砂の聖域、命の共鳴
辺境の村は、砂の海に沈む難破船のようだった。土壁の家々は暴風に削られ、村人たちは絶望の淵にいた。ザディードとサラがラクダから降り立った瞬間、一人の老婆が縋り付いてきた。
「殿下……神よ、アル・サフィールの獅子が来られた!」
二人が案内されたのは、薄暗い集会所だった。そこには、高熱にうなされ、呼吸を喘がせる十数人の子供たちが横たわっていた。ザディードの目が瞬時に「外科医」のものへと切り替わる。
「集団食中毒ではない。これは毒蛇の変種……あるいは稀な土壌感染症だ。喉の腫れが気道を塞いでいる。今すぐ切開して気道を確保しなければ、この子たちは死ぬ」
だが、そこは病院ではない。無影灯もなければ、滅菌されたオペ室もない。あるのは、サラが背負ってきた最低限の応急キットと、ザディードが腰に差していた愛用のメスだけだった。
「ザディード、照明を!」
サラは、村人に命じてかき集めさせた古びたオイルランプと、スマートフォンのライトを組み合わせ、不安定な光の束を患部に集中させた。
「無謀だ、こんな場所で……」
と呟く村人を、サラの鋭い声が射抜く。
「黙って。世界最高の外科医がここにいるのよ。私たちは、彼を信じるだけ」
ザディードが、サラを見た。一瞬、視線が交差する。恐怖はない。あるのは、託された命への責任と、隣に立つパートナーへの絶対的な信頼。
「……始めるぞ」
手術が始まった。唸りを上げる砂嵐の音が、建物の隙間から不気味に響く。しかし、ザディードの手元は驚くほど静止していた。オイルランプの揺れる炎の下、彼のメスが迷いなく動く。それは、ラシードが言った「システム」では決して到達できない、経験と勘、そして執念が導き出した神の軌跡だった。
サラは、彼の思考を先回りするように動いた。言葉を交わす必要すらなかった。彼が血を拭いたい瞬間にガーゼを差し出し、次の器具を求める瞬間にそれを掌に押し込む。二人の呼吸は、まるで一つの生き物のようにシンクロしていた。
「……吸引」
「はい」
砂塵が舞い込む過酷な環境。汗が目に入る。それでもサラは瞬き一つせず、ザディードの指先を見守り続けた。
どれほどの時間が経っただろうか。不意に、少年の喉から「……ヒュー」という、小さくも力強い呼吸音が漏れた。
「……通った」
ザディードが短く呟き、メスを置いた。その瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、集会所に安堵の溜息が広がる。次々と子供たちの処置を終え、最後の一人の縫合を終えた時、外の嵐は嘘のように凪いでいた。
夜明けの光が、砂の隙間から差し込む。ザディードは血と泥に汚れた白衣を脱ぎ捨て、疲労困憊の体で壁に背を預けた。その傍らに、同じく汚れきったサラが座り込む。
「……ウェントワース。いや、サラ」
彼は、初めて彼女を名前で呼んだ。ザディードは、震える自分の手を見つめた。これまで数千のオペをこなしてきた手だ。だが、この嵐の中でサラに支えられ、繋ぎ止めたこの命の重みは、これまでのどれよりも彼を震えさせていた。
「君がいなければ、私は傲慢さゆえに、この命を砂に還していただろう。私の技術は、君の献身があって初めて、完成された」
ザディードは、ゆっくりとサラの指先を取った。 かつて病院の診察室で、苛立ちと共に触れ合ったあの時の掌は、火傷しそうなほど硬く、他人を寄せ付けない拒絶の熱を帯びていた。 ――だが、今は違う。 砂嵐を共に越え、一つの命を繋ぎ止めた二人の間にあるのは、互いの魂を温め合うような、穏やかで切実な熱だった。
ザディードは、自分を信じ抜き、嵐を共にしたこの女性の瞳に、長年凍てついていた自らの魂が、静かに、そして劇的に溶かされていくのを感じていた。
「お前は……私の乾いた心に降った、唯一の恵みの雨だ」
朝焼けに染まる砂漠。ザディードの琥珀色の瞳には、救い上げた命の光と、目の前の女性への、隠しようのない愛しさが宿っていた。




