神の溜息、砂の盾
それは、地鳴りのような響きから始まった。
午後三時。アル・サフィールの街を、見たこともないような黄土色の壁が飲み込んでいった。猛烈な砂嵐「シャマール」だ。空は一瞬にして漆黒に染まり、窓ガラスは飛来する砂礫によって悲鳴を上げている。視界は数メートル先すら見えず、世界は咆哮を上げる砂の渦に支配された。
病院の緊急指令室には、怒号と悲鳴が飛び交っていた。
「辺境のベドウィンの村から緊急入電!謎の集団食中毒か感染症か……子供たちが次々に倒れている。重症者多数、至急医師を!」
通信士の叫び声に、ザディードがいち早く反応した。
「救急ヘリを出せ!私が行く」
しかし、モニターを睨んでいたラシードが冷酷にそれを遮った。
「無理だ。風速が制限値を大幅に超えている。今飛び立てば、砂の粒子がエンジンに吸い込まれ、一分と持たずに墜落するぞ。最新の全地形対応車も同じだ。この視界では一歩も進めない」
「子供たちを見捨てろというのか!」
ザディードの咆哮が響く。だが、ラシードは肩をすくめ、手元のタブレットに表示された気象データを指し示した。
「これは統計の問題だ、ザディード。数人の子供のために、高価な機材と優秀なパイロットを失うリスクは冒せない。自然の猛威の前では、我々の近代医療はあまりに無力だ。ここは、諦めるのが理性的というものだよ」
ラシードの言葉は、完璧に「正しい」論理だった。しかし、その正しさがサラの胸を刺した。サラは、ザディードの横顔を見た。彼は拳を血が滲むほど固く握りしめ、嵐に閉ざされた窓を見つめている。その瞳には、ラシードへの怒り以上に、無力な自分に対する激しい呪詛と、それでも命を諦めきれない執念が宿っていた。
(この人は、あきらめていない……)
周囲のスタッフたちが「仕方ない」という空気で沈黙し、ラシードが賢明な判断を下した勝利者のように振る舞う中、サラはザディードの隣へと一歩踏み出した。
「……殿下。文明が動かないなら、この国の『命の繋ぎ方』があるはずです」
ザディードが驚いたようにサラを見た。イギリスから来たばかりの小娘が、何を言い出すのか。そんな侮蔑を投げつけようとした彼の唇が、サラの揺るぎない眼差しを見て止まる。
「ラシード先生の言う通り、機械は砂に負けるかもしれません。でも、この過酷な大地で何千年も生き抜いてきた者たちが、嵐の日にどう動くのか。あなたは知っているはずです」
ザディードの琥珀色の瞳に、小さな火が灯った。彼は深く、長く息を吐き出す。それは絶望を吐き出し、古い王の魂を呼び覚ます儀式のようだった。
「……ラシード。貴様の言う『システム』とやらは、砂一粒で壊れる玩具に過ぎなかったようだな」
ザディードは翻り、側近の兵士に向かって、病院内には不釣り合いな、しかし重みのある命令を下した。
「厩舎へ連絡しろ。王家直系のラクダを二頭、裏口へ回せ。砂を厭わず、嵐の匂いを知る最強の個体を選べ!」
指令室に衝撃が走る。ラシードが顔色を変えて詰め寄った。
「狂ったかザディード!ラクダだと?この嵐の中、そんな野蛮な手段で……!」
「野蛮ではない。これは、この国の矜持だ」
ザディードは白衣を脱ぎ捨て、棚から砂よけの長いシュマグ(スカーフ)を掴み取った。そして、部屋を出ようとする彼の背中に、サラの声が追いすがる。
「私も行きます!薬剤と応急キットの準備はできています!」
ザディードは足を止めなかった。しかし、扉を抜ける寸前、風の音に混じって彼の低い声が届いた。
「……死ぬぞ、ウェントワース」
「死なせません。あなたも、子供たちも」
二人は、地獄のような砂の海へと駆け出していった。




