやっかいな性格のせいか、
今まで何人かの男性とお付き合いをしたことはあるものの、結婚には到らなかった。
アヤカ自身も本当に結婚したかったのかどうか、今となっては曖昧だ。
母はチクチクと結婚、出産のリミットが迫っていることを時々仄めかしてくる。
いつものらりくらりと交わしてきたが
もしかしたらこの先一人で生きていくのかもしれないとぼんやり思うときがある。
まわりの友達は結婚している人もいるが、
将来一人で生きるのかもしれないとマンションを買おうと計画している人もいる。
結婚して幸せという人もいれば、離婚した人もいる。
シングルでも趣味や自由を満喫している人もいる。
いろんなことを決めなければいけないリミットが迫っているのをアヤカもヒシヒシと感じる。
祖母の家を売却する話を聞いてから
アヤカはご飯を食べていても仕事をしていてもこのことが頭を離れなかった。
頭の中で何度もシミュレーションを繰り返した。
プラス面、マイナス面を数え切れないほど考えた。
そして決断した。
「おばあちゃん家でカフェをやりたいの」
アヤカは母に祖母の家でカフェを開きたいと切り出した。
当然のことながら母はアヤカの突然の爆弾発言にびっくりし、猛烈に反対した。
反対したのも無理はない。
飲食業の経験もないアヤカがカフェなどを始めても失敗するに決まってるからだ。
母に反対されることはアヤカも当然想定していた。
アヤカが大学に進学しマーケティング学科を卒業して選んだ道は出版業界だった。
就職にしたのは地元のタウン誌の会社。
益戸を中心に隣接する町を含めたグルメ、イベント、広告などを載せた
地元で人気がある月一回発行の情報誌だ。
少人数の会社なので新人の頃からインタビューも撮影もできることは自分でなんでもやった。
毎日忙しく町をかけずりまわりながらも、たくさんの会う人会う人に刺激を受け仕事は充実していた。
いつの間にか12年近くも勤め、仕事にも責任を持つ立場となり、
紙面デザインやWEB版の作成など大きな仕事も任せられるようになっていた。
反面、締め切りが近づけば連日の終電帰り、土日を問わず何かあれば呼び出されたりと
大変なことも多くなった。
この仕事がイヤなわけじゃなかった。
ツライこともあったけど、楽しいことのほうが多かった。
美味しいグルメの取材をするのも、いろんな人と会って話しをするのも楽しかった。
だけど・・・。
このままこの仕事を続けていくのだろうか?
いや、いけるのだろうか。
他にも別の道があるのかもしれない。
決断するなら今?
でもせっかく築き上げたこのキャリアを手放すのか。
時々不安が込み上げる。
そんなアヤカの楽しみは寛げる空間と美味しいスウィーツのカフェを巡ることだった。
美味しい珈琲やスウィーツは一時的に仕事やプライベートの悩みを忘れて
アヤカを幸せな気分にさせた。
これがアヤカの現実からのエスケープ方法だった。
アヤカは仕事を通して、そういう店でもうまくいっている店、苦しい店があること知った。
いろんな店の華やかな部分を見たし、裏側の苦しい場面も見た。
だけど・・・みんな生き生きとしていた。
ダメになってしまった店もあったけど、
何とか自分の生活、人生のために頑張ろうとしていた。
お客様に寛いでもらおう、楽しんでもらおうと努力していた。
大変だけどなんてやりがいがある仕事なのだろうと
取材を通して知ることができた。
カフェをやってみようか。
母から祖母の家を売る話を聞いて漠然と思いついたのだが、考え始めたら止まらなくなった。
もし自分の店が持てたらどんなに幸せだろうと妄想を膨らませた。
頭の中で何度もシミュレーションを繰り返し、たくさんのマイナス面も数えた。
お金は何とかなる。
甘い考えだが、母から家と土地をゆずってもらえるなら毎月のテナント賃料はかからない。
もちろん家をカフェにするための改装はしなければならないが、
今まで働いてきた貯金をかき集めれば初期投資の資金は何とかなる。
問題は自分がオーナーになるということだ。
人を雇って名前だけのオーナーになることはアヤカはハナから考えていなかった。
アヤカ自身もカフェで毎日働き、自分の店で自分のために働きたい。
これが自分の将来、ううん、この先まだまだ長い人生そのものになるかもしれない。
