砂上の虚飾と真実の掌
アル・サフィールでの生活は、サラにとって磨り減るような戦いだった。ザディードが宣告した「一週間」はとうに過ぎていたが、彼はサラを空気のように無視し続けた。しかし、サラは怯まなかった。言葉が通じない現地の患者たちには微笑みと丁寧な処置で応え、砂塵で汚れる床を自ら磨いた。
「……サラ、そんなに危うい男なの?すぐに帰ってきて」
電話の向こうで心配するアリスに、サラは窓の外の砂漠を見つめながら答えた。
「いいえ、アリス。会わせてあげたいくらいだわ。あの方の瞳はね、ただ冷たいんじゃないの。まるで何かを守るために、自らを凍らせて武装している……そんな風に見えるのよ」
翌日、病院に緊張が走った。廊下を歩く軍靴の音。白衣を纏いながらも、その下には仕立ての良いイタリア製のスーツを覗かせた男が、数人の取り巻きを引き連れて現れた。ドクター・ラシード。ザディードの幼馴染であり、現在は隣国の巨大医療財団の顧問を務める男だ。彼はザディードとは対照的に、柔和な笑みを浮かべてサラに近づいた。
「おや、あなたが噂のイギリス産『砂漠の薔薇』ですか。実に可憐だ」
ラシードはサラの手を取り、恭しく唇を寄せようとした。その瞬間、背後から氷のような声が響く。
「私の病院で無駄口を叩くな、ラシード」
ザディードだった。ラシードは肩をすくめ、優雅な動作でザディードに向き直る。
「相変わらずだな、我が友よ。王族でありながら、こんな砂埃の舞う辺境の病院で、自らメスを握り、泥臭い治療に明け暮れる。……滑稽だとは思わないか?」
ラシードは、ザディードの白衣に付着した僅かな返り血を指先で示した。
「医療とはシステムだ。最新のドローン、AIによる診断、そして効率的な管理。王族が執刀医として血にまみれる必要などない。君がその古臭い『人道主義』を捨てて私の財団と組めば、この国に真の近代医療をもたらしてやれるというのに」
「機械に命は救えん。救うのは意志だ」
ザディードの言葉を、ラシードは鼻で笑った。
「意志、か。君が守ろうとしているその意志とやらが、いつまで砂漠の過酷さに耐えられるか見ものだ。……ああ、忘れていた。ザディード、その看護師を無駄死にさせるなよ。彼女の履歴書と今の身のこなしを見たが、ここには惜しい逸材だ。砂に埋もれさせるには忍びない。……サラ、君がこの国に絶望した時は、いつでも私の財団に来るといい。君のような『本物のプロ』には、それに相応しい、世界最高峰のステージを用意しよう」
ラシードは去り際、サラにウインクをして見せた。その瞳は笑っていたが、底には計算高い冷徹な知性が光っていた。ザディードが「静かな情熱」なら、ラシードは「洗練された野心」そのものだった。
嵐のような訪問者が去った後、診察室には重苦しい沈黙が流れた。
ザディードは処置台をきつく握りしめ、微かに震えていた。その背中は、一国の主としての威厳よりも、重圧に押し潰されそうな一人の男の孤独を象徴していた。サラはたまらず、一歩前へ出た。
「……殿下。あの方の言葉を気にされる必要はありません」
その声に、ザディードが鋭く振り返る。彼の瞳は、先ほどまでの冷徹さを通り越し、焦燥に近い熱を帯びていた。
「……誰が話しかけていいと言った。余計な口を挟まず、自分の仕事に戻れ」
「いいえ。あなたは、患者の目を見て話します。ラシード先生は、患者をデータとしてしか見ていなかった。私は、あなたの医療を信じています」
ザディードが苛立ちを露わにして、彼女を追い払おうと腕を振るった拍子に、棚から器具が滑り落ちそうになった。反射的に二人の手が重なる。
サラの心臓が跳ねた。重なった彼の掌は、驚くほど熱かった。
「……離せ、ウェントワース」
彼は低い声で命じたが、その手はすぐには動かなかった。
「その『無根拠な信頼』が、この砂漠でどれほど無力か……いずれ思い知ることになるぞ」




