「……そうしますね。素直になれないご主人様」
◆◆◆
「ていくーんっ!」
それは、昔の話。絆という少女―――当時はまだ幼児だったが―――の、古い記憶。
「きずなちゃん、どうしたの?」
「あのね、あのね、きずなね、ていくんのおよめさんになるのー」
それは、無垢な頃の話。幸せな結婚―――その意味すら理解していなかったのだが―――を、夢見ていた。
「ていくん、だいすきっ!」
けどそれは、大切な思い出。誰にも―――彼女自身にすら―――穢すことの出来ない、宝物だった。
◇◇◇
「……呈君」
驚き、嬉しさ、感激、興奮。唐突な言葉に、絆の心には様々な感情が渦巻いていて、今にも破裂しそうだった。どうすればいいのか分からなくて、それでも何とか笑顔で、愛しい人の名前を呼ぶ。それから深呼吸。気持ちを落ち着け―――しかしそれに失敗して、それでも言葉を紡ぐ。
「……うん」
頷いて、でも足りなくて。それだけでは物足りなくて。彼女は想いを形にする。言葉という、形に。
「大好きだよ、呈君」
幸せだった。人生で一番、そう言えるくらいには。―――だから、見落としていた。それは別に、愛の告白でもなんでもない、ただの確認だったことを。
「俺はお前が大嫌いだ」
「……え?」
故に。そんな返答も、別におかしくない。だが、絆はそれを理解できない。そんな機能は最初からなかったかのように、シナプスが全て死んでしまったかのように。脳が、心臓が、自分の体が消滅してしまったかのような、そんな喪失感に支配された。
「お前は嘘吐きだ。俺のことなんか好きじゃないのに、俺を好きだと言う大嘘吐きだ。だから嫌いだ」
「え、そ、そんな……わ、私、そんなこと―――」
「お前は俺に負い目を感じているだけだ。それを好意と、恋愛感情と勘違いしているだけだ。そんな奴、正直顔も見たくない」
反射的に出てくる言葉すら封殺され、精神を完膚なきまでに叩きのめされる絆。そんな彼女を、呈は冷たい瞳で見下ろしていた。
「醜美は問わない。能力も、肩書きも、性格だって気にしない。例え体が穢れようと、心に錦があればそれでいい。……だが、お前は逆だ。どれだけ見てくれが良くても、どれだけ優秀で人が良くても、心が穢れている奴は御免だ」
「え、あ、う……」
反論の余地も、糸口も、その気力もなく。絆はただ、呈の罵倒を黙って聞くしかない。大切な想いを踏みにじられて、それでも耳を塞ぐことが出来ないでいた。
「悲劇のヒロインを気取るな。お前の幻想に付き合うほど暇じゃない。自分の気持ちすら騙す奴に纏わり疲れると迷惑だ」
「……ひ、酷い。酷いよ、呈君」
どうにか。やっとの思いで、絆はようやく、恨み言を口にすることが出来た。それだけのことに、残された気力を使い切りそうだった。
「じゃあ聞くが。今日、俺と過ごして、どう思った?」
「……え?」
しかしながら、突然そんなことを言われて、絆はまたもや思考停止に追いやられた。
「俺と一緒に過ごして、どう思った? 楽しかったか?」
「う、うん……」
問い直されて、絆はようやく返事が出来た。……しかし、呈は「だったら」と言い、こう続けた。
「それは、俺を友達としか思ってない証拠だろ。俺のことが好きなら、ドキドキして、まともに楽しめないはずだろ?」
「そ、そんなこと―――」
「長年連れ添った夫婦じゃないんだぜ? 好きな男と一緒にいて、楽しむ余裕があるなんて、俺のことをただの男友達としか見ていないからだろ。違うって言うのか?」
「わ、私は……」
呈の言葉は暴力的で、身勝手で、一方的で、絆の心を容赦なく打ち砕いていく。拳を防ぐ盾も、反撃のための矛もなく。気づけば、絆は両目に涙を浮かべていた。
「反論がないなら、俺の言ったことは正しいんだろうな。……先に戻ってる」
そんな彼女に居たたまれなくなったのか、それとも単に言いたいことを言い終えたのか、呈は立ち上がって、絆の前から立ち去った。……残されたのは、絆一人だけだった。
「……う」
彼の姿が見えなくなって。まだ辛うじて原型を留めていた彼女の心。そのダムが、今、崩壊した。
「うわぁぁぁん……!」
日が傾きだした頃。夕方の公園に、絆の泣き叫ぶ声が響き渡った。
「……契。出て来いよ」
「ご主人様……気づいていましたか」
「当たり前だろ」
公園を出たところで。呈の後ろから、契が姿を見せた。……二人をこっそり見ていたのだろうか?