だけど自分は店のオーナーとしてすべての責任を持てるのだろうか。
会社で雇われているだけとは違う。
覚悟をしなければ。
アヤカは調理師免許を持っていないので、調理人を雇用しなければならない。
趣味として焼き菓子をアヤカも時々作ったりするのだがもちろん素人の域を出ない。
やはりプロの料理人がいないことには話が始まらない。
人を雇うということはその人の生活を、人生をアヤカが背負うということだ。
それに店の中でその人とうまくやっていかなきゃならない。
アヤカが不安に思うのはそのことだ。
仕事上、人と会うことが多かったので人当たりはいいほうだとは思うが
毎日同じ場所で一緒に仕事するのはよっぽど気の合う人じゃないと・・・。
自分一人が失敗して破産するならまだいい。
もちろんそういうつもりはないけれど。
こういう思い込んだら止まらないところが母が心配するところなのかもしれないとアヤカは思う。
そしてふっと思い浮かべたのが親友の平原ミナだった。
ミナは近所に住んでいた幼馴染で30年ほどの付き合いになる。
子供の頃は2人のどちらかの家で”お菓子作り”を遊びとしてホットケーキやクレープを作り、
大人になったらケーキ屋さんを一緒にやろうねと2人で語り合った。
いつからかそんな話はしなくなったが。
しかしミナの料理好きはそのまま消えることはなかった。
アヤカとミナは別々の高校に進学したが友情は続いた。
ミナは高校を卒業し調理専門学校に進み本格的に料理の道へ進んだ。
頭がよく理数系が得意だったミナは大学に進むものとアヤカは思っていたので
料理人になるというミナの話に驚いたものだ。
「お菓子は科学よ」
それがミナの口癖だったっけ。
調理学校を卒業してからは有名ブーランジェリーに勤め
次に都内でミシュランを持つフレンチレストランで働いていた。
今やミナはメインパティシエとなってデザートを一手に引き受けていた。
テレビや雑誌などに登場する有名なレストランだったので、時々ミナも登場することがあった。
(なんか遠い人になったみたい)
アヤカはテレビの中のミナの姿をまぶしく見ていたものだった。
見込みはほとんどダメだろうと思ったが
恐る恐る自分の計画を話し、
カフェを開くつもりなのだが一緒にやらないかという事をミナに打ち明けた。
「やる」
アヤカの話に言葉を差し込むこともなく聞いていたミナは、拍子抜けするほどあっさり返事をした。
「どうして?」
誘っといてどうしてもないが
有名店のパティシエというメディアにも登場する華やかな場所から
うまくいくかわからないカフェに移るなんて。
サイドでひとつに結んでいた長い髪をミナはバサッと後ろに払った。
ミナはアヤカの頭ひとつ背が高い細身の美人だ。
あまり表情を変えることがなく、沈着冷静のいわゆるクールビューティー。
服装はあまり気を使うタイプではなく、
今日は黒のパンツに白いシャツというシンプルなコーデだ。
足元は黒い”レペット”のエナメルバレエシューズ。
ポイントは耳に光るピアスだけ。
だけどそれがすごく似合っている。
ミナは少し黙ってから、思い切ったようにポツリと言った。
「退屈で」
尊敬する偉大なシェフ、最高の設備、最高の材料、最高のスタッフ、高い給料。
それには満足している。
だけどどういうものを作るのはやはりメインシェフの指示だという。
シェフのことは尊敬しているけど
キャリアを積めば積むほど自分の思うようにやりたいという欲求がくすぶっている・・・そうな。
ミナは私と違って自分のキャリア、人生に満足しているんだと思っていた。
「お給料はそんなに出せないけど」おずおずとアヤカは言った。
「いいわよ。私の力で売り上げを伸ばすから」
おおっと。
ミナは普段冷静で口数は少ないタイプだが内に情熱を宿す人なのだ。
ミナとは作るのモノも何を仕入れるのかもすべてミナに任せるという約束をした。
ミナの店とは違って限りがあるので予算はアヤカが決めることになるが、
むしろそいういう制約があるほうが燃えるタイプもいる。
「私は店の仕切りを。あなたは厨房の女王様になって」
「決まりね」
ミナのかけたメガネの奥がキラリと光り、ふっと笑った。
「まさかね、子供のとき話していたことが現実になるなんてね」
覚えてたんだ!
