1.First Night
【scent】
1 におい;(特に)好ましい香り,芳香
2 動物・人などが通った後に残す)遺臭,臭跡;((比喩))手がかり
3 嗅覚;勘,直覚
eプログレッシブ英和中辞典より
夜の病院の静謐とした空気が好きだ。
通常の人間では為し得ないような身軽な動きで、僕は廊下を走りまわる。“走る”という表現が正しいかどうかは分からない。なぜなら僕は軽く足を浮き立たせるだけで、次の瞬間には廊下の角へと移動できるのだから。当然、物音は殆どと言っていいほど立たない。誰も僕が夜の病院内を散歩していることなんて気づいていないだろう。
病室ではたくさんの患者が眠っている。素直に電気を消して、医者の言葉を信じて。
それはそれで良いのだろう。信じる者は救われるのだ。もし途中で死んだとしても、『努力が及ばなかった』だけの事。医者達が裏で何をしているのかなんて、知らない方が幸せだ。
耳に足音が届いて、僕は動きを止めた。宿直の看護師が巡回を始めたらしい。息をひそめて暗がりに立たずみ息を潜める。気配を消すのは得意中の得意だ。これで僕には気づかないだろう。
「そこにいるのは誰?」
意外な言葉に僕は驚いて目を見開いた。その声は看護師のものではない。僕が身を寄せている扉の中からだ。
でも、僕に言われたわけではないだろう。普通の人間に僕の気配を感じ取れるわけがない。
「誰か居るのでしょう? そこに」
けれども声の主は明らかに僕の事を呼んでいた。しかも声は弱々しい。人間の何倍もの聴力のある僕だからこそ聞き取れた程度のものだ。
このまま無視することも出来たが、僕はその声に興味を抱き、はじかれたようにその部屋へと飛び込んだ。
室内は暗く、足元の誘導灯のみが点灯していた。薄手のカーテンからうっすら差し込む月光のお陰で、部屋全体の形は認識できる。病院にありがちな狭い箱型の無機質な作りだ。花さえ飾られていないので一層殺風景に思えた。
僕は夜目も利く方なので、すぐに部屋の暗さにも慣れ声の主を捜す。
ベッドの上で横になりながらこちらを見つめるのは十歳前後と思われる少女だ。金髪に青い目。痩せすぎが気にはなるが、美しいと言える容姿。けれども目の焦点は合わず、どこか見当違いの方を見つめていた。目が悪いのだろうということはなんとなく分かった。
しかし驚いたことに、彼女は僕の存在をちゃんと探し当てていた。
「あなたはだあれ? ねぇ、もっとこっちへ来て」
「君は僕の気配が分かるの?」
「男の人なのね? ずっと気になっていたのよ、この匂い」
匂い?
なにか臭うか? と自分自身を嗅いで見るが特におかしな匂いはしない。
彼女はそんな僕にはお構いなしに続けた。
「昼間ふいに香るのよ? あれは残り香なのかしら。ねぇ、近くに来て。かがせて?」
彼女は僕を探しているのか、あらぬ方向へと手を伸ばした。うつろな瞳は全く焦点があっていない。
「ねぇ、お願い。もっと近くに来て」
僕が近づくにつれ、彼女は鼻をヒクヒクと動かし匂いをとらえる。そして近くまでよると正確に僕の場所を把握し、腕を震わせながら持ち上げ服の裾を掴んだ。
おもむろに服に顔を押し当てて満足そうににこりと笑う。
「うん。この匂い」
「変な子だね」
「そう? うふふ」
彼女が手を離しそうになかったので、空いている手で椅子を寄せてベッド脇に座る。すると僕が逃げる気がないことを察知したのか彼女は手を離した。
近くでマジマジと見ると、少女はもう少し大人にも見えた。幼さは残っているけれども子供とまでは言いきれないような中途半端な顔つきだ。
僕はさらに興味が出てきて、彼女の顔を覗きこんだ。
「君は目が見えないんだね?」
「ええ、そうよ。でも私、鼻が凄く利くのよ。だって、色んな人の匂いをかぎ分けられるんだもの。看護師さんの匂いと違うのに、いつもあるあなたの匂いがずっと気になってたの。昼間のは残り香だったのね。今はもっと凄い匂い」
「匂い……ねぇ」
昼間まで残る香りだとしたら相当だ。それが本当だとしたら、僕はとっくの昔に医師や看護師に夜の行動を問い詰められているだろう。もしくは、何か彼女にしか分からない匂いがあるのか?
