1、宇宙へ捧ぐ色
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新田心優が写真撮影に没頭し、心酔するのは、カメラが光の虹を感光紙に写し取るただの箱ではなく、そこにある光景の空気感すら描き出すからだ。
光の色だけでなく、目で見た光景の驚きや重み、あるいは心地良さといったものが紙の窓に切り取られる、それがたまらなく好きなのだ。
感動を共有するに至らなくとも、ふと昔の写真を手に取った瞬間にその時の感情が蘇り、駆け巡る感覚などは他では味わえない喜びに思う。
そんな事を言うと、残念ながら彼の友人などは苦笑いを返してくれるわけだが、その理解し難い彼の道楽の為に骨を折ってくれるのだから、柴崎藤一は有り難い親友と言えるだろう。
遠出の為の足がないと相談した心優の為に、ワゴン車を持つ先輩に声をかけてくれたのが藤一だった。
大学の先輩にあたる大葉茂は面識の薄い相手で、彼の苦手な体育会系の大男だったが、写真撮影という趣味ではないだろう心優の旅に心よく付き合ってくれる事になった。
「ちょうどエッコと遊びに行こう思とったしな」
日によく焼けた彼はそう笑って、彼女の肩を抱いた。
小嶋恵津子は垢抜けた女学生で、オレンジがかった長髪に露出の高いキャミソールとパンプスが心優の目にも眩しかった。
男遊びが激しいという噂だったが、親友とも何度か経験があると知った時は、実に複雑な気持ちになったものだ。
一方で、彼女が連れてきた幼馴染みだという柏木晴美は地味な黒髪をしていて、太い黒縁眼鏡の奥からオカルトへの強い好奇心を覗かせているようだった。
「行くのって、なんか神隠しとかあった場所なんでしょ? 好きそうな子がいるんだけど連れてっていーい?」
そんな恵津子の提案を、彼女の彼氏に足を借りる心優が断る理由はなかった。
こうして五人でワゴン車に乗り込んだのが午前八時頃の事。
夏期休暇に入った不熱心な大学生達を縛るものは何もなく、彼らは交通の便が立たない田舎の山中へ向けて地方都市を発ったのだった。
「細川村だっけ? 廃村になって長いんだろ? 今も家屋が残ってるもんかねぇ」
バックミラー越しに尋ねる茂に、心優は車窓の景色から視線を外した。
雑多な人工物ばかりだった景色はいつの間にか水田の広がる田舎道に変わっている。
長い旅で口数が少なくなった車内を思い気を利かせたのだろう。
「そのままそっくりとはいきませんけど、石橋くらいは残ってるんじゃないでしょうか。戦時まもなくに人が居なくなって、そのまま放置されてたみたいですから」
細川村と称される目的地に川が流れている事ぐらいは彼も調べてきていた。
人の居なくなった村を見た人間は未だいないようだったが、かろうじて得られた情報によると、村へ続く道中に小さな石橋があるのは確からしい。
「今じゃニュータウンだなんだで山も削っちまうもんなぁ。廃村が残ってるなんて実感が沸かねぇが」
「ただの廃村じゃないんでしょ? 曰く付きっていうの? 神隠しなんて話、リアルで初めて聞いたよ私」
助手席の恵津子が笑って言うと、彼女の連れである晴美が後部座席から乗り出した。
「有名な話は割とあるんだよ? メアリー・セレスト号とかね。船員が忽然と消えちゃったの。確か日本でも1976年に島の住民が消えちゃったんじゃなかったかなぁ?」
「あはは、ハルミが楽しそうで何よりですなぁハイ」
「うん、誘ってくれてアリガトね。けど、神隠し村に住んでた人の親戚が居るなんてびっくりしたなぁ」
晴美はそう言って心優に視線を投げかける。
人見知りしそうな彼女が話しかけやすいほどに、心優が人畜無害に見られている事は喜ぶべきなのか。
「僕の曾爺さんは親戚に預けられてただけだし、失踪事件より前に村を出てるけどね」
余計な期待を持たせぬよう彼女の言葉を訂正したものの、実際のところ、細川村は心優の曾祖父と深い因縁がある場所だった。
そもそもこの旅を思い立ったのも、死んだ曾祖父の遺品を整理していて、細川村の資料が出てきたからだ。
資料の場所が幼い頃に聞いた話の舞台だと思い出し、実際この目で見てみたいと興味をかき立てられたのである。
もっと言えば、彼が特に気になったのは資料に混じっていた古びた手紙だった。
自称「名探偵」の知り合いに鑑定を依頼して今は手元にないが、封筒の中には「彼女を助け出せ」とだけ書かれた黄ばんだ便箋が入っていた。
その「彼女」というのに、彼は心当たりがあったのだ。
彼の曾祖父はある不気味な村と初恋の人の事をよく話して聞かせてくれた。
彼の話す不思議な体験を心優は何度も強請ったものだ。
その度に祖母が嫌な顔をしていた事が、今となっては苦い思い出でもある。
家の事情でその村の親戚に預けられた彼の曾祖父は、馴染めない村に不気味なものを感じていたと言い、その最たるものとして村人達の目についてよく語った。
黒目がちの見開かれた目玉の奥に、妙にギラギラした意思があるようだったと。
そして、何より彼が参ったのが、村人らが決してまだ幼かった彼を、村から出そうとしなかった事だったという。
当時、十を過ぎて間もない歳だった彼の曾祖父――心太は、幼心に村の異常さを感じ取っていた。
村人の様子に加え、戯れで採取していた昆虫達の中に巨大なものや形が歪なものが混じるようになり、さらには夜になるとあちこちで様々な色の燐光を放つ蠢くナニカを見るとなっては、ただ事とは思えない。
彼がその事を世話になっている親戚に告げると、彼ら夫婦は光る物の不気味さには大層びっくりしてみせたが、村から離れようという発想が頭から削げ落ちているようだった。
それは妙な役人が村の視察にきて、村の出入りに文句をつけ始めた後でも変わらなかった。
まるで閉じ込められているようだと、心太の不安は日々膨れ上がる一方だというのに、のんきな村人は文句をあげるどころか、心太の動向に目を光らせている様ですらある。
彼らは純粋な村人でない心太がどこかへ行ってしまうのではないかと警戒しているらしかった。
これは本格的におかしいぞ。この村の連中は妙な因習を持っているに違いない。
そんな疑念と反抗心をムクムクともたげさせた心太は、村の秘密を暴いてやれと皆が寝静まったある夜中に家を抜け出し――まだあった心の余裕を完全に萎ませる事となった。
当然だろう。どこへ行くでもなく彷徨い歩く、肌を緑色に蛍光させた村人の姿を見てしまったとなっては。
何が起こっていたのか。
それは、彼が曾孫に思い出話として聞かせる年齢になってもついぞ分からなかった。
とにかく、ここに居ては自分もそうなるのではないかという恐怖に駆られ、心太は何とか村から出ようと必死に足掻いた。
しかし、そう思い立った時には既に遅く、何より彼はまだ子供だった。
十数歳の小僧にできる事など高が知れてる。村人の目に晒され、脱走行為のことごとくを阻止されて心太は途方に暮れた。
一度などは立ちはだかる村人を突き飛ばして逃げだそうとしたが、次の日にはそんな事はなかったかのような振る舞いだったらしい。
あわよくば厄介者として村を放り出されるのではないかという、幼い彼にとっては捨て身の目論見も崩れ去ってしまっては、もはや打つ手なしという絶望感に苛まれるのも仕方のない事だろう。
そんな時に彼を助けてくれたというのが、「赤い着物のお姉さん」だという。
太眉の、よく笑う彼女は、村の中にあって村の異常さを認知していた。
それまで見た事のなかった人であったから、もしかしたら彼同様に村を訪れた一人だったのかもしれない。
村を出たいと相談する心太に、「じゃあ助けてあげようか」と冗談めいて笑った彼女は、本当に彼を村から逃がしてくれた。
村の出口で一緒に逃げようと言った彼に、彼女は困ったように笑って……それが今生の別れだった。
そのすぐ後に「神隠し」と呼ばれる集団失踪事件が起こり、村は封鎖されてしまった。
そうとなってしまっては曾祖父ができる事など何もなく、その後死ぬまで引きずって生きてきただろう事が、未練がましく集められた村の資料から汲み取れるだけだった。
「僕としては細川村の事が雑誌記事になってる事が驚きですけどね」
心優は晴美が渡してくれた「U-YM」というオカルト雑誌を眺めて言った。
地味な暗い表紙で粗い印刷紙を束ねたものだが、数人で編集しているらしい物にしては読ませる内容だった。
細川村については軽く触れていて、蛍光する村人についてを、その少し前に村近くに落下した隕石に着目して紐解いていた。
1882年、アメリカ・アーカムに墜落した隕石についてきていた奇妙な「生物」が引き起こしたという現象との符号。
そこでも奇怪な奇病と発光現象が起きたというが詳細は不明らしい。
「不気味っちゃ不気味っすけど、今は普通の森って感じっすよ」
藤一はスマートフォンのアプリで衛星画像を確認したようだ。
友人の心優と違って彼に廃墟を巡るような趣味はない。
彼の興味はもっぱら森の生物に向けられている。
子供の頃から昆虫採集に熱中していた藤一は奇形の昆虫が居るのではないかと期待しているのだろう。
「まあ楽しめりゃいいって。田舎で車内キャンプぐらいの気持ちで行こうや」
茂がちらりと視線をやった後ろのトランクには、数日過ごせるだけの食料や道具が揃っている。
缶詰だろうがインスタント食品だろうが、いつもと違う場所で、馬鹿な話ができる連中で食べて騒げば楽しいものだ。
運転の為に視線を前に戻すと、道中の眺めはまた様相を変えていた。
水田の地平線の向こうに緑の隆起がちらほらと見えはじめ、雑草ばかりの原っぱが増えていく。
陽が沈み始め乾いた外気の中に、聞き馴れない虫の声、漂う草の青臭さを感じて、茂はウィンドウを上げた。
見捨てられた村にはもうすぐそこまで来ていた。
2
「車はここまでだな」
地平線から山道へと入り、凹凸が激しさを増してしばらく、細い道をそれでも何とか走っていたワゴンを茂は止めた。
外はまだ明るいが、朱の混じり始めた空から夜が近い事が読み取れる。
後はどんどん暗くなり、まともな散策はできなくなるだろう。
「ここからは歩きだ。今から散策するか? その辺歩くぐらいならできるけどよ」
「え? まずくないですか? 歩いてる内に暗くなりません?」
心優が尋ねると茂はトランクを指した。そこには茂が用意したキャンプ用品が詰められているはずだ。
その詰め込みを手伝った際、彼は「ひょろ助」とからかわれたからよく覚えている。
「まあ、さすがに車から離れすぎるのはまずいが、車内にLEDランタンつけっぱで置いてくし、ライトも全員分あるからはぐれる事はないだろ」
「手動充電できて光も強いヤツだし、はぐれちゃったらライト上に向けてくれれば分かると思うよ?」
茂の言葉にそう付け足したのは意外にも恵津子だった。
「なんか、馴れてますね」
「シゲルは好きだからねこーゆーの。私もよく付き合うの」
カラカラと笑いながら彼女は自分のスマートフォンを確認した。
「圏外だけどGPSも使えるっぽいし、ライトにUSBポートあるから充電ケーブルだけあればいいね」
「ああ、水とクラッカーぐらいは持ってけ」
茂と恵津子はどんどんと話を進めていく。
どうやら外を出歩くのは決定事項のようだった。
不安そうな顔をしていたらしい心優を見て、茂ははにかんでみせる。
「どうせ、いろいろ作業できる場所は見つけときたいんだ。お湯が沸かせるだけでやれる事が増えるからな。ホットドッグぐらいはすぐに作れるぜ?」
実際、車外に出てすぐに見つけられた開けた木陰で、彼は手際よくホットドッグを作ってみせた。
長旅後に温かい食事ほどのご馳走はない。
活気づいた一行は古い地図とGPSを照らし合わせながら森を進む事にした。
考えてみれば「発光する生物」を目的の一つにやってきたのだから、夜に出歩く理由はあるのだ。
心優自身も曾祖父の話を確認したいという気持ちがあったし、オカルトマニアの晴美が目を輝かせているのを見ては、夜は危険だとは言えなくなった。
こなれている先輩が思いの外しっかりと安全対策をしている事も後押しして、彼らは暮れかかった森へと入っていったのだった。
土道とはいえ車を止めた所までは道と呼べる道が続いていたし、踏み込んだ森にも辛うじて踏み固められた道が視認できた事も大きい。
初めて入った森だったが、村を見つける事はそれほど難しくないように思えたのだ。
「廃村になって80年ほど経ってるにしては道がしっかりしてますよね?」
先頭を行く茂に心優が聞くと、彼は振り返って首を振った。
顔にはどうにも納得いかないという表情が浮かんでいる。
「いや、最近も人が通ってるんじゃねぇかな、ここ」
「え?」
彼は足下を何度か踏みならした。
積もった枯れ葉は空気が抜けて柔らかい足触りではない。踏み固められているようだった。
「獣道にしては高い枝まで折れてるだろ? 人かそれくらいの高さのヤツが何度か通ってるんじゃねぇの?」
「なーんだ私達が一番乗りってわけじゃないのね」