二人でケーキ屋を開くことを!!
「ねえアヤカ、人生ってわからないものね」
2人でふふっと笑った。
こうして準備段階をクリアした。
ここまでミナと契約を結んでから
アヤカは戦いを挑む覚悟で母にカフェの計画を切り出したのだった。
そして母を前に自分で作った資料を見せ、カフェ計画のプレゼンをした。
店のイメージ、自分の持てる予算、計画表、ミナとの話。
まさか母に向かってプレゼンするような日がやって来るとは思ってもいなかった。
母はアヤカが安定した職場を辞めることや
未経験なままカフェを始めようとしているので当初から絶対反対であった。
いちおう母親として娘の人生を心配してくれているのだとは思う。
アヤカはミナと一緒に店をやることや店のデザイン構想、経営理想を語った。
恥ずかしいのと照れもあったが母の思い出の場所を譲り受けるには
真剣だということをわかって欲しかった。
幼馴染なので母はもちろんミナのことを小さい頃から知っている。
母いわく、アヤカは少しおっちょこちょいで思い込んだら突っ走ってしまう性格なので
(失礼な)
もし1人で店を起業したり母が知らない人物をパートナーとして連れてきていたら、
受け入れてもらえなかったであろう。
しかし、昔からしっかり者のミナが一緒ならと渋々ながらOKしてくれた。
叔父は優しい人なのでアヤカが家を継いでくれるならと賛成してくれた。
なんとかなった。
こんなに緊張したのは久しぶりだった。
これからいろんなことが変わっていくんだ。
楽しみなような怖いような複雑な気持ちだ。
もう自分ひとりだけじゃない、オーナーとしてミナの人生も背負わなきゃいけない。
とうとう走り出した、やらなくちゃ、腹をくくらなきゃ!
母と話してしばらくしてから、アヤカはカフェのオーナーとしての勉強を始めた。
今はカフェを開業するための専門学校があるのだ。
カフェの開業から、経営の基礎、事業計画のアドバイス、料理の知識やバリスタの資格までとれる。
会社には理由を話し、半年後に辞めることになった。
直属の上司だったタウン誌編集長のユキコさんは一応引き止めてくれたが、
思っていたよりあっさりと承諾してくれた。
それはそれでちょっとガッカリだったが。
ちなみにユキコさんも休日はカフェ巡りが趣味という人である。
「応援するからね」
ああ、そういうことか。
オープンしたら絶対来る気ね。
なんたって有名フレンチのトップパティシエだったミナがいるんだから。
うん、でも、常連さんになってくれるかも。
了解を得て、アヤカは仕事をしながら同時にカフェの専門学校に通い始めた。
しばらくは仕事と勉強の同時進行、
休日は学校かミナとの打ち合わせで今まで以上に体力的にキツかった。
しかしアヤカは寝不足と戦いながらも、
カフェオープンという目標に向かって充実した日々を送っていった。
一方ミナは今の職場でパティシエとして勤めながら、
カフェに出すお菓子の研究をし始めた。
週末になると2人はミナの家でカフェに出すメニューについて話し合い、
試作品を研究し続けた。
カフェメニューは焼き菓子中心にし、
店で食べられ、テイクアウトも出来るものにしようと決めた。
固定のメニューは決めず、ミナが作りたいものを作る。
今のところ料理メニューを出す予定はない。
店が軌道に乗ればアルバイトを雇うことも考える。
アヤカの役割としてはオーナー兼ウエイトレス兼何でも屋といったところ。
Webの運用や広報もアヤカの仕事だ。
少数精鋭で店を回していかなければならないので
もしミナが店を休んだ時の為にアヤカもミナに指導してもらいながら
厨房の作業を憶えていかなければならない。
忙しくて目が回りそう!
