身中の蟲
諜報部での修練は想像以上に時間がかかった。
頭脳戦や、戦術を用いた仮想戦闘ならギルベールに勝るものはいなかったが、実践となるととたんに桁違いの力を発揮するものもいたのだ。
そんななかで揉まれ、鍛えられ、しぐさを帝国風から王国風に矯正していく作業は数年を要した。
気づけば学園を卒業してから5年の月日が経っていた。
22歳になったギルベールは、目の虹彩に現れた印を隠すために眼鏡をかけて帝国の裏通りを歩いていた。
5年かけてもぎとった休暇は、妹のアニエスの消息を知るために情報屋へ向かうことに使った。
一見雑貨屋に見える店内の奥から、大柄な女性が出てくる。
「いらっしゃい。何かお探しで?」
「ええ、カトレアの花を探しています」
間髪入れず答えたギルベールに、女性の探るような視線が向けられた。
ギルベールは意に介さず、にこやかに笑った。
「こっちで咲いてるよ。奥へどうぞ」
「ありがとうございます」
実際カトレアの花なんて存在しない。
これは店の奥にある情報屋専用の部屋へ案内してもらうための、合言葉なのだ。
奥の部屋につくと、白髪の初老の男が片眼鏡をかけて机にもたれるように椅子に座っていた。
ギルベールがすでに開いていた扉ではあるが、礼儀としてノックするとまどろみから覚めたようなうつろな目を向けられた。
「坊主・・・何が知りたい」
にごった目に似合わぬ覇気のある声だった。
ギルベールは知らず唾を飲みこみ、雰囲気に飲みこまれないように深呼吸した。
「アニエス=ド=メンデルの行方を」
老人は机の引き出しから数枚の紙を取り出して、眺めた後ギルベールを見やった。
「軽く身辺がわかる程度の情報なら、銀貨30枚。もっと詳しく知りたいなら金貨3枚。今とりまいてる状況も込みで知りたいなら金貨10枚だ」
庶民の一家が一年暮らすのに、贅沢をしなければ銀貨10枚あれば事足りる。
情報料が法外なのは情報屋の常だが、それにしてもここまで高いのはおかしい。
ギルベールはしばらく考えたが、どうせ組織にいても使い道のない金だと、金貨10枚差し出した。
「彼女の今をすべて知りたいのです」
「いいだろう。この羊皮紙に書いてある。読んだら燃やせよ、坊主」
「わかりました」
老人の真向かいに設置された椅子に座り、羊皮紙の中身に目を通していく。
【アニエス=ド=メンデル】15歳 女
メンデル領没収後、奴隷として戦争の前線へ派遣される。
その後2年で解放され、もとメンデル家の家宰の屋敷にかくまわれている様子。
現在は奴隷時の後遺症からか、胎児逆行が目立つ。
「・・・・・・」
甘やかされて育った妹が、戦の前線で奴隷としてどう扱われたのか想像にかたくない。
よくて性奴隷。
悪ければ兵士の逸った血を鎮めるために、拷問まがいの行為が行われることもあるという。
生きていただけ僥倖と取るべきかもしれない。
ギルベールは震える手で壁に掲げられたロウソクから羊皮紙の端に火をともした。
じりじりと皮の焼ける嫌な匂いがするが、それよりもアニエスに会って慰めたい気持ちが勝って気にならなかった。
組織の内部にある訓練場に戻ると、上官のひとりから移動命令を受けた。
上官の名前は知らないが、見覚えのある顔と右頬に浮かぶ印から諜報部の同僚で間違いないだろう。
諜報部に入り込んだ間者が、別の指示を出しているという危険性は消えた。
ギルベールは自然と敵と味方を区別している己を自覚して苦い思いを抱いた。
そして命令には絶対に従わなければならないということも、修行と称した体罰からの怪我や、精神的な追い詰められ方で嫌というほど身に染みていた。
アニエスは家宰の屋敷で平穏に暮らしている。
それなら素早く任務をこなして、すぐに会いに行けば問題ないだろう。
ギルベールはそう考え、上官に是と答えた。
「それで移動場所はどこでしょうか?」
上官は何枚か持っている紙束から、一枚抜き出してギルベールに差し出した。
そこにはクレセント王国王弟、クレセント公爵家とだけ書かれている。
上官は他の紙にも目を通しながら、ギルベールに言った。
「ひとまずその王弟殿下の屋敷に潜り込んでおけ。ほかに王国内に入っている同胞から連絡が来るから、そのつど対応していくように」
ギルベールの役目は、どうやら王国内部で諜報活動を行っている同僚の支援のようだった。
「では、組織の代筆屋をお借りしてもよろしいでしょうか?」
「あぁ?・・・ま、いいだろ。好きにしろよ。準備して3日後には出ろ」
「はい、わかりました」
戦争でどこの貴族も警戒心が高くなっている現状で、内部に潜入するにはそれなりの信頼できる伝手が必要だ。
だが、ギルベールにはクレセント王国内部に伝手などない。
そこで公爵が信頼し、なおかつ簡単には身元がわれないような御仁の名前を拝借して、その筆跡そのままの紹介状を手に入れるのだ。
筆跡を真似するのは組織の専門家なので、同じ代筆屋に鑑定されてもそうそうばれることはないだろう。
3日後にはギルベールは帝国を出て、1週間後にはクレセント王国内に入り込んでいた。
そして手際よく紹介状と対話術で、公爵に近しい人間に接触していく。
最初から本人ではなく、周りの人間から固めていく方が疑われにくい。
さらに3か月がすぎたころ、ギルベールは公爵の次男の前に立っていた。
「初めまして、キール様。お会いできて光栄です。今日からあなたの家庭教師を務めるギルベールと申します」
10歳の子どもは愛らしい顔を不思議そうにして、ギルベールを見上げた。
「かていきょうし?べんきょうなら、あにうえがやっている」
次期当主のジークリンデはすでに公爵の右腕として、辣腕をふるっていた。
対して次男のキールは勉学よりも、剣を振っている時間の方が長い子どもだと事前情報にはあった。
「キール様がもっと大きくなられたとき、ジークリンデ様の助けとなれるよう勉強するのですよ」
「あにうえの?」
「そうです。剣の稽古と勉強を交互にしていきましょう。いきなりすべての時間を勉強にまわすのは辛いものがありますからね」
キールは「あにうえの・・・おやくに・・・」とぼんやり独り言をいったあと、こくりとうなずいた。
「よろしくたのむ、ぎるべーる」
「はい、キール様」
この日から3年間、彼らは常にともに生活した。