「雑誌に載ってるくらいだし、来る人は来るんじゃないかな?」
思い思いに話す女性二人に茂は苦笑した。
「雑誌つってもオカルト雑誌だろ? いくら肝試しつってもこんなド田舎まで来ねぇって」
「シンヤみたいな廃村マニアでも来るんじゃね?」
親友の言葉に心優は首を振る。
「いや、写真好きに人気なそういうスポットって僕も結構知ってるけど、ここの話は聞かないなぁ」
というより、曾祖父の話がなければ幾ら彼でも本当に人の行かない場所へ、素人だけで行こうとは思わなかった。
「だろうなぁ。もしかすっと、近くの住人が通ってたりでもするのかも知れないし、あんま騒がないようにな」
近くの住人、という言葉が釈然とせずに心優は首を捻った。
山に着くまでの道中には家屋の一つもなかった。
途中広がっていた田畑さえ途絶えて久しい雑草地の奥に、この山は忘れられたように存在していたのだ。
彼はふと空を仰いだ。
放置されて久しい森は柱のような檜がところ狭しと直立していて、その中で仰ぐ空など殆ど遮られている。
それは視線を地上に戻しても同じ事だった。
直径30センチはある木々の柱が無秩序に並ぶ森の中では、先を見通す事はできない。
ほの暗い木陰の奥に、得体の知れないナニカが潜んでいるような気がして、ぶるりと体を振るわせた。
そんな場所に細川村があると考えるとぞっとする。
いや、むしろ細川村があったから、こんな場所なのかもしれない。
村で何かがあったのは事実なのだ。
少なくとも村人全員が失踪するような何かが。
けれど、彼の想像や不安に反して、村の存在を示す人工物はほどなくして見つかった。
石橋だ。
隙間から雑草を覗かせた、幅一メートル長さ五メートルほどの橋が、苔岩に挟まれながら細々と流れる川にかかっている。
初めに見つけたのは先陣を切っていた茂で、手際よく木々に紐でマーキングしながら進んでいた彼が立ち止まり、少し開けた場所を指した事で他の面々も気がついた。
近寄ってみれば、村の名前の由来になったであろう川は水量が少ないながらも透明度の高い水の流れを作り出していた。
「へぇ、これがいわゆる細川?」
「だと思います。橋も資料と同じみたいですし」
年月を経て石材は磨耗してしまっているが、石造りの橋は今でも十分渡れそうなほどしっかりとしている。
この山奥に建造の面倒な石橋が何カ所もあるとも考えにくいこともあって、心優はここが村の入り口だと確信した。
とすれば、もう村はすぐ近くだ。
「水すっごい綺麗よね。澄んでる川の水って私、初めて。こういう所に蛍が居るの?」
「いやぁ居ないんじゃないっすか?」
山奥の清流を見てはしゃぐ恵津子だったが、川辺で目を凝らしていた藤一が彼女の言葉を否定した。
「綺麗過ぎっす、これ。蛍どころか巻貝すら居ないように見えるんすけど」
「えー、居たら面白かったのになー」
途端にテンションを急降下させた恵津子は腰を折ったが、すぐさま顔を上げた。
その顔にすでに憂いはない。
大して蛍に思い入れがあるわけでない彼女の関心は、もう別のものに移ったらしかった。
ポーチから虫よけスプレーを取り出した彼女はまずは自分にかけてから、幼馴染の晴美に差し出した。
「ま、けど羽虫があまり居ないのはいいよね。夏の山だから大変かなって思ってたけど」
ねー、と彼女は晴美に同意を求めたが、当の晴美は浮かない顔をしてスプレーを受け取った。
しかし使おうとはせず、それよりも周囲を気にしているようだった。
「……どうしたの?」
いぶかしんだ恵津子が訊ねると、彼女は遠慮がちに自分の疑心を口にした。
「あの、あまりというか、その、動物が居る気配、なくないですか……ね?」
そう言われて一同は改めて森を見回した。
ちょろちょろと流れ続ける川の水音はすれど、水辺でさえずる野鳥の声はない。
水面は緋色の夕日を受けて輝いて見えている。
それは不純物のないガラス細工のようで、生物の居る濁りを感じさせるものではなかった。
森に土を踏む動物の足音はなく、木漏れ陽は舞い落ちる細かな埃を照らし出すのみだった。
その埃すら、空気を乱す不届き者など彼らの他には居ないのだと言わんばかりに、ただゆらゆらと落ちていくだけとあっては、気づかされた森の不気味さに身を竦ませずには居られない。
その場を不安な空気が支配した。
が、それを破ったのは恵津子だった。
「あれ、これって鳥居じゃないの?」
一同が周囲に目を向けている間に、橋の先へ渡っていたようだ。
木々に隠れた見窄らしい鳥居を見つけた彼女は、その柱に貼られたお札にも気がついた。
色がはげ落ちてくすんだ灰色を晒す木の柱に、妙なお札がところ狭しと貼り付けられている。
それは剥がされず重ね貼りされた電柱の広告シールのようで、汚くちぎれたものから原型をしっかり保ったものまで様々あるようだった。
「うわぁ、まさに曰く付きって感じだ……」
若干引いた声で呟きながらも、ちょっとした好奇心で彼女は一番状態のよいお札に手を伸ばした。
しかし、
「えっ、ちょっ……!」
指が触れた瞬間、札は吸着力をなくしたように鳥居からするりと剥がれ落ちてしまった。
「おいおい、そういうのは取っちゃまずいだろ……」
それを見て焦った声を出したのは追いついてきていた茂だった。
「や、違うって、ちょっと触ったら取れちゃって」
恵津子はそう言ってお札を拾うと、柱に貼り直そうとしたが、一度剥がれた札はどれほど力を込めて押しつけようと元のように貼り付かない。
「うぅ……付かないなあ。というか、これどうやってくっついてたの?」
札を裏返してみるも糊の跡はないようだ。
何で貼られていたのか検討も付かないし、代わりに糊で貼るにもそんな用意はしていない。
しばし考えた後、
「ご、ごめんなさい!」
恵津子はとりあえず両手を合わせて、お札は持っておく事にした。
明日もこの辺りを散策する予定だから、その時にでも車から接着剤を持って貼り直しに来ればいいだろう。
「ねぇ、それ見せてくれる?」
晴美に頼まれて恵津子はポーチにしまおうとしていた札を彼女に渡した。
オカルトマニアの親友なら何か知っているかもしれない。
恵津子が眺めていて気づいたのは、札に書かれた文字が日本語らしくない事ぐらいだったが、晴美も同じ事に気づいたようだ。
「あれ、文字が英語ですねこのお札」
「え、外国のお札?」
心優はまだたくさん貼られている鳥居の札を見た。
新旧に違いはあれど、どの札も同じ記号や文字が書かれている。
酷く崩れた文字で書かれているため読めないが、お札の中央に星のマークがあって、その中央に目のようなものがある。
数十を越える札の目がギョロリと自分達を見ているようだ。
「外国のお札にしては……紙が和紙だし、何なんだろう」
「真ん中の星は? 何かのマーク?」
心優が訊ねると、お札をしげしげと見つめていた晴美は顔を上げた。
「日本で五芒星というと安倍晴明の晴明紋ですけど、それには目なんて付いてませんね。こういう目の入った星はイギリスの方で幾つか見つかったというのは聞いた事はあるんですけど……」
「それを誰かが書き写して貼ったんすかね? 神隠しって話、デマって訳じゃないのかも」
村の顛末について藤一は懐疑的だったらしい。心優の視線を感じて彼は両手を振った。
「こういう話って、面白がって作るバカが居るもんだしさ。人が居なくなったってのはともかく、神隠しってのが当時からある噂かは分からないじゃんか」
「柴崎さん酷いなぁ。記事を書いた田村さん、博士号も持ってるちゃんとした人なんですからね?」
藤一の弁明に今度は晴美の抗議が入る。
お気に入りのオカルト雑誌らしい「U-YM」を抱きしめて、彼女は口を尖らせていた。
「ちょっと藤一くぅん、ハルミ泣かしたら許さないんだからねー?」
「え、俺が悪いんすか?」
恵津子までからかってきて、藤一は両手を挙げる。
それから一同は笑い合った。
「シンヤ、写真撮っといた方がいいんじゃないか?」
藤一に言われて、心優はここへ着た本来の目的を思い出した。
写真を撮る事もだが、曾祖父が気にしていた村の事を自分なりに調査したくて来たのだ。
とりあえず、撮影というより記録のつもりで何枚か鳥居を撮ろうとファインダーを覗いた時、彼は空が暗くなっている事に今更ながら気づいた。
フラッシュをたいて撮影した後、改めて見渡せば、辛うじて見えていた周囲もすぐに夕闇へ溶けていった。
彼は急いでLEDライトを付けようとしたが、茂がそれを制して言った。
「おい、あれ光ってねぇか?」
彼が指した方向へ振り向くと、暗闇の中ほのかに何かが浮かび上がって見える。
ぼやけて輪郭は確認できないが、何か光を発するものがあるらしかった。
発光というよりは蛍光や燐光と呼ぶべき黄緑色の光で、蓄光ステッカーのものに似ている。
早速そばに寄ってみると、木々の向こうには想像以上の光景が広がっていた。
3
「わぁっ……!」
晴美が感嘆の声を上げたのも無理はなかった。
木々に隠れて全体が見えていなかったが、進んでみれば森の奥のあらゆる所が緑の光で溢れていた。
岩にむした苔や木の幹、その葉脈に至るまでが暗闇の中でぼんやりと光を放っている。
そんな森の中をチラツいて舞っているのは蛾の羽だろうか。
枯れ落ちた木の葉もがほんの僅かに翡翠に色づいて、光の絨毯を作り出している。
そして光の空間はどんどんと広がっているようでもあった。
朧気な輪郭ながらそれは道となって森の奥へと続いているようだ。
心優は光る木々や蛾、苔を夢中で撮影し始めた。
フラッシュをたかずに撮ってはいるが、綺麗に写っているのかは不安だった。
本当はもっと被写体の事を考えて撮りたかったが、再びお目にかかれるとも知れない光景を逃すわけにもいかない。
彼が今回メインとして持ってきたカメラは曾祖父が愛用していたものだ。
それで撮るからこそ意味がある。
夢中で何枚も撮影していた彼は、他の面々が先に進んでいる事に気づいて後を追いかけた。
幻想的な風景の中、特に虫に興味を持つ藤一は飛んでいる蛾を捕まえていた。
よく見るとそれらはそれぞれ全く別の種で、妙に腹部が膨らんでいて気持ちが悪い。
彼が思わず手を放すと、ソレはバタバタと羽ばたいていったが、すぐさま地面に落ちてしまった。
昆虫採集に慣れている藤一は捕獲の際に蛾を傷つけるような事はしていない。
それにも関わらず、落ちた蛾はもがくばかりでどんどんと弱っているようだった。
とても健常とは思えない。他の生き物も同じなのか。
彼は森を見上げた。
しかし、あると思っていた木々の枝葉はなく、綺麗に夜空が覗いていた。
不思議に思って周囲をライトで照らしてみれば、彼らが居る辺りの木々はまだ数メートルしか伸びておらず、葉も付いていないようだった。
「妙だな……」
「どうかしたのか?」
追いついた心優が訊くと藤一は檜を指した。
「いやさ、ここら辺だけ木が若いんだよ。背が低いだろ?」
「そりゃあ成長した時期が違えば……」
「時期が違えばな。けど、この山は植林地だろ。檜ばっか植わってるし。で、森の外側辺りの木は確かに樹齢八十年ぐらい経ってた。放置されててここら辺だけ高い木がないってのは――」
けれど、彼は台詞を最後まで言う事はできなかった。
茂の手が彼の口を塞ぎ、何事かと目で問う彼に茂は顎で木々の先を指し示す。
動くソレを見た途端、全身をおぞけに襲われた心優は体を硬直させたが、茂に引っ張られ、何とか気づかれる前に茂みにかがむ事ができた。
草むらと木々で隔てられた先に、ソイツは二本足で立っていた。
曲がりきった腰でよろよろとぎこちない動きをするその姿は、それだけを見たのなら誰もが「人間」と言うだろう。
ただし、それは全身が緑に蛍光していなければの話だ。
確かに肉の付いた体を透けて、骨格だけが妙な光を帯びて浮かび上がった姿など、おおよそ人のものとは思えない。
眼窩の深い窪みにあって、その目玉だけが光りを放ち動く様や、頬肉の奥に歯がずらりと並んでいる様を見た時などは、全身から沸き上がる嫌悪感を覚えずにはいられなかった。
しかも、目を凝らせば一人ではないのだ。
同じように歩き回る人間らしきものが、周囲を周回している。
彼らが通ってきた道にもその内の数体が陣取っているとなっては即座に引き返す事もできない。
かがんで恐怖でひきつらせた顔を合わせた彼らだったが、いち早く思考を現実に引き戻したのは茂だった。
「戻るぞ、なんかやばい」
「光る、人……心優さんの曾お爺さんの話にあった村人でしょうか?」
「でも、村人って確か神隠しにあったって……」
「そんな事は今はいいって! とにかく車まで行かねぇと。迂回……は止めといた方がいいな」
口に出しかけた案を茂は却下した。
ここまでほとんど獣道とはいえ、村人も使っていたであろう正規ルートを通ってきたのだ。
その道を外れて知らない夜の森を急ぎで歩くのはどう考えても愚策だ。
途中でアレに見つかりでもしたら、パニックになって間違いなくはぐれてしまう。
「どこかやり過ごせる場所を見つけるぞ」
「やり過ごせる場所?」
そんな場所があるの?
