恐怖、少女人形の部屋
ストレリチアは今晩の宿となる屋敷に着いてからしきりに袖口をハイデンの肩や腕にこすりつけていた。
この屋敷は以前伯爵夫人から逃げた時に、廃屋を買い上げて誰もすんでいないような外観を利用して潜伏していた時のものだ。今では内装、外装を含めて奇麗に直して使っている。
「さっきっから何してんの?」
彼女が半べそで自分の袖口を指さしてか細い声で言った。
「あいつ、ここさわった」
再び再びハイデンの上着のそこら中に袖口をこすり付けて来た。
「もうこのドレス着れない・・・・・・」
「そんなに!?」
ストレリチア曰く、以前連合内の別の商会と密に取引をしていたころ、ギデオン・ケイドがそこの筆頭書記だったという。
「あの者は子爵家のボンクラ息子で、社会を知るため家から半ば追い出されてその商会に押し付けられたような男だ。変に身分も肩書きもあるから無下にもできなかったのだが」
「何かずいぶんご執心だったな~、愛されてるじゃん」
言い始めた途中で怒られると思ったが、見るとストレイチアはずぶ濡れになった猫のような顔をしていた。
「あんまり煩いので、一度だけ食事の誘いを承諾したのだ。店を借り切って、商会の他の者も来るというはなしであったし」
ストレリチアがまた袖口をこすり付けて来ようとする。ハイデンが彼女の二の腕をつかむと謎の押し合いが始まる。
「あー、それはダメなやつですわ。勘違いして相手がもっと好きになっちゃうやつですわー」
「じゃあ、どうすれば良かったのだ!」
「あー、どうにもならないやつですわー」
ストレリチアがその小さな手を拳に固める。ハイデンが防御に上げた両手のひらを猫のような拳の動きで避けて殴ろうとしてくる。
「わかった、わかったから。ドレスを何着か買ってやるから」
「ほんとうだな?」
その小さな子供が縋り付くような言い方にハイデンは自分の胸が痛むのを感じた。この世界はまだ人権という考えがはっきりしていない。彼女のような存在には生きにくい世の中だろうと。
その二人の会話に珍しくイチサダが割って入った。
「だが、その前にあの男をどうにかしないといけないな。あれはしつこいタイプだ」
ハイデンに否はなかった。
「それはそう」
予備動作もなく、すくりと立ち上がるイチサダをハイデンは慌て止めた。
「ちょ、イチサダ、ステイ!」
イチサダはハイデンに目を向けたままフィルムを巻き戻したように座り直す。
「ここは都市の中だ。相手が邪魔だからといって敵対者として対峙することはできない。日本でも気に入らないからといって相手を殴りに行くわけにはいかないだろう?」
ハイデンの言葉に、イチサダは一度何か言いかけて口を閉じ、改めて口を開いた。
「そうだな」
「文明世界では、文明世界なりのやり方がある。典型的なのは、相手に対して反対投票を投じることだ」
気になる点は、商会長のマリウス・ベックの所在がわからないことだ。そしてにもかかわらず、騒ぎにもなっていない。問題解決のため何に対してどこに「投票」するのか。そのあたりの見当は既についていた。
「まあ、見ていろ。」
ハイデンはドレスの袖をこすり付けられながら、自信に満ちた顔で言った。社会には手続きというものがある。だが、相手が絡めてで来るならこちらも正々堂々とものごとを運ぶ必要はないとも思っていた。
***
彼は式部官を名乗ったヴォラーニという男の後ろ歩いていた。ランピヨン商会の中だ。数歩離れて付いていっても認識されることはない。
これぞ秘技、バッド・チューニング。
五感をはじめ、人間の認識能力と自らの存在のチューニングをずらすことにより完璧な隠密を実現する、恐らくこの世界の理の外の存在しかこれを見破ることはできないだろう。