次にアヤカが手を付けたのは家と庭の改装だった。
祖母の家は木造洋風の2階建てで築90年くらいだという。
祖母の父、つまりアヤカの曽祖父が眼科医としてこの場所で診療所を開業した。
何回か改装したようだが診療所兼自宅だったのでかなり広い家である。
祖母が亡くなったあとも時々お墓参りと一緒に
簡単な掃除や家の風通しをしていたので年月が経っているわりに綺麗な状態を保っていた。
なのでアヤカは家の骨組みはそのまま使うことにした。
家の外観は薄いクリーム色の壁にし、屋根は緑色に塗り替えた。
店の入り口は人通りが多い大通りから小路地に入ったところにある元々玄関だったところだ。
玄関までの短いアプローチはレンガを敷き詰めた道。
道の両サイドには植物を植える予定だ。
左に行くと大きな庭に出られる。
玄関の緑色のドアを開けると奥に長いL字カウンターが伸びている。
このカウンターにミナ自慢の焼き菓子をたくさん乗せる。
美味しそうな焼き菓子を目にしたお客様の反応が楽しみだ。
カウンターの背後は、珈琲などを注いだり盛り付けしたりする小さな作業台。
床は玄関からすべて高低差をなくし、薄いテラコッタ色の石畳風のタイルにした。
壁は黄緑と白のストライプにし、窓枠などは緑色。
ほら、こうすれば店の名の通りに「ヴェルデ」でしょ?
入って左側が客席スペースになる。
元々左手は大通りと庭に面した長い廊下と3つの部屋だった。
その壁を壊して1つの広い空間にした。
窓はすべて天井まで届くほど高くし、四季により変わる庭が見え、自然光が差し込む。
壁に沿って長いソファシートがあり、テーブルと向かい合わせにソファを置く。
この窓際の席とカウンターの間にもう一列椅子とテーブルを置いた。
玄関から入って右側は厨房入り口になる。
厨房は元々診療室と受付待合フロアだった所だ。
カウンター背後の作業台と厨房の壁の間には小さな窓を作り、
ここからミナとメニューの受け渡しなどができる。
厨房は最新の設備を入れ、食器洗浄機も入れ、巨大なオーブンも設置した。
もちろんこれはミナ女王の希望に沿った。
静かに微笑みながら調理設備のパンフレットを食い入るように見ていたミナは
ちょっと不気味だった。
食器洗浄機を入れるかどうかは迷ったのだが、2人で話し合い、
皿洗い時間を削減するのに入れた。
食器やテーブルなどはネットで安くなっていたのを大量買いした。
有名なブランドなどもお手ごろな値段で手に入った。
この他はこの時代にありがたい”IKEA”や”ニトリ”などのプチプライスで揃えた。
ちなみに2階はあまり手を入れていない。
カフェで普段使わない備品や食器などを置く倉庫、
事務所兼自分たちが休憩するスペースとして使用することにした。
次の段階は大通りに面した庭をどうするかだった。
建物左側は広い庭があったが、
そこを支配していたのは手がつけられないほどの生い茂った雑草。
木の枝などは墓参りで家を訪れるたびに剪定していたが、
雑草などは見て見ぬふりをしていた。
夏に生えた雑草は冬になれば枯れたのでそれを掃除するだけだった。
2人が庭に手を付けようとしたときはちょうど草が茂っていて荒れ放題だった。
草取りだったらアヤカとミナ2人でも出来るがミナは断固拒否した(!)