恵津子は不安な顔をしていたが、ふと顔を輝かせた。
「あれ、家じゃない?」
彼女の指さす方を向けば、確かに木々にほとんど遮られながらも人工物らしきものが見えている。
「村の家屋か?」
「でも、それこそ人が居るんじゃあ?」
「いや、居たら光で分かるんじゃないっすか? せめて明るくなるまで隠れられれば……」
「ライターとスプレー缶は持ってるんだ。何か燃やせるものがあればそれを振り回しながらって手もある」
「それは……さすがにやりすぎでは?」
心優の反対に茂は首を振った。
「いや、正直やりたくはないが、最悪あの家屋を燃やして注意を引く」
「え?!」
「お前、アレがまともなものに見えるのか? 元々お前が言ったんだぜ、神隠しだの奇病だのって。殴ってどうにかなるんならそうしてる。けど、アレに拳がきくのかよ?」
言われて、心優は口を噤んだ。
彼にもアレが何なのか分からない。
あの不気味な緑色のヒトガタを見た今でも、それがオカルト的なものだとは信じきれない自分がいる。
この地にあるバクテリアか何かの妙な作用で発光しているだけなのかもしれないと。
しかし、そうである確証はなく、あるのはこの地で集団失踪が起こったという不気味な事実だけだ。
「行こう」
全員の顔を見渡した後、茂が言った。
「何なら俺が見てきますよ?」
藤一が提案したが茂はまたしても首を振る。
「いや、全員で行動するぞ。はぐれるのが一番怖い」
確かに、とその場の全員が頷いた。
一時は神秘的に見えたが、気色の悪い緑色に光る木々や虫、そして人間が蠢く場所に一人で取り残されるなど考えたくもない。
茂を先頭に一行は家屋へと向かった。
幸い「蛍光するもの」は家屋の方には見えない。
何より、この夜闇の中で目立つ彼らは見つけやすい。
光のある場所を避けながら既に見えている家屋を目指せば、程なくして目的地には着く事ができた。
ライトを消したままであるため暗くてよく見えないが、家の形として成り立っているのは確かのようだ。
目を凝らして引き戸らしき物を見つけだした藤一は、すかさずその取っ手に手をかけた。
鍵が掛かってるでもない引き戸は、何度か引っかかりながらも開くことができた。
中は暗いままだ。
彼らはすぐさま転がり込んだ。
少なくともここなら茂みよりは見つかりにくい。無論、家の主が帰ってくる事がなければの話だが。
何にしてもやっと一息吐ける。
誰もが、そう思った時だった。
「あらあら、どうかしましたか?」
そんな間の抜けた声が聞こえたのは。
心優らがぎょっとして振り向くと、部屋の奥に闇に溶けるようにして人影が立っていた。
「ひっ」
晴美が上げかけた悲鳴を何とか喉奥に押し込んだ。
恵津子はとっさに茂の後ろに隠れて、心優はカメラを藤一は消したままのライトを構える。
しかし、相手はそんな彼らの反応にただ困惑しているようだった。
「あのぅ、ここは私の家なんですけれど……どちら様です?」
間違いなく女性の、それも壮年の声に、敵対意志が感じられない事、そして彼女の体が発光していない事に気づいて、彼らはようやく相手が普通の人間らしいと理解した。
そして、そうなると途端にやってくるのは不法侵入した事への気まずさだ。
「えっと、その、僕達森で迷ってしまって」
心優が苦し紛れの言い訳をする。
こんな夜中に、屋内に呼びかけるでもなく、勝手に家に転がりこんでおいて、通じる言い分ではない事は百も承知だった。
けれど、それを聞いた家の主は、「まぁまぁ」と言いながら手を打って玄関に座り込む彼らに近づいてきた。
接近して辛うじて浮かび上がって見えた女性の顔は、朗らかな優しげなもので、それが彼らを安心させてくれた。
「だったら、ここで休んでおいきなさいな。まあ、何もない村ですけどね」
彼女はまるでそれが普通とばかりにそう提案し、「そうだ、お茶が沸いているのよ」と奥へ戻っていく。
その様子を見て、心優と晴美は顔を見合わせた。
「異常を認知していない」、神隠し直前の村の様子を目撃した人物はそんな風に語っていた。
それを聞いた時は村人ぐるみでの因習や隠し事でもあったのではないかと考えていたが、村人達は自身に何が起こっているのかを本当に理解していなかったようだ。
考えてみれば彼らの服装からして、村人達には怪しく映るはずなのだ。
彼らは疑問というものを抱かないようになっているらしかった。
という事は外の発光人間と出くわしても問題はなかったのかもしれない。
心優と晴美が安堵の息を吐いた一方で、藤一は茂に小声で囁いた。
「タイムスリップしたとかないっすよね?」
「笑えねぇよ……」
消えたはずの村人、そして周囲の成長していない木々。
それらの謎がその一言で解決できてしまうように思えて、茂は顔をしかめた。
そうであればここから脱するのは尚のこと困難だろう。
「ほら、お茶ですよ」
彼らが言葉を交わしている間に用意を済ましたらしい女主人がお盆を持ってきた。
「あ、どうも」
彼女に湯呑みを手渡されて、恵津子はお礼を言った。
暗くてよく見えないが、手の平にひんやりとした感覚が伝わってくる。
蒸し暑い夏の夜に、酷く汗を掻いた体には有り難い代物だ。
何よりも、これまでの信じ難い出来事に思考が停止していたに違いない。
恵津子は一気に湯呑みを煽って――、
そして、吐き出した。
「駄目っ、飲むなっ、飲んじゃ駄目っ!」
気管に入った分を胸を叩いて必死に追い出しながら、彼女は晴美の持っていた湯呑みを叩き落とした。
陶器の割れる音が響き、同じく出されたお茶を飲もうとしていた彼らの手が止まる。
そして、恵津子が地面に膝をついたのを暗がりでも何とか視認した茂が彼女を抱き寄せた。
「どうした?!」
「これ、腐って……おぇっ」
彼女はそこまで言って、堪えきれずに胃の中身を戻してしまった。
出されたものは確かにお茶だったに違いない。
しかしそれは八十年前の話であって、腐りきった水と葉の混合物はおおよそ人の体が受け付けられるものではなかった。
すぐさま吐き出したにも関わらず、恵津子の口の中にはまだ腐葉土を溶いた泥を飲まされたような苦みが残り続けている。
咥内が灼けるように熱い。
必死で言葉を発しようとしても、胃から胃液が逆流するだけで、まともに話す事ができなかった。
「おいアンタっ!」
そんな様子を見た茂は女性に対して非難の声を上げるが、彼女の顔には笑顔が張り付いたままだった。
そこには振る舞ったお茶を吐かれた事、湯呑みを割られた事の憂いなど露ほどにも浮かんでいない。
「あらあら、どうかしましたか?」
そう口にする彼女はさながら壊れた機械の様相で、その異様さにさすがの茂も怯まずにはいられなかった。
まだまともだと思っていた村人が異常だと気づけば、それまで気に留めなかった事も怪しく思えてくる。
藤一が手に持っていたライトをつけると、暗くて見えていなかった家の様子が明らかになった。
家はまともな形を保っているのが不思議なくらい、あらゆるものがボロボロだった。
内壁は蔦に覆われていた。
その土壁自体も植物の根に侵されてひび割れを起こしていた。
天井の梁も腐れ落ち、その木屑は床に積もった土埃の下敷きになっている。
目を凝らせば、見たこともない菌類が部屋の隅から溢れててもいた。
いや、それよりも生理的嫌悪感を催させたのは、転がっている野ネズミの死骸だろう。
明らかに毛の生えた干物を見つけた時、晴美はもう悲鳴を押さえられなかった。
しかし、それらの事はある一つの事実を示しているにすぎない。
そう、なんて事はない。ここは八十年放置された廃屋だった、それだけの事なのだ。
そこで平然と八十年前の営みを行い続ける村人の存在を除く限りは。
晴美の口を心優が押さえた。
悲鳴を上げたところで、目の前の村人は気にも留めないだろう。
けれど、えも言われぬ悪寒に彼はとっさに手を伸ばしていた。
それは茂も同じだった。
ここに居る訳にはいかない。
彼はぐったりとする恵津子を抱き上げた。
その時だ。
恵津子は彼の肩越しに、見た。
生きた屍のような家の女に意識が向いている仲間達の後ろ、玄関口から這い寄る影を。
村人だった。緑に蛍光するものが、黒い眼窩に押し込まれた濁った眼球で仲間を見ていた。
伝えなければ。
「ぁ……ぉおっ!」
しかし、声は出ない。
彼女の必死な様相に茂達はようやく彼女が何かを訴えていると気づいたが、その時には遅かった。
藤一の顔に何かが被さった。
竹輪のような筒状となったソレが、伸びた村人の顔面である事を知っていたのは、その様を目撃してしまった恵津子だけだった。
その次が心優。
くすんだ肌色のぶよぶよとした塊に、ギョロギョロと蠢く白い眼球を見つけて、心優は親友の頭をくわえているものが、馬頭のように引き延ばされた人間の顔なのだとやっと理解できた。
彼は親友の手が苦しそうにもがいて顔を覆う異物を引き剥がそうとしているのを見、そのすぐ後に彼の首からバキッと枯れ枝を折るような音がしたのを聞いた。
そして、彼の両腕が力なく垂れ下がるのも。
一瞬の出来事だった。
助けようと動く時間もなかった。
彼らは、頭部を変形させて知人の顔を丸飲みにした二本足の化け物と顔の見えない知人を見ている事しかできなかった。
ぐちぃり。
嫌な音がして、化け物の口が藤一の首から離れる。
けれど、心優にとって見慣れた顔はそこにはなく、勢いよく血潮が吹き出した。
避ける事もできずに浴びてしまった生ぬるい人間の血は、ぬちゃぬちゃと粘り気を帯びた感触がする。
そんな事を、心優は呆然と立ち尽くしながら思った。
「逃げるぞッ!」
彼が現実に戻れたのは、茂の叫び声と手を引く晴美のおかげだった。
揃って廃屋から駆け出した彼らを追って、家の女主人は外へ出た。
月夜に晒されたその体が緑色の燐光を放つのを彼らは見た。
そして、もう振り返らなかった。
そこら中が気色悪い緑に色づき始めた村の中をただただ駆ける。それしか考えられなかった。
そんな彼らの耳に、またあの気の抜けた声が聞こえてきた。
「あらあら、どうかしましたか?」
4
廃屋から命辛々逃げ出して、彼らは走った。
行き先なんてない。
ただ、あのヒトガタをした人喰いの化け物から逃れたい一心だった。
森だった周囲はちらほら廃屋が見える開けた土地へと変わっていた。
パニックになったせいで逃げる方向を誤ったに違いない。
森の方ではなく村のほうへと入ってしまった。
けれど、そんな事すら気にする余裕は彼らにはない。
気味の悪い発光人間というだけならよかった。だがあれはとんでもない化け物だったのだ。
人の皮を被った得体の知れないモノだった。
あんなモノ相手にどうすればいいというのか。
何とか逃げ仰せて車まで戻りたいとは思う。
けれど今となっては、特に発光の強かったあの獣の道は通りたくなかった。
言うまでもなく、アレが近づいてきても分からないからだ。
少なくとも外ではヤツらはあの発光現象を起こすらしいのだから、できる限り見つけやすい暗い道を通りたかった。
ただし、それは深夜の森で迷う事も意味している。
それでもアレと相対した時の事を考え、ついさっき仲間が惨たらしく――少なくとも自身の死に方には選びたくはない方法で殺された事を思い出しては、闇雲に足を動かすしかなかった。