「授業は?」
「もう終わりました」
「ああ、もうそんな時間か……。っていうか、授業が終わって真っ直ぐここに来たのか?」
「鹿山さんに、GPSを借りましたから」
「……あいつ、いつの間にそんなものを」
実は携帯にそういうアプリが仕込まれていたのだが、呈は気づかなかったようだな。さすがは専属エンジニア。抜け目ない。
「……ご主人様。よろしかったのですか?」
「何の話だ?」
「絆ちゃんのことです」
というわけで、本題へ。契は、呈が絆を振ったことに対して、酷く憤慨している様子だった。
「絆ちゃん、いい子ですよ?」
「そうかもな」
「可愛いし、胸も大きいですよ?」
「胸以外はお前も負けてないだろ」
「あんな言葉、私なら喜んで受けましたよ?」
「だろうな」
「お二人はとってもお似合いだったのに……どうして、ですか?」
「お前にはお似合いに見えたかもだが、普通の奴にはそうじゃないんだ」
ペットからの質問に、一つ一つ答えていく呈。それが義務だとでも言うつもりなのだろうか。
「俺と一緒にいると、あいつにも悪評が立つ。お前から今日のことを聞いて、いい加減にしないと駄目だなと思っただけだ」
「……それで、本音はどうなんですか?」
「そういう綺麗な建前の元に、厄介払いをした」
と思ったが、実際はそうでもなかったようだな。実に呈らしい。っていうか涙を返せ。一気に冷めたぞ。
「まあ、俺といないほうがいい、って部分は本心だ。ただでさえハンデがあるのに、余計な手間は掛けないほうがいいだろ。―――それより、あいつのことが心配なら、慰めて来いよ」
「……そうしますね。素直になれないご主人様」
「おい」
契の口調が気に入らなかったのか、呈は咎めるような声を出す。しかし彼女は、既に絆の元へと向かっていた。
「……ったく。お前はほんと、手の掛かる「ペット」だな」
◇
……それから暫く経って。
「おはようございます、ご主人様」
「ああ」
朝。呈と契が一緒に登校している。いつもの風景だが、一つ違うとすれば、他に誰もいない点か。絆が一緒にいないのだ。
「絆ちゃんの引越し、昨日で終わりでしたよね?」
「ああ。今日からはあっちのアパートから通うことになってる」
それもそのはず。絆は呈の家を出たのだ。彼との決別なのか、それとも別に理由があったのか。ともあれ、彼女は近所にアパートを借り、そこから通学するらしい。
「お陰で姉貴に嫌味を言われたぜ」
「大変でしたね」
誠は、絆を自分の実家に住まわせた張本人だ。目論見が外れて不機嫌なのだろう。彼女が何を狙っていたのか、大体の予想はつくが。
「あ、呈君、契ちゃん。おはよー!」
「絆ちゃん。おはよー」
「朝からテンション高いな……」
噂をすれば何とやら。絆も合流して、三人で一緒に登校することに。
「絆ちゃん、どう? 一人暮らしは」
「うーん、片付けも大体終わったし、今のところは至って普通かな。元々寮生活だったし」
「そうなんだ。じゃあ、何か困ったことがあったら遠慮なく言ってね」
「うん。っていうか今度遊びにおいでよ」
「是非そうさせてもらうね」
契と絆は楽しそうに会話している。だが、呈とは最初の挨拶だけで、後は目を合わせようともしない。……やっぱり、まだ引き摺ってるのか。
「……呈君」
「ん?」
と思ったら、突然呈に顔を向けた。そして、臆することもなく、こう言った。
「私、頑張るからね。男性恐怖症も克服して、呈君が悔しがるような、素敵な彼氏を作って見せるから」
「そうしてくれると助かる。お前なら選り取り見取りだしな」
「うん。後で泣きついても遅いんだからね」
それは、宣戦布告だった。自分を振った男に対する、ささやかな復讐だ。それと同時に、彼との完全な決別の意でもあった。……失恋からは、無事に立ち直ったようだな。それとも、そもそも呈の言うように、彼女には恋愛感情などなかったのかもしれないが。それについては想像するしかないだろう。
「あ、そういえば、今日の英語は単語テストだっけ……?」
「うん、そうだよ」
「うわー。単語覚えないと……」
気が済んだのか、絆は契との会話に戻る。……そんな彼女を、呈は感慨深そうに見つめていた。
「……」
実を言うと。絆を振ってから、呈も色々と考えさせられていたのだ。彼女に対する蟠りを、どうにかして解きほぐそうしていた。そうして無事に、自分の気持ちに折り合いをつけたのだ。
「……ちゃんと後悔させてくれよ」
「え? なんか言った?」
「なんでもない」
となれば次は、互いにとって丁度いい距離感を掴むことに努めよう。呈はそう考えながら、二人の少女と登校するのだった。




