Episode0 置き去りにされた人形――エリオット
Episode0 置き去りにされた人形――エリオット
眼下には、どこまでも、果てしないほどの暗黒が広がっている。無限の墓場と称するべきか。ここは生命が何の防御もなしには、存在することすら許されない、あまりに過酷な環境であり、そしてあらゆる命と物質を生み出した原点たる海。
静寂と闇が包む空間にただ一つ浮かぶ青い惑星は、太陽の眩く熱い光を浴びて、光の輪を纏っている。モニター越しだとしても、ヘルメット越しだとしても、その景色は美しいと思えた。目には見えないが、あそこには数えきれないほどの生き物が暮らしている。それぞれが点と点であり、互いに線となって繋いがり合い、聖火のように命を灯し続けている。
聞こえてくるのは、ヘルメットの中で微かに反響する自分の呼吸音だけだった。宇宙空間は全くの無音のままで、ただ星の煌めきを放っている。
見えている星々はどれだけの時間を過ごしてきたのだろうか。人の営みなど気にする様子もなく、沈黙したままで見つめている。
コックピットの内の装置を操作して、背中の翼を展開する。翼など本来この機体の機構には含まれていない。もともとこれがなくても、この機体は大気圏を突破することが出来る。それでもこの翼を与えたのは、やはり彼らの謀略によって殺された、彼女のことを忘れられないからだ。自分の憎しみの感情がこのマシンの形まで変えてしまった。いや、むしろこれが本来あるべき姿なのか。
戦争を始めるのは簡単なことだ。力と憎悪だけがあればいい。かつての人類は争いを続けた。インテリがどれだけの平和を訴えても、地球全ての人類の意思の統一など出来なかった。故に我欲に執着する者を筆頭に、絶えず戦いは行われた。
時代が進んで叡智と力、そして人々を集約することに成功した地球は統一され、争いは尽きた。国家、国境の概念は失われ、一つの巨大な政府になった。やがて人々は長きにわたり戦争を忘れた。
――地球から離れた地で、誰かの血が流れていることも知らずに。
戦争は終わってなどいない。終わることなど初めから不可能だ。恒久的な平和など理想に過ぎない。誰かを不当に扱い、壁を作り、格差を作り、貧困を生み、躊躇いなく死者を出し、それらを厭わない我欲を持ち続ける人間が今でも存在する限り。
「こちらエリオット。各機、聞こえるか」
互いに薬莢を作る工場は絶えず稼働し続ける。殺し合った先に、どちらかが血を流して倒れる結末を迎えるまでは。
「まもなく地球への降下作戦を実行する」
沈黙を掻き消して、最後の指示を伝える、
「降下地点は予め通達したマップデータを参照だ。各施設もマップデータに載っている。俺とセレーネ1は本部を狙う。セレーネ2は格納庫を破壊だ。出来れば格納庫にある機体も破壊しておいてくれ」
了解、と後続する二機のパイロットが答える。
今回は少数精鋭だ。初めからこちらが出し切って失敗すれば、あまりにも損失が大きすぎる。それに今回の作戦は攻撃だけが目当てではない。レコンズを世界に知らしめるのが第二の目的だ。
これまでやってきた作戦のほとんどが地球圏外での作戦だった。それもあって、地球の人々の関心は低い。しかし今回の作戦が全世界で報道されれば、世論を新しい動きに導く可能性がある。まずはレコンズが脅威であるということを意識させなければならない。これはそのための第一歩だ。
同時に彼らは思い出すだろう。かつて世界を蝕んできた争いが起こり、負の感情が連鎖によって許されていた幸福が夢であったのだと。
『大気圏突入まであと十秒! 各機、突入態勢に入ってください!』
月面の本部からアナウンスが届いた。地上に到達すれば無線は届かなくなる。現場では自分たちの判断だけで行動しなければならない。
レバーを動かして突入の姿勢に入る。
「地球の人類に知らしめるぞ」
大気圏への突入を開始し、外の景色を映すモニターが真っ赤に染まり始めた。他の二機も同じく、機体が赤く輝いている。
「これまで虐げられてきた月の民の怒りを想い、存分にぶつけるんだ」
民衆を煽動する政治家のような口ぶりで指揮を執る。そんな滑稽なものに成り下がった覚えはないが、レコンズに携わる全ての人々が地球政府への憎しみを抱えているのは間違いない。自分も似たようなものだ。
地上との距離が縮まっていくにつれて、大気圏内では機体の振動が激しくなっていく。唐突にあの時の記憶が蘇る。月面で散って逝った相棒の姿、双子の天使の片割れが墜落していく時の光景、そして真っ暗なコックピットの中で死を覚悟するしかなかった自分のこと。
途端に汗が噴き出してきた。あの時に聞こえてきた最期の無線が何度も頭で再生される。思い出したくなどない。だがそれが今の時分にある原動力の全てだ。逆襲と暴露、この二つのために自分はまだこの機体に乗っている。かつて暮らした地球に牙を向けている。
覚悟ならとうに出来た。膠着していた戦いに新たな火種を加えるのは自分になるだろう。百年後の歴史で、自分の名前はどのように扱われるだろうか。英雄か、それとも逆賊か。どちらでいい。自分がただ望むのは、事実を事実として人々に伝えることだ。
だがそれは勝者だけが得られる権利。歴史を作ってきたのは常に戦いに勝利した者たちだった。だからこそ自分たちは戦争をするのだ。人々が忘れた争いを始め、存在を証明しなければならない。
力に勝つのは力だけだ。耳を傾けない民衆のためには、強大な力によって捻じ伏せさせて。世界を変えるしかない。
全てをここから始めよう。戦いの火蓋は、お前たちの知らないところで切り落とされた。