こんな事ならば、もっと熟慮して重く受け止めるべきだったのだ。
村の入り口にあった鳥居が一体何を閉じ込めていたのか、そして継ぎ足して現代まで貼られ続けていたお札の、その意味を。
「あ……」
その事を思い出して、恵津子はポーチに仕舞い込んでいたお札を取り出した。
五芒星の描かれたお札は彼らを守ってくれるだろうか。
しかし、彼女の切望を裏切って、LEDライトの頼りない光の中進んでいた一行の前に黒い影が飛び出してきた。
明らかに人型をしているソレに彼らは一瞬硬直したが、それがまずかった。
「きゃぁっ!」
飛び出た影は勢い余って恵津子にぶつかり、二人は地面に転げてしまった。
枯れ葉がクッションとなって大事には至らなかったが、体中が軋んで苦痛を訴えてくる。
痛みを我慢して恵津子が目を開けると、眼前に無精髭の、頬まで痩せ痩けた顔があった。
影の主はよれたジャンパーを着込んだ身なりのみっともない中年の男だった。
月夜の下で発光しないという事は彼は少なくとも「蛍光するもの」ではないらしい。
その事に大学生達はひとまず安心しかけたが、同じように自分以外の人型を見て挙動不審だった彼は、ぶつかったのが正真正銘の人間だと知るや否や怒鳴り声を上げた。
「お前らだなっ! お前らが札を……! くそっ、お前らのせいで……あいつが! あいつが放たれたんだぞ!」
しかし、自分がぶつかった恵津子の肩をきつく掴み揺さぶった彼は、彼女がお札を握りしめているのを目にした途端、
「よ、よこせぇ!」
それを乱暴にかすめ取ってしまった。
男の顔が醜い安堵で歪む。
が、そこに茂の拳が突き刺さって、男は恵津子から離され地面を転がった。
「てめぇ、エッコに何してくれてんだェエッ?!」
茂の怒号に彼は体を跳ねさせた。
だが、自分がちゃんと札を手に握っている事を確かめると、よろめきつつも立ち上がり、薄笑いをしながら走り去ってしまった。
「何なんだ、アイツ!」
茂が収まらぬ怒りを滲ませながらそう吐き捨てた。
心優も男の乱暴な行動に不快感を覚えていたが、ふと彼の台詞を思い出して去っていった方を振り返った。
「あの男、お札の事知って……!」
しかし、時すでに遅し。
お札だけ毟り取っていった男の姿は森の闇に消えてしまっていた。
同じく、嵐のように去っていった男がこの村の曰くについて知っている事を読み取った晴美は、彼が飛び出してきた方角を見た。
そして見つけた。
「あれっ、あれ見てください!」
今の位置から斜面を少し上った先に小屋があった。
緑の蛍光ではなく、暖色の灯りがついた小屋が。
5
慎重に近づいた小屋は古さこそあれ、先ほどの廃屋と比べべくもない小綺麗な内装をしていた。
床に板を敷き詰めただけのほったて小屋だったが、改築を繰り返されたらしく、少なくとも八十年放置されたものではない事は明らかだ。
壁は鋼板のしっかりとしたものに差し替えられ、鍵のかかる頑丈なドアまでついている。
何よりも備え付けられた蛍光灯の存在が彼らには頼もしく見えた。
現代を象徴するその灯りは、間違いなくここが彼らの世界なのだと教えてくれる。
「たぶん、さっきの奴の小屋だよな」
茂が呟いた通り、少なくともこの小屋は「今の時代」を生きるものが使っているに違いなく、この陰気な森の中でその候補に挙がるのは先ほどの男ぐらいしか思いつかない。
慌てて出ていったのだろう。鍵は開いたままで、中にあのおぞましい化け物は居なかった。
彼らが一も二もなく中になだれ込んだのは言うまでもない。
鍵を閉めて蛍光灯を消した彼らは、目配せをしてそれぞれの役割を決めた。
ガラス窓から外を見張る役、そしてここにあるかもしれないあの化け物の資料を探す役だ。
お札をかすめ取っていったあの男は、この村の事情を知っているに違いなかった。
ならば、その事に関する記録があってもおかしくはない。
心優と晴美は三畳ほどの小屋に備え付けられた机や棚を手当たり次第漁り始めた。
茂と恵津子は窓から外の様子を伺いながら、自分達の手荷物を精査していく。
ライター、虫よけスプレー、紐、水入りペットボトルに食料……。
幸い、即席の火炎放射器は作れそうだった。
「シンヤ、ハルミ。テープとか使えそうなもんがあったらこっちに寄越してくれ。エッコ、缶を押さえてろ、とりあえず紐で固定する」
「大葉さん、これスプレー塗料です。ライターも幾つか」
「シンナーもありましたよ」
捜索組の発見物に茂は深く息を吐き、そして笑みを浮かべた。
「有り難てぇ」
こんなものがどこまで通用するか分からないが、やるだけはやろう。
萎みかけていた気力が何とか持ち直した、そんな気がした。
「エッコ、俺の上着を幾つかに切り分けといてくれ。外を見張りながらな。俺は何か棒になるものを探す」
シンナーをしみこませれば松明兼武器として使えるだろう。
一方で、本格的な捜し物を任された心優や晴美も必死だった。
あの化け物の正体、弱点、習性。何でもいい。
さっきのように知らないまま危険に突っ込むのだけは嫌だった。
LEDライトの光を可能な限り絞っての作業は難しく、焦りと合わさって大量の汗が流れていく。
煩わしく感じて拭うと、乾き始めていた親友の血が手に付いて、心優は拳を握った。
焦りと怒り、悲しみで顔がぐちゃぐちゃになる。
だが今はその感情を出すわけにはいかない。
溢れる感情をも拭って、彼は乱暴に手を動かした。
そして、事務机の下段引き出しをまさぐっていたその手がファイルを見つけだした。
「あった」
青く堅いプラスチックの表紙に、「記録:細川村と墜ちたものについて」というガムテープが貼られたファイルだった。
「これだ……!」
「本当ですかっ!」
すぐさま近寄ってきた晴美に何度も頷く。
タイトルと使い込まれている状態から、これが大事な記録であるのは間違いない。
彼は震える手でファイルを開いた。
「細川村の記録……一九三一年二月、石神山に隕石墜ちる……」
かなり古く堅苦しい日本語の文章が書かれた黄ばんだ紙がクリアポケットに差し込まれているが、有り難い事に最近誰かが整理したらしく、その上に貼られた付箋が内容を補完している。
心優はそれを噛み砕いて小声で読み始めた。
「同年四月、細川村の住人数名に奇病を確認。肌に灰色の斑点、異常行動。隕石との因果関係を調査……」
その後に書かれているのは隕石についての詳細だった。
隕石は褐色をした妙に柔らかいもので、熱も帯びていたという。
発見者によれば、元は五尺(一・五メートル)程の大きさだったが、日に日に縮んでいったという証言もあるらしい。
磁力を持ち、どうやら金属であると思われるが、いつの間にか試料が紛失してしまったため詳細は分からない。
隕石墜落から少しして、その近くに何度も稲妻が落ちたと何人もの村人が口にしたともある。
そして、その後にもっと劇的な変化が現れたようだった。
「虹色の光が夜間に蠢いているとの報告有り。記録に同系の現象を見つける。奇病と隕石との関係を確認。隕石に付着したものを「墜ちてきた色」と呼称する」
「同系の現象……アメリカの事例でしょうか」
「みたいだね。土着し、土地の生物から生命力を栄養として摂取、その後飛び立つ生態と推測される。以後、これを踏まえて作戦を立案」
心優がページをめくると、間に挟まれていた紙が落ちた。
当時の新聞記事の切り抜きらしい。
隕石については書かれているが、近くの村で流行った病気には触れていない。
まるでなかったかのような扱いだが、ファイルの資料がそれを否定していた。
「発症者が村の半数を越える。お上が村の隔離を決定。同時に外の異常者を村に送り始める。華族の忌み子が多数……」
「どういう事だよ。隔離しておいて、何で人を送り込むんだ?」
つっかえ棒を折り、その先端に布を巻いていた茂が問う。答えたのは晴美だった。
「たぶん、餌のつもりだったんですよ。栄養を与えて、さっさとお引き取り願おうって。変につついて被害を拡大させる事だけは避けたかったんだと思います。集団失踪、神隠しっていうのはそれをカモフラージュする為だったんですね」
「七月、隔離完了。村に来たばかりの連中が暴れる。看守を配置……たぶん、ここがその為の場所だったんでしょうね」
「じゃあ、アレが今の看守か?」
取り乱し逃げた男を思い出して茂は嘲った。
事情を知らずに場を乱した自分達が悪いのだろうが、看守というのなら頼もしくあって欲しかった。
「九月に入ると村に絶望感が蔓延し始める。外来の囚人らの動揺が村人にも伝播。「墜ちてきた色」を「玉虫様」として祭り上げる。彼らの精神状態は異常をきたしている。しかし後少しで監視も終わる」
それまで記録として徹していた文章に、この辺りで書き手の感情が混じり始めていた。
これを書いた当時の人物にとっても、この業務は精神的苦痛を伴うものだった事が読み取れる。
以後、村人の様子について詳細な記録が続き、日に日に弱る彼らの有様から終わりは近いと思われた。
だが、記録者の切望でもあったその予想は裏切られる。
「十二月四日、様子がおかしい。何かが起こっている。本格的な捕食が始まって、これまで一日に一つはあった死体があがらなくなった」
これまでと違うトーンで読み出した心優に、茂は作業を止めて顔を向けた。
一緒にファイルを見ている晴美は文章にかじりついて世話しなく目を動かし、外を見張っている恵津子もちらちらと彼の方を見ている。
「七日、それまで多様な色を帯びていた光が黄緑に変わる。夜間、目視できた「墜ちてきた色」に緑の光る膿があると報告有り。疾患しているものと推測。消化機能の不全か」
「病気になったって事? でもそれなら栄養が採れずに弱るんじゃないの?」
「十三日、森の立ち枯れが急速に広がっている事を確認。依然として「墜ちてきた色」の捕食は継続。捕食対象に多少の変化あれど、生存は可能と思われる。養分を求め行動範囲にも変化。被害拡大の恐れ」
一時は順調に運んでいると思われた化け物対策は、この変化によって破綻し、対処にあたっていた看守らは浮き足だったようだった。
「玉虫様」を奉る村の人間の熱狂ぶりは鬼気迫り、ついに生け贄を捧げるに至ったし、急激に進行していく檜の森の病み枯れは留めようとして留められるものではなかった。
書き殴られた記録には、村人同士の殺人にまで発展していた事が綴られている。
「何かが紛れ込んだに違いない。当初必要ないと判断された法術的対策の再考を要請。十二月二十日、村と周辺に法術的隔離を施す事が決定される。法術には旧神の印を使用。効果はあるのか……」
その後、村の数カ所、そしてあの鳥居と村の中央にある祠に札が貼られ、この異常現象が一応の終末に至った事が記されていた。
弱り果てた村人が餓死し、この地で得られる栄養を吸い尽くしてしまった「墜ちてきた色」もやがて弱っていったようだった。
そういった記録が細々とファイルには続けて綴られているが、もうめぼしい情報はない。
心優はファイルから顔を上げると肺の空気をゆっくりと吐き出した。
「つまり、あの光ってた奴らは生き残りって事かよ……」
茂ができた松明を皆に配りながら苦々しく言った。
鼻をつくシンナーの臭いが今は頼もしい。
「これからどうします?」
不安げに尋ねる晴美に恵津子はぎこちなく笑って「大丈夫よ」と返した。