しばらくヴォラーニについて回り、大体どこに何があるか分かった。あとは入れていない大事そうな場所を当たるのが妥当だろう。とりあえず行ってない場所の第一候補は副商会長殿の執務室と商会長の執務室だが、恐らく昨日通された部屋が商会長の執務室だろう。
ハイデンはギデオンの執務室だろうと見当をつけたドアに耳を当て、しばらく音が無いことを確かめた後にそのドアを素早く開けて中に滑り込んだ。ちなみにドアノブをひねると自動的に鍵が開く能力は良い物が思いつかないのでまだ名前をつけていなかった。
「ぉぉぃ・・・・・・」
思わず大声が出そうになるのを変な声でこらえた。
室内には赤い髪に緑色の瞳をした少女の人形が一ダースほど、様々な色のドレスを身に纏って部屋の左右のソファに行儀よく並べられて座っていた。
奥の壁には明らかにストレリチアを描いた巨大な肖像画が飾ってある。ハイデンはこの部屋に入らなければいけない部下などを気の毒に思うのと同時に、意外とギデオンが本気で彼女を好きなのだと変な関心をした。
ふと最初に式部官のヴォラーニが案内の時にこちらを気にしていたことを思い出した。あれはきっとこの部屋の人形と肖像画にそっくりなストレリチアを見て二度見したのだろう。
肖像画の手前のデスクに近づいて机上の書類に目を通す。かなり以前の書類だ。一通り見たがめぼしいものはない。
引き出しを順番に開けていくが、目を引くものはない。それにしても肖像画の圧が凄い。ソファに脚を上げて横向きにくつろぐポーズで、壁のほとんどを覆っていた。実物の五倍くらいの大きさに描かれている。
ふと気になり、肖像画の額縁に触れる。一か所だけ、丁度手のひらくらいの範囲で色が褪せている。
手を触れた裏側の近い所にトリガーのようなスイッチがあり、それを押すとわずかにカラカラと音がして肖像画が一メートルほど上にスライドする。そこには茶室の入口ほどの大きさのドアが設けられていた。
取っ手の無いドアを押すと滑らかに奥側に音もなく開く。ハイデンは素早くくぐり抜けてドアを閉めた。その小さなドア越しに、わずかにカラカラと肖像画が降りる音が聞こえる。おそらくこちら側からは、このドア自体がスイッチなのだろう。
中は立ち上がれる高さの通路になっていて奥に普通のドアがある。下の隙間から明かりが漏れてこの短い廊下全体をほんのりと照らしていた。
ドアノブをつかみ、向こう側に人がいても気づかない程度に時間をかけてゆっくりと回す。やはり時間をかけて細い隙間を開けてそこをのぞき込んだ。
ひどくがらんとした部屋になっている。四方の壁から離れた中央に置いてあるベッドに壮年の男性が両手で頭を抱えてうなだれていた。足には枷がはめられていて、ベッドの足に繋がれている。
「ベック会長。こんな所で奇遇ですね」
ハイデンはドアを開きながら壮年の男に声をかけた。男は顔を上げると深刻な表情を驚きのそれに変えた。
「グリーンウッド君か?」
「お休みだった所恐縮ですが、会長のお力をお借りしたく探しておりました」
男は疲れたような苦笑いを見せて言った。
「君は相変わらず独特なユーモアを持ってるな」
「マスター・ベックもお元気そうでなによりです」
マリウス・ベックはかつての弟子を、出来の悪い息子にのいたずらに片目をつぶるような態度で眉を上げて見せた。
「ああ、ゆっくり骨休めが出来て良かった。この散らかりようを別にしても、君が来たからにはきっとこれから嫌になるほど忙しくなるのだろうからな」
二人は目を合わせたまま共犯者めいた笑みを浮かべていた。
実際執筆している時間は大したことないと思うんですが、さほど文字数も多くないのにその日の内容を一日中考えてます。慣れたらもっと短い時間でかけるんでしょうか。