「ね。どうしてあなたはこんな夜中に歩きまわっているの? 看護師さんに怒られないの? 名前は? 歳はいくつ? いつからここにいるの? ……あ、私はジェシカっていうの」
矢次早に質問を投げかけた彼女は、最後に思い出したように自分の名前を付け加える。その微笑ましさに、僕の頬が自然に緩んだ。
「疑問ばっかりだね、ジェシカ。そうだな、一つだけ教えてあげよう。僕の名前はスリープだよ」
「スリープ(眠り)? 面白い名前ね。眠りの精みたい」
「そう。良い眠りにつけますようにって意味だよ」
もちろん本当の名前ではないが、昔の名前ももう忘れてしまった。僕は変わってしまった運命を受け入れる決意とともに自らにこの名前をつけた。
話しながら彼女の額を撫でると、彼女は大きな口を開けて欠伸を一つした。
「スリープは本当に眠りの精なのかしら。あなたに触られたら眠たくなってきた」
「はは。夜中だもの。ゆっくりお休み」
「ねぇ、明日も来る?」
「……夜ならね?」
「じゃあ昼間一杯寝て、夜待ってるわ」
まるで子犬が懐いたようだ。あからさまな好意を向けられることはひどく久しぶりな気がして、嬉しいというよりは戸惑いの感情が沸き立つ。
「面白い子だね。普通は怖がるものだよ。夜に徘徊する不審者なんて」
「でもあなた怖くないもの。お話しする声も優しい」
それだけで人を信用できるのだとしたら、この子はなんて幸せな人生を歩んできたのだろう。
「そう? じゃあ今日は特別にもう一つ教えてあげよう。僕はね五年前からここにいるんだよ」
「あら、自慢? 残念ね、私の方が長いわ。私はずーっとここにいるの。院長先生のお話だと、クリスマスの日に病院の前に生まれたんだって。だから私は神様の子だよって、そう言うのよ?」
「え?」
驚いた。それではこの子は、捨てられた子供だということだ。
「神様の子ねぇ」
「そうよ。凄いでしょう」
興奮して話す少女を見ていると憐憫の感情が沸いてくる。
君を産み落とした神様は、どうして君から視力を奪ったんだい?
ずっと病院から出られないような弱い体を君に与えたのは、一体誰だって言うんだい。
意地悪な問いかけを思いついたが、口には出せなかった。彼女が本当に幸せそうに笑ったからだ。
「私、この部屋から出られないから。だからあなたをずっと見つけられなかったの。でも匂いだけはずっと感じていたのよ? スリープ」
「そうか。凄いね。その鼻は、目の代わりに君に与えられた特別な能力なんだね」
「特別……そうね! 私だけの特別ね?」
彼女はその思いつきが気に入ったようだ。特別、特別と何度か口の中で繰り返した後満足気に笑う。
この子は余程のお人よしなのか天然のバカなのか。まあどちらでも僕には関係がないか。どうせ、この子とはもう会うこともないだろう。
「じゃあね、お休み」
「あ、もう行っちゃうの?」
一瞬の動作でドアの近くまで行く。するとジェシカは僕の居場所がわからなくなったようで手で辺りを探った。
「スリープ、もう行っちゃったの?」
困惑したような声が可哀想で、僕は小さな声で返事をする。
「Good sleep (良い眠りを)」
可愛らしいお嬢さん。
明日になったらきっと、今日見たものは夢だったんだと思うだろう。