「得体はしれないけれど、病気になるなら火だって効くかもしれないでしょ、大丈夫」
最後の言葉は自分にも言い聞かせるようでもあった。
「それに、あいつ、もしかしたら太陽か光に弱いのかもな。夜に光る、夜間に目撃……行動時間がいつも夜だ」
火が赤外線を放つ事は皆知っていた。自然と即製の松明を握る手に力が入る。
心優はスマートフォンを操作して現在位置を確認した。
「車のある方向はこっちですね」
彼が指さした方角を一同も頭に入れ、それから手持ちを確認した。
スマートフォンの充電残量、ライターが点火するかどうか、そしてLEDライトのストラップを手首に通す事も忘れない。
「じゃあ――」
――行きましょう。
そう口にしようとした晴美だったが、その途中で、ヌルリと肌を這う感触を太股に感じて足下を見下ろした。
「あ」
暗闇の中、光る事こそなかったが、濁った緑を湛えたゲル状の物体が、床板の下から染み出して、自分の足に絡みついている。
それを理解して、彼女の中に沸き起こった雑多な感情が、僅かな言葉となって口から漏れた。
「ハルミっ……!」
とっさに恵津子が彼女の上半身に抱き縋った。
グコキュッ、と音がした。
背骨と柔らかい内蔵がかき混ぜられたような音だった。
上半身が固定されたまま、下半身が無理矢理捻られた音だった。
晴美の体が腰でねじ折れていた。
「ひぉっ……ぉおっ、あぉっ」
力なくだらんと垂れた彼女の頭が、恵津子に向く。
唾液の溢れた口が何かを紡いだ。
ギチギチと見開かれた目玉がブレつつも恵津子を見ていた。
「いやあぁああああああああッ!!」
恵津子の悲鳴が上がり、脱力した彼女は床にへたり込む。
今し方、晴美を襲った粘体の居る床に。
「くそっ!」
茂が松明に火をつけた。
心優も手に持ったファイルを投げ捨て、恵津子の腕を掴んだ。
「小嶋さん、立って!」
晴美に縋りついたままの恵津子を引っ張るが、彼女は動こうとしない。
火のついた松明を振り回すと、粘体は磁力に反発するような動きで後退した。
その機を逃さず、茂は片手で恵津子の襟を掴み、男二人で強引に引きずる。
粘体に捕まれたままの晴美の体は恵津子の腕から離れた。
つっかえが取れ、彼らはその勢いのまま小屋から転がり出る。
「ハルミッ、駄目よハルミが!」
まだ生きている。恵津子の顔がそう訴えていた。
彼女は小屋に戻ろうと必死にもがいたが、二人はそれを押し留める。
「エッコ!」
茂が彼女の両頬を掴んで視線を合わせた。
「エッコ、あの子はもう助からない」
「でもっ、だってっ!」
「もうっ! 駄目なんだ!」
彼が叫んだのと小屋が悲鳴を上げたのは、ほぼ同時だった。
見れば、鋼板とトタン屋根で固められた小屋は、巨大な蛍光緑のゲル体にのし掛かられて軋んでいた。
「おい嘘だろ?!」
覆い被られた小屋は完全に呑み込まれ、ぐちゃりと潰れた。
中の晴美がどうなったかは考えたくもない。
小屋の周りに居たのはその粘体だけではなかった。
立ち枯れした数メートルの木々の間から、蛍光するもの達が一人また一人と歩き寄ってくる。
そのほとんどは、もはやまともな外見を保っていない。
どろどろと皮膚が溶け、中の骨がむき出しになっていた。
その姿を見て心優は理解した。
あのヒトガタは村人の骸に化け物が張り付いた姿だったのだ。
よく見ると、粘体の方も数人分の骸が水滴に浮いた埃の如くくっついている。
何体分かの蛍光するものが合体しあったものだとは容易に推測できた。
むろん、それが分かったところで何ができるというわけではない。
生やした人間の手足が爪楊枝に見えるほど巨大な、黄緑色の光るスライムにどう立ち向かえというのか。
男二人は恵津子の腕を掴んだまま駆けだした。
粘体がそれを追ってずるりと小屋から滑り落ちる。
彼らが先ほどまで隠れていた小さな基地は、潰れたアルミ缶のような有様だった。
ぐちぐちと嫌な音をさせながら粘体は彼らを追い始めた。
重量のあるゲル状宇宙生命体は滑るように森を進んで来るが、人間である心優らに起伏が激しい山は動きやすい地形ではない。
粘体は若い檜を薙ぎ倒しながらどんどんと迫ってきていた。
茂が松明を粘体に向かって投げつけた。
火が触れた瞬間、水膨れが幾つもできて破裂し、化け物は多少怯んだようだったが、大質量の前に松明程度の火ではどうにもならない。
このままでは追いつかれる、心優がそう思った時だった。
何かクリーム色をした木片のようなものが粘体に放り込まれ、劇的な変化が起こった。
それまで勢い止まらずに雪崩てきた化け物が硬化したかのように動きを止め、異物の入った箇所が泡立ちながら蒸発していく。
粘体は体から劇物を排出しようと全身を波打たせ、ボコボコと体を膨らませたが、その行為が仇となり形状を維持できなくなって、地面にぶちまけた水のように飛び散った。
何が起こったのか。
理解が追いつかず、おぞましい光景に目を奪われていた彼らに、女性の鋭い声がかけられる。
「こっちに来なさい、早く!」
その声に何とか意識を戻した彼らが振り向くと、夜闇の中に赤い着物が浮かび上がっていた。
躊躇している余裕はない。
彼らは彼女の元へ方向転換した。
しかし、歩くほど恵津子の体がどんどん重くなっていく。
彼女の顔を伺うと、その血色は蒼白を通り越して土色だった。
幼なじみを目の前で惨たらしく殺された事もだが、彼女はあの腐った水を飲んでしまった事もある。
体調が限界に近いのは明らかだ。
だが、ここで立ち止まるわけにもいかない。
化け物達はまだ追ってきていた。
ヒトガタの顔面が歪んで伸びたのを心優は見た。
首から上がワームのような動きでもって彼らを捕食せんと迫っている。
それに反応したのは着物の彼女で、彼らの所まで駆けつけると同時にその後ろに向かって手に握った手斧を振り下ろした。
血で濡れた斧の刃がワームの馬面に突き刺さり、さらに彼女が斧頭を殴り付けた事で刃先がめり込んだ。緑色の液体が流れ出る。
捕食に失敗したヒトガタはそのまま力をなくし地面に伏した。
肉と皮に擬態していた「墜ちてきた色」が骸から離れていく。
斧を引き抜いた彼女は化け物共を睨みつけたまま、迷える大学生達に言った。
「こっちよ。休めるところがあるから、そこまで踏ん張って」
6
死に絶え、ただその姿だけが残る桧の森を進んだ先に、赤い着物の彼女が言う「休めるところ」はあった。
明らかに鈍くなった――あるいは慎重になったヒトガタ共を引き離し、何とかたどり着いたその場所は、森の斜面にできた横穴だった。
入り口が枯れ葉に覆われて見つけにくくはなっているとはいえ、茂には連中から隠れ切れるとは思えなかったが、自分の彼女が限界に近い現状、贅沢は言えない。
動き回って絶好の隠れ場所を厳選している余裕などなかった。
ナニカによって掘られたらしい穴の中はかなり広く、彼らが入っても十分に余裕がある。
直径にして二メートルはあるだろう空洞がかなり奥まで続いているようだった。
茂は恵津子を壁にもたれるように座らせ、水を飲ませた。
彼女が何とか一息ついたのを見届けて、着物の女に向く。
「助かったよ、アリガトな。けどアンタ……」
「真朱よ。真の朱と書いて、マソオ」
彼女はそう名乗って、初めて彼らの方を見た。
眉の太い、気の強そうな顔立ちと肩口までの黒髪をした彼女は、自分達とあまり変わらない年齢に思えた。
もちろん外見だけで言えば、だが。
助けてもらった手前あからさまに疑うわけにはいかないし、化け物の仲間があの状況でわざわざ自分を欺く理由も思いつかないが、彼女という存在や彼女の誘導したこの場所が怪しく思えるのも仕方のない事だった。
「マソー……さん、何でここが安全だと言えるんだ?」
尋ねる茂に彼女は穴の奥の方を指さした。
心優がライトの光を当てると、そこには予想以上に生理的嫌悪感を引き起こす光景が広がっていた。
壁や地面にこびりつく乳白色のクリーム状の物、それに混じって辺り一面に飛び散ったオレンジ色の皮らしきもの、虫を思い起こさせる脚の一部の残骸……。
まずそれらを見て「なんだこれは」と思った。
それから、クリームに見えたものが固まった硬質なものであると気づき、それが割れた卵の様な形で横穴の奥に鎮座しているのだと理解するに至った。
皮や脚は、その卵から飛び出したものなのだ。
すでに乾いてしまっているが、テラテラと妙な光沢を放つそれらは明らかに有機体由来の物質にも見える。
心優はその様を見てカマキリの卵鞘の様だと思った。
親友の藤一が居れば何かもっと専門的な見解をしてくれただろうとも。
気分が沈むのを何とか留めて、彼はさらに観察を続ける。
ここはナニカの巣だったに違いない。
くっついてしまって判別が難しいが盛り上がりが二つほどある事から、卵鞘らしき物は二つほどあったらしい。
もっと言えば、一つには皮や脚がくっついていて汚らしいが、もう一方は不純物を含んでいない。
大きさは一つ二メートルはあるだろう。かなり大きい。
ナニカがここで孵化か羽化したに違いなかった。
人間以上はあるナニカが。
さらに、その有機体と少し離れたところに人骨を見つけて恵津子は悲鳴をあげかけた。
服も着ていない、頭部の割れた骸だった。
奥の様子を彼らが認識した事を確認して、真朱が口を開く。
「あれがあの生き物を病気にしたのよ。だからここには来たがらないわ。ああ、触れないようにね。人にも毒だから」
「何なんですか、アレ?!」
「別のモノが棲んでいた跡。羽化したのはだいぶ前の事だけど、今でもアイツは怖がってるみたい」
「じゃ、じゃあ、ここにいれば!」
恵津子が期待を持った声をあげるが、
「それは無理でしょうね」
真朱はそれを否定した。
「嫌ってるだけで、いざとなったらおかまいなしに襲ってくるわ。死にもの狂いでね。あの時から何年経っているか知らないけれど、アレが栄養失調なのは間違いないから」
「……病気になるかもしれないのに?」
「アレにはもう後がないのよ。食べずに死ぬより、病気になっても生き残れるかもしれない方をとるでしょう。アレは、純粋なイキモノだから」
彼女の最後の言葉に茂は苦々しい顔になった。
「アレが純粋な生き物? 化け物じゃねぇか」
「周囲の生物が異常をきたそうと、アレはただ食べて成長していただけだもの。生育の為の殺生はどう見えても純粋なものよ。化け物というのはね、気まぐれに生かしたり殺したりするものなの」
真朱はここではないどこか遠くを見ながら言った。
「それに今はあんな姿だけれど、ああなる前は綺麗だったのよ。もっと気体に近い性質で、虹色に煌めいて。それがああなってしまって……残酷な話ね」
残酷という言葉には彼らも色々と思う事があった。
病気の事さえなければ、少なくとも彼らはこんな目に遭わなかったのだ。
横穴に沈黙がおりる。
恵津子はここが安全と言い切れないという事に不安を感じているようであったし、茂は彼女の様態が気になってしょうがないようだった。
この機にと、心優は彼女に出会ってからずっと気になっていた事を訊いた。
「あの、真朱さん。心太、という名前に心当たりありませんか?」
彼女の錆色の瞳が彼を見た。
「……村から出してあげた子の事かしら?」
「僕、曾孫なんです。心優って言います」
