「おはようございます、ご主人様」
◇
……翌日。学校の校門にて。
「おはようございます、ご主人様」
「……」
忠犬ハチ公の如く、校門で主を待っていた少女、契。そんな彼女に、呈は頭痛を堪える羽目になった。何故なら、契の発言に、周囲を歩く他の生徒が立ち止まってざわめきだしたからだ。
「え? 何今の」
「あの子が、あいつに……?」
「そういう関係……?」
「うわっ、マジかよ……」
登校途中だった生徒たちは、呈と契を遠巻きに眺めながら、ひそひそとそんなことを言い合っている。まあ、そうなるのも無理ないだろう。同じ学校の生徒がそういうプレイをしていたら、普通は引く。
「……とりあえず、校内ではその呼び方禁止な」
「畏まりました、マスター」
「……「益田君」にしてくれ。「君」を敬称として使う地方もあるから、それで納得してくれ」
「畏まりました、益田君」
呼び方もちゃんと設定したものの、他にも何か忘れていることがないかと、今更ながらに不安になる呈。もう遅いけど。
「……よし、それじゃあいくか。くれぐれも、変な行動は取るなよ」
「はい」
ペットとなる少女を引き連れて、呈は学校へと入っていった。
「……俺はこっちだから。言っておくが、普段通りに、な」
「はい、益田君」
廊下にて。それぞれの教室が違うので、呈と契はここで一旦別れることになる。……今のところ、契は呈の命令を遵守している。最初に絶対服従をインプットしておいて、正解だったかもしれないな。これなら後で修正が効く。まあ、元からだろうが。
「……ふぅ」
朝っぱらから疲れる事態になったものの、呈は気を取り直して、自分の教室へ入っていく。
「……」
「「……!」」
だが、教室に入った途端、空気が一気に変わった。今まで少し騒がしかったのに、突然静かになったのだ。
(……全く、ここは「相変わらず」で、安心するな)
心の中でそんな皮肉を垂れながら、呈は自分の席へ向かう。そうしてようやく、教室は再び賑やかさを取り戻した。……尤も、完全に元通り、とはいかないが。
(……こんな俺の、どこがいいんだか)
考えるのは、先程まで一緒だった少女。こんなに異常な自分の何が良かったのか、不思議でならないのだろう。まあ、相手もかなりの異常性癖者だったし、こうなるのはある意味必然だったのだろう。
この少年、益田呈は、クラスでは相当浮いている。というのも、自らクラスに馴染もうとせず、常に人を見下したような視線を周囲に向けているので、級友たちから避けられているのだ。当の本人もそれを悪いとは思っておらず、故に、必然的にこうなるわけだ。
(……次の授業は数学だったか)
そして、彼の思考は既に、最初の授業へと移っている。……人間関係に頓着しないのか、最早諦めているのか。多分後者だろう。
……その頃、契は。
「あ、犬飼さん。おはよー」
「おはよー」
朝の教室にて。契は教室の女子たちに挨拶しながら、自分の席に着いた。こちらは主と違って、級友たちとはそれなりに良好な関係を築いている模様。
「おはよ、犬飼さん」
「あ、瀬川さん。おはよー」
そんな彼女の席に、一人の女子生徒―――クラスメイトの瀬川が近づいてきた。そして瀬川は―――少々躊躇いがちに、こんなことを口にした。
「あのさ、犬飼さん……今朝、校門で何かあったの?」
「え?」
「いや、ね。……ちょっと小耳に挟んだんだけど、A組の益田と付き合ってるって、本当なの?」
瀬川が言っているのは、今朝の校門で起こった「ご主人様発言」のことだろう。つい先程のことなのに、もうここまで噂になっているのか。
「ううん。付き合ってなんかないよ」
「あ、そうなんだ。……じゃあ、もしかして、脅されてる、とか?」
しかし、契の意外にあっさりとした返答に、瀬川は別の可能性を確かめることにした様子。付き合っているわけでもないのに、同級生を「ご主人様」呼ばわりするなど、脅迫くらいしか考えられないのだろう。……うん、普通はそうだな。
「ううん。脅迫なんてとんでもない」
「え……じゃ、じゃあ、あの噂はなんだったの?」
「噂?」
そこで瀬川は、噂の内容について―――契が校門で、呈を「ご主人様」と呼んでいたことを話した。
「ああ、そのこと。あの後、益田君には叱られちゃったよ」
「叱られた?」
「うん。「学校ではご主人様と呼ぶな」って」
「え」
何気ないその言葉に、瀬川はフリーズした。ついでに、話を盗み聞きしていた他の生徒も。
「あのときの益田君、まるで落ち零れた留年生を見下す嫌われ者の教師みたいな冷たい目で見てくださって……思わず、変な声が出ちゃいそうだった」
「ヘ、ヘエ、ソウナンダ」
「ならばと「マスター」とお呼びしたときは、何度躾けても言うことを聞かない駄犬の飼い主のような視線を下さって……あぁ、もう、思い出しただけでぞくぞくしちゃう」
主の命令を思い返しながら、契は一人、熱っぽい表情で呟いていた。何も知らない人が見れば、想い人のことを考えている恋する乙女に見えたかもしれないが、現実はそう甘くない。
「はぁ……早く放課後にならないかな? そうしたら、また「ご主人様」ってお呼びして、冷たく蔑んで頂けるのに」
もう彼女の前に瀬川はいなかったが、契がそれに気づくことはなかった。
◇
……昼休み。
「……ふぅ」
午前の授業が終わり、呈は疲れた様子で廊下に出た。今日の授業は移動教室や体育が重なって、肉体的にも精神的にもかなりの疲労が溜まっているのだ。
「益田君」
「……お前か」
教室を出たばかりのところで、呈の前に女子生徒―――契が姿を現した。休み時間は会う暇がなかったので、再会が今になったのだろう。
「お昼はどうされるんですか?」
「適当に」
ペットとなった少女に尋ねられ、呈は面倒臭そうに答えた。実際、呈は弁当を持参していない。昼食は大抵学食か、購買のパンで済ませているのだ。
「実はこのようなものを作ってきたのですが……」
すると契は、待ってましたとばかりに、何かの入れ物―――弁当箱を取り出した。
「未熟な腕で作って物ですから、あまり出来は良くないと思いますが……宜しければ、是非召し上がって下さい」
「……貰っておく」
ペットから差し出された昼食を、呈は迷いながらも貰っておくことにした。こういう事態を想定していたからこそ「奉仕は不要」と言ったのだが、彼女の中では奉仕に当たらないらしい。用意してしまったものは仕方がないし、食べ物を粗末にする訳にもいかないと、彼は受け取ることにしたのだ。……無論、不味ければ、二度と作らせないようにするつもりだが。
「それと、昼食に打ってつけの場所があるのですが」
「……はぁ」
口調は畏まっているのに、やたらと自己主張の激しいペットだ。そう思いながら、呈は半ば諦めたように溜息を漏らす。