シェフとして手が荒れたりすることは仕事に支障が出るからと言っているが
おそらくやりたくないのだろう。
アヤカも同じ気持ちだが。
オーナーという名の何でも屋のアヤカが一念発起して一人でやろうかと考えたが、
草は刈れても造園は本職に頼まなくてはならない。
そこでタウン誌時代の人脈を活かしてプロに依頼することにした。
益戸には大学が何校かあり園芸科がある大学もある。
アヤカはタウン誌の取材として千花大学園芸科の教授を訪ねたことがあった。
園芸という自然学術を研究している教授ということで
白髪のインテリジェンスの穏やかそうな教授を想像して取材に行ったのだが
予想に反して活力溢れるパワフルな人でびっくりしたものだ。
園芸科の教授は柏原教授と言い白髪は予想と合っていたが
研究を語るより実際に身体を動かしているほうが好きみたいで
60代だと思われるがかなり身体を鍛えているらしく歩くのも話すのも早かった。
「いやー30年前に行ったジャングルは凄くてね・・・」
柏原教授がまだ研究員だった頃南米アマゾンを資料採取で訪れ
まだ未開な場所だったジャングルでかなりの冒険を体験したらしい。
「もう見るもの触れるもの、すべてが感動だった!」
その後研究と称して講座の助手や生徒を連れて何度もアマゾンや
アフリカの乾いた土地へ行き、生徒や研究員をえらい目にあわせているらしい。
「そ、そうですか、貴重な経験をなさったんですね。」
大学の広大な敷地を歩きながら嬉々として話す教授のあとを追って相槌を打ちながらも
アヤカは教授について行くのが精一杯だった。
アヤカとしてはこの益戸周辺の季節の花や潅木の隠れたスポットなどを紹介する
簡単な話を聞きたかっただけなのだがさすがに話を遮れない。
やっと教授の研究室にたどり着き、机や来客用のソファはあったものの
むっとする温度と湿度に調整され
背が高い潅木や不気味な食虫植物(!)などに囲まれていて落ち着かなかった。
(なんかこう、癒しの場所だと勝手に思っていたんだけど・・・)
その後タウン誌の企画として何度か教授のもとに取材に訪れ、
教授の話を辛抱強く聞いたせいなのかもしれないが一応仲良くなっていた。
その教授にヘルプを頼むのはどうかと思ったのだが背に腹は替えられない。
なんたって資金難なのだから。
教授に電話してアポを取り、
ポットに入れた珈琲とミナが試作した焼き菓子を持参して教授の研究室を訪れた。
「うん、美味い!このイチゴのヤツは美味いね!」
ミナ自慢のストロベリールージュタルトを気に入ってくれたらしく、
すでに2個目に手を伸ばしていた。
どうやら教授は甘党らしい。
チャンス!
「庭? ほー、いいよ。ウチのものにやらせよう」
すべて教授に任せてしまえばジャングルチックな庭を造ってしまいそうなので
「イギリス庭園のような庭をイメージしているのですが・・・」
とおそるおそるアヤカの希望を話した。
教授はあからさまにがっかりしたようだったが引き受けてくれた。
いったいどういう庭にするつもりだったんだろう・・・。
アヤカがそんなことを考えながら珈琲をすすっていると
ちょうど講義終了のチャイムが鳴った。
しばらくすると研究室の扉が開き、一人の男性が入ってきた。
「僕の助手でね、庄治くんだ。彼にやってもらうから」
教授が紹介してくれた男性はメガネをかけ、髪がぼさっとしたいかにも研究者という感じだった。
たくさんの資料や本を抱え、つなぎの青い作業着のような服の上に白い白衣を着ていた。
「はあ?なんですか、教授?」
アヤカが初めて見る顔だ。
千花大学園芸科の准教授だそうで学生の頃から柏原教授の元で研究をしているとのこと。
ということは教授のあのサバイバルの生き残りというワケで・・・。
アヤカは准教授にもう一度事情を話し、珈琲とお菓子を薦めた。
およそ甘いものとは縁が無さそうだったが
急に人が変わったように目を輝かせて嬉しそうにタルトを口にした。
園芸科はみんな甘党なんだろうか。
アヤカは准教授にも見えるようにカフェの計画書をテーブルに広げた。
「申し訳ないんですが、そんなに予算がないんです」
「大丈夫です。おそらく市場の1/3くらいでできますし・・・
生徒たちにも実習としてやってもらいますから」
准教授は片手にお菓子を持ちながら計画書に目を落としている。