彼の言葉に彼女は目を瞬かせた。
「そう、心太君の、曾孫……あれから何十年経ったの?」
「およそ、八十年ほど」
「そう……」
短い相槌の中に、あまりに多くの感情が込められているように心優は感じた。
彼女はしばし無言で横穴の天井を仰いでいたが、彼らに振り向くと笑顔を浮かべた。
「じゃあ、尚更この村から出ないとね」
「何かいい方法があるんですか?」
「方法より先に、やらなければいけない事があるわ。村の洞窟の祭壇――まあ、祠ね。そこにある札を剥がさないと、ここから出れない」
「えっ、でも、入ってこれたし……」
現状では出る事すらできなかったなどと信じたくない恵津子が言ったが、真朱は首を振って否定した。
「外に出さないようにする守りなのよ。入る事は大して難しくないけれど、出るとなれば話は別。守りの核である祠の札を剥がすしかないでしょうね」
「アンタ……何でそんなに詳しいんだ?」
茂のもっともな疑問に彼女は肩を竦める。
「この守りを張る為に術者達はまず外から札を貼ったの。包囲してから村の中心に核の札を貼る事で、相手に気づかれ難いようにね。けれど、そうすれば当然、中の札を貼る役も一緒に閉じ込められる」
彼らは何も言えなかった。
直接的な言葉がなくとも、彼女が事情に詳しい理由は察せられる。
「そのお守り、剥がして大丈夫なの?」
大切なお守りを、と恵津子が問うと彼女は微笑んだ。
「私が言うんだから良いの。どうせアレはもう長くないわ。八十年持ちこたえてきただけでもう限界なのよ。だからようやく迷い込んできた貴方達を食らう為にあんな手に出た。吸い取った生命力の残滓を利用して村の人達の生前を再現して……それにだって体力を使うのに、もう形振り構っていられないんだわ。貴方達が逃げ仰せれば、土着してほとんど動けないアレは、守りがなくてもいずれ死ぬ」
「動けない?」
心優達には自分達を襲ってきた奴らは十分機敏に動いていたように思えた。
「本体があるのよ。分裂して多勢に見えるけれど、アレは一つの生物なの。本体が住み着いている場所から遠くへは行けない」
「ああ……そうか、気になっていたんですけど」
真朱の説明に思い当たる事があって心優が口を開いた。
「隔離って細川村だけなんですよね。伝染する奇病が発生したなら、普通川を埋め立てません?」
「確かに。川の下流の人には奇病患者が出なかったって事か」
「アレは村の祠に住み着いたようだったから。川にはあまり影響がなかったのでしょうね」
「……え、待ってください! 祠に? 住み着いた?」
今から行かなければならない場所に本体が居る。
そう聞かされて、収まっていた恵津子のパニックがぶり返した。
一時は整いつつあった呼吸がどんどん乱れていく。
「祠には出入りできる道が二つあるわ。一つは礼拝用の出入り口で、もう一つは洞窟の湧き水を逃す為の細い水道。水道から入って、そのまま礼拝の出入り口から逃げましょう」
「うまくいくか? もし両方とも塞がれでもしたら……」
「村人に張り付いているものは、多少行動が生前の方に引っ張られているのよ。だから思い通りに動かせていないし、アレは人と考え方がまるで違うイキモノだから、勝機はあるわ。札が手に入れば多少のお守りになってくれるでしょうし、それでも最悪待ち伏せされた場合の事は考えて、広い礼拝の道から出るようにするの」
「ここにっ、ここに居ちゃ駄目なの? もしかしたらアイツその内餓死しちゃうかもしれないんでしょ?」
恵津子の声は恐怖から逃げたいという必死さが感じられるものだった。
「さっきも言ったけれど、アレが痺れを切らさないとも限らないし、ここは人間にだって良くない場所だから」
ただでさえ体調が悪いのに、ガタガタと震え始めた彼女を心配して茂は側に寄った。
恵津子の体からは大量の汗が噴き出していて、熱もあるようだった。
そんな彼女に無理はさせたくない。
「誰か一人が祠に入って札を剥がすってのは?」
茂の提案に真朱は眉尻を下げた。
「私が行ければいいんだけれど」
「あ、いや、そういうつもりじゃ……」
彼は慌てて否定した。
そんなつもりで言ったのではない。
だが、確かに本来その役に適任なのは真朱だった。
「でも」
と彼女は笑みを湛えたまま言った。
「私にはできないの。理由は、言わせないで」
茂達は閉口するしかなかった。
八十年前の人物が、そのままの姿で生きているわけがないのだ。
彼女がこうして居るという事が何を示すのか、彼女に何故その役ができないのか。
導き出されるその理由に、心優は息を呑んだ。
「それに、残った二人は村の境界線で待つとして、祠に行った方が失敗したら、結局祠に戻らなければいけなくなるわ。躯に憑いたもの達が残っているかもしれない祠にね。きっと、機会は一度きり。やるなら全員で、ね?」
もう、彼女の提案に異議を唱える者はいなかった。
7
「いいか、合図で駆け出すぞ。それと、スプレー缶は落とすなよ。ヤツラが近づいたら遠慮なく火を吹き付けてやれ」
頭にLEDライトを括りつけた茂が最後の念を押し、同じく付けたライトの具合を確かめながら心優と恵津子が頷いた。
そんな三人を見て、真朱も手にある点火済みの松明に目をやる。
煌々と燃える火はあの地球外生物に対しては頼りなく、布の大きさからしてそう長くは持たないだろう。
とはいえ、ライトは三つしかなく、それをより必要としているのは心優達だった。
村に一番詳しい彼女が祠へ先導しなくてはならないし、彼女に続く彼らは頭にライトを固定する事で手の自由を得られる。
生存率を上げるために可能な限り効率を突き詰めた結果だ。
右手に斧、左手に松明を持った真朱は地面の踏み心地を確かめた。
先導する以上、彼女が遅くては話にならない。
幸い彼女の履き物は草履で、土を掴む事はたやすいだろう。
彼女のすぐ後ろにつく心優は、自分のポケットの中身に外から触れた。
そこにハンカチに包んで仕舞った、クリーム色をした得体の知れない有機物の破片を忍ばせている。
それこそが、あの時真朱が投げつけたものだと気づいたからだ。
真朱はいい顔はしなかったが、彼は万が一の保険が欲しかった。
だから、危険であるという破片を慎重に拾い上げ、代表して持ち運ぶ事にしたのである。
その上で最後尾に付こうと立候補した心優だったが、それは恵津子によって却下された。
間違いなく遅くなる自分こそ後ろであるべきだと彼女は言った。
となると、彼女になるべく付きそう為に茂も後ろという事になる。
そうして自然とできたのが今の順番だった。
「それじゃあ、行くわ」
真朱が前に向き直って作戦の開始を告げた。
その言葉に一同が息を呑むのを聞き届けてから、彼女はカウントを始める。
「さんっ、にぃっ、いちっ……」
そして、
「行け!!」
掛け声と共に駆け出した。
枯れ葉に隠れた出入り口を抜け、おぞましい森へと飛び出す。
やはり、蛍光する躯達はすぐ近くまで来ていた。
真朱はその包囲網から最も隙が大きい箇所を瞬時に見つけて走り出した。心優達もそれに続く。
躯達の間を次々とすり抜け、彼らは祠へ続く水道を目指した。
けれど、ヒトガタどもの数は多く、その群がりから抜ける前に、連中も包囲網を狭めてくる。
幾ら隙間があれど、全員が通りきるまで待ってくれるわけもなく、心優が通ろうとした時点で躯の一人がかなり近くにまでやってきていた。
彼自身が通れても後ろの二人がとおせんぼを食らう。
そう判断した心優は即席の火炎放射器を噴いた。
火に怯み躯が後ずさった隙に、二人も一気にヒトガタの密集地帯から抜け出す事ができた。
「でかした!」
茂の感謝に心優は頷いて応える。
あの躯共は動きが鈍い。こうして一度引き離せれば追いつかれる事なく祠にたどり着けるはずだ。
しかし。
ゴキゴキゴキと死んだ桧を砕く音をさせながら、あの巨大な粘体が彼らを追ってきた。
そう、一番の問題はこの緑色に光る粘体だった。
コレが横穴の近くで待ち伏せていたのなら、彼らは呆気なく食べられていたかもしれない。
しかし粘体は少し離れた場所で待機していたらしい。
本体の肉体の多くを保有しているからこそ、毒の穴には近づかないだろうという真朱の予想は当たっていた。
彼らは賭けに勝ったのだ。
僅かな時間が稼げたおかげで、追いつかれる前に水道の入り口である森の斜面にある穴へと滑り込めたのである。
粘体も逃すまいと穴に向かって、超重量の体を叩きつけたが、堅い岩でできた狭い入り口にその体は大き過ぎた。
広い場所でこそ有利に働く巨大な体も、狭い穴の中では邪魔でしかない。
質量があるからこそ、体を穴のあちこちに擦り、勢いを出すほど詰まってしまう。
粘体の武器であった移動速度もこれで封じ込められた。
これが時を越えた少女の示したもう一つの策だった。
勝機はあると言った真朱の深意を、大学生達は目の当たりにしてよく理解できた。
「ここの祠はね、村の中央にあった岩穴をただ奉ったもので、元は別の神様が奉られていたわ」
足下が水に浸った穴を走り抜けながら彼女が言う。
「それが隔離されてから「玉虫様」を奉るものにすげ変わったの」
「その「玉虫様」とやらのせいで隔離されたってのにな」
茂の皮肉めいた物言いに彼女は苦笑した。
「人ってそういうものよ。縋れるものに縋りたくなるの。だけれど、ここの人達は悪人じゃなかった。今はこうして襲ってくるけれどね」
心優は後ろを振り返った。
粘体が穴の中を埋め尽くしながら迫ってきている。
思うように進む事ができないらしい図体からこちらに延ばしてくる手は紛れもなく人の手だった。
村人の手だ。
その内の一人が自分の親友を殺した。
しかし、彼女は悪ではないという。
「ただ物事の絡み方が悪かっただけよ。そういう事になって仕方がなかった。だから、貴方も自分のせいでこうなった、なんて責めるのは止めなさいな」
それはきっと心優に向けられた言葉だろう。
話してはいなかったが、曾祖父心太の思い出話を聞き、興味本意でここへきたのだとは容易に推測できる。
しかし、彼女の言葉は恵津子にも染みるものだった。
自分があの札に触れさえしなければ。自分が晴美を誘わなければ。
彼女は何度もそう自分を責めていた。
生きている限り、ずっとその事を引きずり続けるだろう。
抱き縋った晴美の中身がかき混ぜられた時、肌越しに伝わってきたあの感触を忘れる事などできまい。
生きている限り、だが。
恵津子は粘体の腕がもう自分に届くところまで来ている事を感じていた。
足と肺は既に感覚がなくなって、自分が走っているのか息をしているのかすら分からなくなっている。
吐き気がずっと収まらず、頭は熱っぽさを越えて、鳴らされた鐘の様にガンガンと揺れているようですらあった。
限界だった。
けれど、彼女の霞んだ瞳が、できる事を一つだけ見つけていた。
今走っている水道には数カ所に開閉できる鉄格子の扉がある。
穴の奥側に開くため、そのままでは遮蔽物となってくれない扉だが、
「ごめん、シゲル」
誰かが押さえていれば、多少は。
恵津子は身を翻した。
そして、迫る化け物が通る前に鉄格子を閉める。そのまま細い全身を使って押さえようとして――、茂がその腕を掴んだ。
「バカヤロウ!」
怒鳴る声、次いで鉄材に何かぶつかる音が穴の中に響く。
心優がとっさに振り向くと、茂が自分と彼女の位置を入れ替えるように、自分の体重を勢いに利用して恵津子を心優の方へ投げやっていた。
彼は慌てて恵津子の体を抱き止め、茂に向き直したが、茂は恵津子の代わりに鉄格子へと倒れ込んだ。
恵津子の身代わりになった形だった。
茂が扉にもたれ掛かった事で、さきほど音を響かせて鉄格子に体当たりした粘体の動きを封じる事ができたが、足を止めてしまった一同と粘体の距離は致命的なまでに縮んでしまっていた。
時間を稼ぐしかない。
誰かが、この扉を押さえて。
誰が、という問いに答えはもう出ていた。
「行け! シンヤ、エッコを頼む!」
「嫌っ、嫌よ! 私っ、そんなつもりじゃっ、嫌ぁ!!」
恵津子は髪を振り乱した。
今ここで彼を亡くしてしまえば、いったい誰が彼女を支えられるというのだろう。
心優は自問した。
自分には無理だろう事は確かだ。ここに彼らを連れてきてしまった自分では。
だから、彼は決心する。
「ぼ、僕が……っ!」
けれど、扉を全身で押さえたまま彼に振り返って、茂は彼の台詞を遮った。
「バッカ、ひょろ助。お前に力仕事は無理だろーが」
茂は笑っていた。
少なくとも、目の前で自分の身代わりになろうとするこの男は、見た目ほど貧弱ではない事を知って。
彼なら自分の彼女を見捨てたりはしないと確信できる。
だからこそ、茂は自分の役割を譲る気はなかった。
彼のそんな様子を見て、
「くそっ!」
心優は悪態とともに自分のスプレーを彼に投げた。
ここで口論する余裕はない。
鉄格子の扉ではいずれ粘体はすり抜けてしまうし、茂の体力がその前に尽きてしまうかもしれない。
すでに粘体の一部が格子の間から忌々しい腕を伸ばし、茂の体を掴もうとしている。
心優は恵津子の手を取った。
彼女は留まろうともがいたが、まともに抵抗する体力すらないようだった。
前方の真朱も再び駆け出し、心優もそれを追った。
茂は遠ざかる恵津子らの背中を見ていた。
人影はやがて光の点となって闇の中へと消えていった。
鉄格子の間をすり抜けようと蠢く粘体が体に触れる度、蒸気を浴びているような感触が伝わってくる。
火傷にはならないが、触れた箇所には灰色の妙な斑ができていた。
村人にもこんな痕がついたという。
おそらくは「墜ちてきた色」とやらの捕食によるものなのだろう。
どういう方法か知らないが、その生物は生命力を奪って餌とするらしい。
それを奇病と見なされて村は隔離され、そこに住んでいた村人は死んだ。
いずれ自分もそうなるのだろうか。
いや、殺されるだけに留まらず、彼らはその躯まで弄ばれている。
あの生物にそんなつもりはないのだろうが、彼にはそうとしか思えなかった。
月夜の下で蛍光する化け物にされた彼らと同様、自分もまた仲間に襲いかかるようになるのかもしれない。
それは嫌だなと思った。
あの赤い着物の女に、意識を保つ方法でも聞いておけばよかった。
ごきりと右肩の骨が砕ける音がした。
体の半分以上を粘体が覆い、皮膚が溶けているのもが感じられた。
熱いのか冷たいのか、とにかく鋭い痛みが半身を走り続けている。
火炎放射を浴びせてみるが粘体の動きは衰えなかった。
今際の際になるかもしれない状況に、様々な事が頭を巡っていく。
恵津子の笑顔、森の車、首をなくした後輩の藤一、腰を内蔵ごと捻られた晴美、札の五芒星と見つめる瞳、今目の前にもいる粘体、あれを病に侵したナニカの住処、彼女を託した心優、看守の小屋、枯れた木々、全身が緑色蛍光のヒトガタ、助けとなった赤い着物の真朱――――。
あらゆる事がぐちゃぐちゃに解け合い、
「しまっ………………くそっ!」
茂は思わず叫んだ。
そして、手が緩んだ瞬間、鉄格子と彼の体で留められていた粘体が雪崩込んだ。
8
茂を置いて先に進んだ彼らは、狭い水道から多少の広さのある空洞にたどり着いていた。
地面の窪みに湧き水が貯まっているが、それももっと奥から流れてきているものらしい。
松明で水溜まりを指しながら真朱は言った。
「この空洞を水の流れに沿って進んだら祭壇があるわ。札は祭壇に……まあ見ればすぐ分かるはずよ。礼拝用の通路は祭壇の正面に続いているから後はそこから走り抜けなさい」
その言葉に自分は留まるという意志を感じ取って、心優は彼女を見る。
真朱は斧を彼に渡し、その手を両手で包んだ。
「私はここまで。後は二人で行きなさい」
「でも!」
「どうせ私は村を出られない。ここでお別れよ」
「けど、札を剥がせばっ、せめて曾祖父の墓参りぐらい……!」
叫ぶ心優に彼女は首を振って応える。
それは困ったような、憂いを湛えた微笑みだった。
その時、彼らが通ってきた水道の方で水音がして、彼女は笑みを消して鋭い視線を音源へと向けた。
空いている手で彼女を掴もうとした心優だったが、それよりも早く、すでに掴んでいた方の手が引っ張られる。
誰よりも先に、水道の暗がりから来るものが何か気づいた恵津子が叫んだ。
「シゲル!」
言われて、彼も暗がりを見た。
闇の中で人工的な光がぼんやりと輝いていた。
茂が頭につけたLEDライトのものに違いない。
恵津子が駆け寄ろうとしたが、それを止めたのは真朱だった。
「駄目よ」
彼女は心優達を庇うように前に踏み出した。
「早く祭壇へ!」
彼女の鋭い声が彼らにかけられるのと、茂が獣のような雄叫びを上げて彼女に襲いかかるのは同時だった。
二メートル近くある茂の巨体が百六十ほどの真朱の細い体にぶつかり、もつれ合った二人は地面を何度も転がった。
横転は茂が真朱に覆い被さった状態で止まる。
その時、心優達は初めて茂をしっかりと目視した。
茂の姿は変わり果てていた。
よく焼けた肌は気味の悪い灰色の斑点が浮かび、所々はふやけたカサブタを抉ったようにぐずぐずになって溶けている。
首からはだくだくと血を流し、血走った目には憎悪を灯らせているようだった。
そんな彼の瞳が心優と恵津子を捉えた。
彼は、ごぼごぼと血を吹きながら、言葉とならない声を上げた。
嘔吐くような、酷い声だった。
その下に敷かれた真朱が彼に負けじと叫ぶ。
「行きなさい、早く!」
彼女の声に心優はハッとして呆然としている恵津子の腕を引いた。
そして振り返る事なく、彼女から教わった祭壇の在処を目指した。
何時、粘体もやってくるか分からないのだ。
犠牲を無駄にする事だけはあってはならない。
頼りないライトの光が洞窟を照らす中を二人は走った。
村人が祠として崇めたこの場所は、今ではただ不気味な穴でしかなかった。
湧き水に浸った地面を踏みしめる度に靴の中に不快な感触が生じ、土臭い湿気が肌と鼻にまとわりついてくる。
息苦しく、肌寒く、どんどん体力も奪われる。
祭壇までの道のりが酷く長く感じられた。
しかし、何事にも終わりはある。
暗くてほとんど全体を見渡せなかった空洞にいきなり光が差し込んできて、心優は思わず目を瞑った。
暗闇に慣れた目を光の源に向けると、洞窟の天井に穴が空いていて、その向こうに星空が覗いていた。
その穴から漏れてくる月光が洞窟の一点を照らしている。
そこに、湧き水で出来た浅い池があり、その中央で島の如く浮かんだ台の上に古い鏡台が鎮座していた。
それこそが、「祭壇」に違いなかった。
隔離され絶望した村人達が、村の中で一番それらしいものを置いたのだろう。
見窄らしいものだったが、その石台に人の血痕らしきものを見つけ、神様をでっち上げてまで救いを求めた当時の村人達の狂乱ぶりを垣間見た気がした。
その鏡に鳥居で見たのと同様の札が貼られている。
心優は粘ついた唾を飲み込んだ。
それから恵津子を座らせて、池の中へと入り、忌々しい札を引き剥がした。
破かなかったのは、その札が多少のお守りになるという真朱の言葉を覚えていたからだ。
彼はそれを恵津子に渡すためにも引き返そうとしたが、池の水面が波打っている事に気づいて足を止めた。
振動は急速に大きくなり、やがて祠自体まで震え出す。
何かが来る。逃げなければ。
けれど、もし間に合わなかったら……。
心優は茂から託された恵津子を見、それから真朱から譲り受けた斧を握り直した。
しかし、
「シンヤ君ッ!!」
恵津子の悲鳴が知らせたのは、彼の後ろから襲いかかる脅威。
彼女の絶望に染まった視線が自分の後ろに向けられていると理解して、瞬時にその場を跳び退いた彼だったが、その左足に伸びた粘体が絡みついた。
脅威の正体を知るために彼が振り向くと、祭壇の鏡から、月光で翡翠のように蛍光するネバネバした塊が溢れ出てきているところだった。
板鏡から収まるはずがない大質量の粘体がドロドロと溢れる様は、鏡の世界からの来訪を思わせる。
来るのが化け物でなければどれほどよいか。
祠には本体がいる――そんな真朱の言葉を心優は今頃になって思い出した。
けれど、遅い。
彼の左足から木の枝を折るような音がして、その骨が砕けた。
心優は激痛に耐えられず悲鳴をあげる。
折れたのならまだいいが、おそらく骨は砕けてしまった。
もはやまともに歩けない。
「こ……んのぉっ!」
だが、それでも彼は踏ん張って斧を振るった。
足にまとわりつく粘体を切り離して、俯けに倒れたまま、手と膝で前進する。
彼の向かう先には硬直して動けない恵津子がいる。
彼女にお札を渡さなければ。
しかし、今度は水路と繋がる方の通路から、今まで自分達を追い回してきた別の粘体が、彼らのいる空洞に飛び込んできた。
自然が作り出した洞窟が、死にもの狂いで這い回る彼らによって削られていく。
天井の一部は崩れ、穴は一回り広げられ、その際にできた瓦礫が彼らに降りかかった。
広さ十メートル四方の祭壇の空間が、ニ体の粘体によって埋め尽くされたように感じられた。
酷い音がしている。
いや、音なのかも彼らには分からなくなっていた。
岩の振動が直接体に響いてくる有様で、自分が何を見て聞いているのかすら判断がつかない。
ニ体目の出現によるショックで恵津子は我に返った。
今自分達が化け物の餌食になろうとしている事と、生き残った唯一の仲間が負傷している事を改めて把握した彼女は、地面に伏した心優へ駆け寄る。
そうだ、それでいい。
後はこの札を持って一人で逃げてくれ。
しかし、心優の元までたどり着いた彼女が手に取った物は札ではなく斧だった。
「馬鹿っ何を……札持って逃げろ!」
彼女は首を振った。
「私が何とかしなきゃ……私の、せいだから」
「違う、違う違う!」
心優が吠えた。
「みんなをここに連れてきたのは僕だ! 僕のせいなんだよ! だから逃げてくれ、頼むから……!」
けれど、彼女は首を振り、
「ううん、私のせいよ。貴方のせいじゃない」
札を剥がしてしまった事や、晴美を死なせてしまった事には、間違いなく自分に責任がある。
泣きそうな笑みでそう小さく呟いて、蠢く化け物達の方へと向かった。
「来なさい化け物! 私が、私が……」
何をするというのだろう。
何の変哲もない斧一本で、か細い腕をして、あの化け物共を倒すとでも言うつもりなのだろうか。
彼女自身にもそれは分からなかった。
ただ、熱で霞んだ意識の中、自分にできる事を探し求めていた気がする。
化け物達は、もはや捕食目前に至った獲物の内、札を持たない恵津子の方を先にしようと決めたらしかった。