「その代わりと言ってはナンですが、ハーブを、モグ、研究しているので
一部ズーッ、お庭をお借りしてもよろしいでしょうか」
・・・と言ったらしい。
もう片手にはコーヒーマグを持っている。
「もちろんです。あの・・・変なのじゃなければ」
カフェでハーブを使うこともあるかもしれない。
例えば飾りつけに使えるミントとかがあればうれしい。
むしろプロに見てもらうことはこちらにとってもすごいラッキーかも。
「これ持って帰ってもいい?」
教授は2人の間で話を聞いているのか聞いていないのか、
クッキーにも手を伸ばしムシャムシャと食べている。
どうやら2人ともウチのお菓子は気に入ってくれたようだ。
ミナに報告するのが楽しみだわ。
その後アヤカは何度か千花大学を訪ね、
庄治准教授と庭の打ち合わせを重ねた。
もちろんお菓子持参で。
1年中いつ見ても庭が楽しめるようにというのがアヤカの望みだ。
准教授はイングリッシュガーデンのイメージを作ってくれていた。
耐寒性があるミニクリスマツリーのような”ゴールドクレスト”や
イングリッシュガーデンでよく見られる”アイビー”は1年中楽しめる。
春夏はピンクや紫の花を咲かせる”ルビナス”や”バラ”、
秋は”ペチュニア”、冬に強い”ローズマリー”、
”ベコニア”は1年通して楽しめると提案してくれた。
ちなみに准教授の専門はローズマリーだそうだ。
「バラは私たちみたいな素人が世話をするのは難しいんじゃないでしょうか」
アヤカが心配そうな表情を浮かべると
「大丈夫ですよ。私もローズマリーを見に来るたびにバラも見ますから」
准教授はそう言ってにっこり笑った。
アヤカは思わずドキっとした。
別に私に会いに来るわけじゃないのに。
最近・・・ちょっと打ち合わせが楽しみになっている。
今日は着るものにも少し迷った。
普段のアヤカはジーンズにニットというのが定番だ。
今日はネイビーの半袖ワンピースに白いカーディガンを肩掛けした。
雑誌によると白いワンピースよりネイビーのほうがモテるらしい。
30過ぎているんだから膝下丈で・・・・・。
って私ってば何やっちゃってるのかしら!
もうけっこうイイトシしてるのに。
こっそり准教授の左手薬指を見てみると何もしていない。
だからって結婚していないとも限らないが・・・。
「鈴井さん?どうされたんです?なんだか顔が赤いようですが」
「な、何でもないです!ちょっと風邪気味で」
慌てて目の前で手ひらひらとさせる。
准教授のぼさっとした前髪の隙間から心配そうな目が覗く。
「じゃあ、これを差し上げましょう」
准教授がソファから立ち上がって棚から小さなガラス瓶を持ってきた。
「ローズマリーから抽出したエキスです。これをハンカチか布に染み込ませて
枕の横に置くとよく眠れますよ」
こうして・・・カフェ・ヴェルデの庭は完成した。
オープン2週間前、アヤカ達はプレオープンの試食会を2回催した。
1度目はタウン誌の元同僚や、仕事でお世話になった人達を招待した。
ミナも仕事上で知り合ったマスコミ関係の知人や職場の同僚を誘った。
この回はお世話になった人達に今までの感謝と店のお披露目を兼ねていた。
みんな口々に褒めてくれた。
この店も、ミナの作った焼き菓子も。
2度目は近隣の店の店主やオーナーに声をかけ、
祖母と親身だったご近所の方たちや家族を招待し、オープンの挨拶を行った。
この試食会は好評だったらしく、
カフェ・ヴェルデは新規の店として地元の歓迎を受けた。
それに、カフェ・ヴェルデの名刺をご近所の色々な店に置かせて貰い、
カフェ・ヴェルデの宣伝に協力してくれた。
そして4日前の金曜日。
たくさんの準備と時間を重ねてカフェ・ヴェルデがオープンした。
試食会に来てくれた人達のSNSやブログ、
ご近所のお店の協力のおかげで、初日からたくさんのお客様が来てくれた。
お客様は美味しそうにお菓子をつまみ、珈琲や紅茶を味わっている。
楽しそうにおしゃべりしたり寛いでいる様子は
アヤカに改めてこの仕事のやりがいと幸せを感じさせてくれた。
立ち上がりは上々、ううん、むしろ成功!
今日は月曜日。
平日営業初日だからオープン日ほどお客さんは来ないと思うけど真価が問われるのはここからね。
ここからが本当の勝負。
この小さな城、もといこの店でこれから私の新しい人生が始まるんだわ。
バタン!!