粘体が彼女に向かうのを、心優はただ見ている事しかできなかった。
片足が砕けて立ち上がる事もできない。
柔らかい紙の札は投げつける事もできない。
「くそくそくそっ!」
悪態を吐いたところで状況は変わらない。
それでも、彼は何とか恵津子の元へ向かおうともがいて、そして、地面に擦った布地と太股の間に硬い感触がある事に気づいた。
慌ててポケットをまさぐると、ハンカチに包んだ卵鞘らしき破片が地面に転がった。
病魔の元とでも言うべき欠片が。
心優がそれを手に取った途端、手から煙があがった。
じゅうじゅうと皮膚が泡立って溶けているようだった。
酸を浴びているのではないかと思える激痛が彼を襲う。
だが、それこそ今欲しているものなのだ。
彼は憎き化け物を見た。
二つだった粘体は互いに混ざり合いながら、頭部らしき部位を大きくもたげて、今まさに恵津子を襲いかからんとしている。
その頭部めがけて彼は破片を力一杯投げつけた。
拳に収まる程しかない得体の知れない有機体は、見た目と違って軽い物質だったが、それがこうをそうし、倒れた体勢でも遠くへ放る事ができた。
蛍光する粘体は破片が当たった瞬間、爆発的な勢いで体表が覆い尽くされるほどの数の巨大な水膨れを生みだし、やがて全身を弾けさせた。
飛び散る肉片から白い泡が吹き出し、地面を蛆のようにのたうっている。
膿汁のように溢れ出る黄緑色の粘液が気味の悪い泡となって消えていき、何とか大きさを保った粘体も溶けるように縮小しているようだった。
それでも、ソレはまだ飛び散った体を再生させようともがいていた。
力なく地面をずるずると這いずって、体を集め直しながら、ソレは月光の射す祭壇の方へと向かっていた。
心優もまた、恵津子の元へと這いずっていく。
斧を持ったままへたり込んだ彼女の近くまで彼が辿り着いた時、粘体も祭壇の池に身を浸した。
その水音に彼らが振り向くと、もはや白く濁った色にしか蛍光しなくなった粘体の体が卵状に纏まっていくところだった。
やがて粘体は動かなくなった。
その体表は完全に白くなり、表面が乾燥してボロボロと細かな繊維が舞い落ち始める。
動く物がなくなって、祠はしんと静まりかえった。
喧騒から静寂に転じた洞窟に心優達の呼吸だけが響く。
彼らは繭のようになった粘体を凝視していた。
そうするしかなかった。
二人とも動く体力もなく、互いに寄り添う事しかできない状態だ。
願わくは、あの粘体が毒に侵されて力尽きていますように……。
しかし、彼らの願いは静寂と共に破られる。
乾いた繭の表面に亀裂が入るや、内側から殻を剥がす音を断続的に発し始め、ついにはその上部が突如破裂した。
「ひっ、あ……ああっ!」
中から現れたのは、歪な蟲だった。
頭部にはベリーのように不規則に実った複眼、胸部からは出鱈目に生えた七つの脚。
ついに手に入れた虹色の羽は、形が不揃いなだけでなく、胴に対してあまりにも小さい。
その胴にしても、腹だけは昆虫のそれに思えたが、よくよく見れば幼虫の未成熟なもので、全体としておおよそ人が見慣れている虫とはかけ離れている。
ソレはあまりにも醜い姿だった。
奇形と呼ぶより他はない、惨い有様だった。
「ひゃぁああああああああああっ!」
恵津子が悲鳴を上げた。
心優は息を詰まらせていた。
その複数の目が自分達を見ている気がしたからだ。
だが。
ソレはもう心優達を見ていなかった。
その虹色の眼は月光の注ぐ天井の穴の先、遙かなる宇宙へと向けられている。
八十年以上も前から渇望し続けてきたのだ。
今までずっと、絶える事なく。
故郷なる宇宙へ帰る、ただそれだけの事を。
ソレはいびつな羽を広げると、危なっかしく飛び上がった。
ふらつきながらも必死に羽をはばたかせ、どんどんと高度を上げていく。
そして、ついに洞窟の穴を通り過ぎるというところまできて――、そこで羽が付け根からもげ、その図体は元の穴蔵へ無様に墜落した。
びちゃんと、水風船を地面に叩きつけたような音がした。
内臓が潰れた音だった。
宇宙へ焦がれ捧ぐものは、そして、動かなくなった。
9
数週間の月日が経って、一時退院した心優は松葉杖に頼りながら曾祖父の部屋を訪れていた。
砕けたと思われた骨はそれでも奇跡的に状態がよかったらしく、複雑な手術は免れた。
むしろ酷かったのは恵津子の方だった。
彼女は今精神病院に入院している。退院の予定はない。
ようやく自分が危機から脱したのだと理解したと同時に、彼女の精神は壊れてしまった。
自責の念に潰れる彼女を、心優は救うことができなかった。
彼自身がそうであるように、本当に責められるべきは自分なのだと譲らない彼女に、かける言葉が見つからなかったのだ。
明日また、彼女の元を訪れようとは思うが、容態によっては面会すらままならないだろう。
彼は曾祖父が使い古した書斎机に松葉杖を立てかけ、部屋に飾られた写真を見渡した。
それらは曾祖父が生涯を費やして撮ったものだ。
人や風景の優しい光が感じられる。
一方で、彼が封筒から取り出した写真は、蛍光色の不気味な夜を映し出していた。
あの夜に撮った数少ない戦利品だった。
彼はそれを見つめながら、あの夜の出来事について思い返す。
化け物が墜落死した後、彼らは真朱や茂と別れた空洞の方も見に行ったが、そこにあったのは白骨化した男の躯と赤い着物だけだった。
生き残るために駆け抜けた時のあの苦しさや痛み、焦燥を感じさせるものが根こそぎ消え去っていて、ただ八十年前から静寂が続いていたかのようですらあった。
結局のところ、あの体験は何だったのか。
このところそればかりが彼の頭の中にあった。
きっと、異常極まりない出来事を心が消化しきれていないのだろう。
曾祖父が経験した話を端に発した一連の出来事は心優に大きな影響を残した。
何故、曾祖父があの不思議な話をよく言って聞かせてくれたのか。
何故、長年に渡ってその事を気にし続けていたのか。
今なら曾祖父の気持ちが分かる気がするのだ。
あの夜出逢った赤い着物の女性の事を、心優もまた忘れないだろう。
彼は昼の風が舞い込む窓を見た。
あの夜とはまるで違う心地のよい風だが、今の心情にはよく合った。
あの村から何とか彼女の着物を持ち出す事はできたが、それは曾祖父の遺品と共に仕舞ってある。
彼には今手に持っている写真があった。
これがあれば、あの時の事を鮮明に思い出す事ができる。
――と、着信を知らせる振動に気がついて彼はスマートフォンをタップした。
送信者は、例の手紙を鑑定してもらっていた「名探偵」を自称してはばからない知り合いだった。
「はい、新田です」
『知ってるわよ』
慣習的な応答にそんな身も蓋もない台詞が返ってくる。
彼女は基本的に男に冷たいが、今は特に機嫌が悪いようだった。
『用件だけ話すけど』と彼女は端的に前置きして話し始めた。
『あの手紙、胡散臭い』
「え? 胡散臭いってどういう意味です?」
彼は手紙の内容を思い起こす。
書かれていたのは「彼女を助け出せ」という言葉だけの、古めかしく黄ばんだ手紙だったはずだ。
その何が胡散臭いのか。
彼女は続けた。
『まずね、あの手紙は大して古くない。というかほとんど新品だった』
「新品って、でも……」
『そういう商品なのよ。古く見える手紙っていうね。百円均一で売ってる一種のジョーク商品。あれと同じ手紙が売られ始めたのは約三年前。よって書かれたのも最近って事』
「それじゃあ、あの内容は曾爺さんの話とは無関係……」
『さあ? それは知らないけれど、ただ……』
彼女はそこまでいいかけて、口を噤んだ。
「ただ?」
彼が先を促すと、電話越しに溜め息が聞こえてくる。
そして、
『イタズラかどうか、私の知り合いに手紙をトレースさせたら何が読み取れたと思う?「私のより酷い悪意」だって、禄でもない。何であれ、そんなものに関わるのは止めなさい。何かあっても私には持ってこないで』
それだけまくし立てると彼女は通話を切ってしまった。
ツーツーと虚しい音が耳に届く。
心優は今し方聞いた妙な話に思考を巡らせながら、スマートフォンを緩慢な動作で仕舞った。
手紙はごく最近書かれたものだという。
古いものに似せられたそれは、間違いなく騙す意図をもって作られたのだろう。
しかし、誰が? 一体何のために?
イタズラでないと彼女は言った。
つまり何かしら、読み手にさせたい事があったというのだ。
わざわざ曾祖父が集めた細川村の資料に挟まれた、その手紙には。
「彼女を助け出せ」と便箋には書かれていた。
しかし、その「彼女」とは誰の事だったのか。
それが本当に赤い着物の真朱を指すというのなら、彼女はとうに手遅れだったはずだ。
なのに、何故今になって――――。
けれど、
「――――え?」
彼の思考はそこで遮られた。
横腹に、熱い痛みが走る。
見れば、深紅の染みが衣服に広がっている。
すぅっと体中の血の気が引き、彼の体は書斎の床に崩れ落ちた。
仰向けに倒れた彼の瞳が、赤いワンピースを着た女を捉えた。
太眉の、肩口までの黒髪で、いつも笑みを湛えた。
数十年前に死んだはずの彼女。
村から出られないと言った彼女。
その彼女の顔に、今は何の表情も浮かんでいない。
彼女もまた、心優を見ていなかった。
その意識はまず、昼の空に隠れた星々に向けられた。
あの哀れなイキモノが目指し渇望した宇宙。
かつて彼女の祖先もそんな遠い宇宙に故郷を持っていたという。
けれど、そんな事は彼女にとってどうでもいい事だった。
自分達で作り出した忌々しい混血種の末裔を滅ぼさんとする、まだ見ぬ祖先についてすらもどうでもいい事だった。
そう、どうでもいい。
自分の命を吸おうとしたせいで、あの色めくものが気色の悪い緑の膿を垂らす傷んだ色になった事も。
自分を封じんとして村に残り最後の札を貼った、自分が脳天に斧を突き立てた男についても。
見知った村人達が弱り果て死んでいった事も。
その躯が人間の尊厳を奪われて弄ばれた事も。
彼女が人間の子供を気まぐれで助けた結果、起こる事となった悲劇についてすらどうでもいい事だった。
大葉茂が自分の正体に勘づいて命懸けで襲ってきた時、その喉仏を裂いて声と命を奪った事も、彼女にとってはもう終わった些事に過ぎなかった。
彼女の関心事は、ただ、人が裏切られた際に驚愕と苦悶の表情を見せる瞬間と、その絶望を想像した時に得られる高揚感だけなのだ。
それは、今、この時も。
彼女は芋虫のように転がる無様な獲物を見た。
参考:
・クトゥルフ神話作品群
・宇宙からの色 H.P.ラヴクラフト
・SIREN シリーズ
作品内参照:
・『日本でも1976年に島の住民が消えた』
→ 夜見島か夜美島か夜魅島。何れにせよ、SIRENシリーズよりフレーバーとして。
・『U-YM』『田村公雄』
→ 『電子網に潜むもの:田村公雄の手帳』参照。
・『自称名探偵』
→ 正しい意味での『クレイジーサイコレズ』。世界線は違えど立ち場はあまり変わらない、はず。
別段、男に冷たいわけではない。嫁に危険が及びかねない行為を嫌っているだけ。
・『友人にトレースさせた』
→ ヤバい『自称名探偵』のヤバい『友人』。友情出演的な。
多分コイツ単体でクトゥルフ小説作れると思われる。