「た、助けて!!」
厨房の奥からドアを勢いよくバタンと開けた音が聞こえた。
それと同時に床にボールか鍋が落ちた金属音が聞こえた。
「なに!?」
ミナのびっくりしたような声が聞こえた。
「どうしたの!?」
アヤカは持っていたマグカップをカウンターに叩きつけ、
カウンターの横を回り、厨房に飛び込んだ。
見ると裏庭に通じる厨房のドアが開いていて
チカがドアノブに片手を掛けたまま座り込んでガタガタ震えている。
ミナはちょうど泡立てていたのであろうボールを床に落としたのか
厨房の床はメレンゲが散って悲惨なことになっていた。
「た、助け・・・」
アヤカはチカの傍に駆け寄り肩をつかんだ。
「どうしたの!?」
チカは目を見開いてアヤカの顔を見ると
「そ、そこに、、、人、人の死体、、、」
「死体?」
そのままもう口が聞けなくなっている。
ミナに目配せするとうなずいてこちらに来てくれた。
アヤカは立ち上がりチカをミナに任せて側をすり抜け外に出た。
ドアの外の裏手は、左が2台分のコンクリートの駐車場、
右はちょっとした庭になっている。
祖母が生きていたときとあまり変えず、
雑草を少し抜いたりしただけでほぼ以前のままだ。
(なんだ、誰もいないじゃない)
アヤカはそのまま小路地に向かってゆっくり歩いてみた。
小路地は車一台通るのが精一杯の細い道。
顔を少し出して右左にキョロキョロと視線を動かしてみたが異常はない。
いつも通りの静かな道だ。
アヤカはくるっと回れ右をした。
右の駐車場にはアヤカのグレーの車、
チカの赤い自転車、その横にミナの大型バイクが停まっていた。
左に視線を動かすとアジサイが今を盛りと咲いており、
先ほど生けようとしていたのはここから摘んだものだ。
隣にはキンモクセイの木があり秋になるとオレンジ色の小さな花を咲かせ、
なんともいえない甘い香りを漂わせる。
厨房の裏口近くには、高さ1m横1.5mほどの木製の小屋がある。
それは小さなカントリー調の小屋で、実は店のゴミ置きになっている。
裏庭とはいえ、もしお客様の目に触れれば不快な思いをされる方もいらっしゃるので、
店の雰囲気に合わせて選んだ。
その小屋の観音開きのドアが少し開いていた。
(なんで開いてるの・・・?)
アヤカは小屋に近づき、ゴクリと一度ツバを飲んでから扉に手をかけた。
音もなくスッと開いたので少し屈んで中を覗き込んでみる。
まだ使い始めたばかりなのでそんなに不快な匂いはしない。
ゴミが詰まった白いビニール袋が何個か置いてあるだけで、
特に異常は無いようだ。
「なんだ」
アヤカはふっと緊張を解いた。
(チカってばふざけたのね!)
アヤカはチカに怒ってやろうと、
思いっきり顔をしかめっ面にして店に戻ろうとした。
しかし、視線を動かしたとき、目の片隅にチラっと青いモノが映った。
(あれは・・・何?)
ゴミ置きの小屋の裏から青い何かがはみ出ている。
キンモクセイと小屋の間から後ろに回り込むと、
そこにはいわゆるブルーシートと呼ばれるモノがあった。
アヤカは唖然と立ち尽くした。
何?こんなの置いた覚えは無いけど・・・。
それは長さ1m、幅は50cmくらいでなだらかな丸みを帯びていて
巨大な青い海苔巻きのようだ。
その形はまるで・・・。
ざわざわとした不快な感覚が首のあたりに走った。
地面をよく見ると、引きずったような跡がある。
その道筋を目で辿ると小路地から続いているようだ。
青い物体に視線を戻すと、
白いビニールテープで3箇所縛られていて、
左手のビニールテープが少しほどけている。
見てはいけないと頭の中で警告が鳴り響いた。
にもかかわらず、
アヤカはブルーシートの左端を指でつまんでそっと引っ張った。
「キャーーーー!!」
バタン!
後ろずさりながらドアの取っ手を掴んで店内に飛び込んだ。
ミナとチカが驚いてこっちを見ている。
あれは、、あれは、、髪の毛?
信じられない、あれは人間じゃないの!?
生きている人のわけがない、あれは・・・本当に死体!?