目には目を、陰謀には陰謀を
引かれた薄布を隔てて、僅かに人影が透けて見える。数段高くなったデイス上のカテドラという、至高の身のみが許される座に腰を下ろし、肘をついてこちらを興味もなげに見下ろしているのが彼には分かった。
ファビアン・モレッリ司教は、その相手にこうべを垂れ、向けられているであろう視線を太い針のように感じながらひたすらに声をかけられるのを待っていた。
「・・・・・・モレッリ、なにか言うことはあるか」
そのわずかな言葉だけでモレッリの顔は紙のように白くなり、その肝が極限まで冷えていることを伺わせた。
「か、必ずやこの件、我らが神ウヌスの御心にかなう形で成し遂げてみせましょう」
デイスの上の影はたっぷりとモレッリを凍り付いた様子を堪能でもしているかのようにしばらくの沈黙を置いてから言った。
「ではそのようにせよ」
「は、必ずや!」
モレッリは言うが早いかその頭を低くしたままあとずさり、逃げるようにその場を後にする。
デイズの壇上の影が独り言ちに漏らす。
「あの者は、なぜ神の思し召しが自らの欲を満たしてくれると考えているのだろうな」
香木のかおりがするその部屋に、再び静けさが戻った。
物見高い群衆が歓声をあげている。
そこは首都にあるアレーナ・コンコルディアと呼ばれる闘技場であった、本来は競技や軍の演習、パレードなどに使われる設備であったが、夜会にいた貴族たちが悪ノリをして用意した決闘の場であった。
モレッリは神経質に周囲を見まわしハイデンに目を止めて彼の決闘代理人に目を止めた。
彼の代理人をする人物は、陰気な青白い顔と片目を髪で隠した男で、プライベート・グリムと呼ばれていた。
幾つもの戦場を生き延びた陰鬱な顔をした兵士であることと、決闘代理人を生業としてから負けなしで全員を一撃で死に至らしめていることからついたあだ名で、決闘の相手にあてがわれた『個人的な死神』という二重の意味を持ったあだ名をもつ人物であった。
モレッリは使えるコネは全て使いこの男を自らの代理人とした。本来はハイデンとモレッリの間で決められる決闘の条件が、夜会にいた有力貴族や権力者たちによって面白半分に決められてしまったから彼も必死になっていた。
一つ、勝敗に関わらず遺恨を残さない事。一つ、ハイデン側が敗北した場合はモレッリに謝罪し、彼の所属する神聖アニマ・ディヴィナ教に入信の後、私財の一割を寄付すること。
一つ、モレッリ側が敗北した場合、当局立ち合いの元、彼の私邸を調査のため明け渡すこと。
しかもこの条件は先ほど明かされたばかりであった。ジョナサン・ハートは私邸の隠し部屋に厳重に監禁していたとはいえ、彼の神経を逆なでしてすり減らすのには十分な条件であった。
本来ならばアニマ・ディヴィナ教の施設にジョナサン・ハートを隠したいところであったが、それは固く禁じられていたのだ。
決闘を試合扱いしている忌々しい者どもによって進行のため、グリムと相手側の代理人が中央に設けられたやじ馬よけの柵の中へと入る。
悪ふざけのアナウンスが始まる。
「皆の者、刮目せよ!」
男は喧騒が収まるのを待った後に続けた。
「まず、ゲートより現れしは、北方の蛮族、ゴートの出身! 奴隷市場をその剛腕で叩き壊し、自由を勝り、幾多の戦場を生き残った男! 決闘代理人として全てが相手を死に追い込んでいる! 恐れを知らぬネクサス・リベルタスの死神、『プライベート・グリム』こと――― オルキック! 」
オルキックと呼ばれた男は煤で汚れたようなチェインメイルを身に着けていた。観衆に向かって盾に剣の柄をぶつけて金属音を響かせて見せる。
やじ馬の観衆が沸きあがる。戸は立てられぬ人の口から流れた、噂に聞く死神の存在を確認して興奮しているようだった。
「対するは、このアレーナ・コンコルディアの砂を、初めて踏むステラー公国よりの新星! ステラー・グリーンウッド株式会社が相対した脅威を全て振り払ってきた、無冠の女王! その素早さに剣の軌跡を見たものはいないという! 倒した敵は数え切れず、対暗殺の特殊部隊を率いる! ――― ヴェラーテ・スパーダ少佐! 」
ヴェラーテの商会に、いっそうの熱気と歓声がその場を包んだ。
今日のヴェラーテは軍服を着崩し、胸の谷間が覗くようにボタンをはずし、一回りタイトなスラックス、その下にはピンヒールのブーツという出で立ちであった。夜会で魅了した婦人たちのみならず、白日の下で彼女の美しさを認識した男たちの注目も引き付ける蠱惑的な男装の麗人と化していた。
左手は腰の後ろにあて、右手にはムチ。ヴェラーテはそのアナウンスに恭しく紳士がするお辞儀を少し崩しておどけたようにやって見せた。
貴婦人たちの黄色い声と男たちの空気を振るわす歓声が場を嵐のように包む。
止む気配のないその喧騒の中、アナウンスをした男が聞こえない言葉を発してハンカチを空中に投げると、より熱狂の音量が上がった。
その小さな布切れが地に触れた時、オルキックと呼ばれた男がヴェラーテへと飛ぶ。
下から上へ振り上げられた剣をさけてヴェラーテが上体をそらすとそのシャツのボタンが幾つか飛んだ。
オルキックが距離を取るために後ろへ飛び退る。
男の攻撃に、ヴェラーテの胸の谷間からへそまでが露わになった。ヴェラーテは誘惑するような笑みを浮かべると、観衆に向かって再びお辞儀をして見せ、その際どい露出に再び観衆が盛り上がる。
だが、彼女がオルキックとやらに付き合ったのはそこまでであった。彼が何度かフェイントをして見せ、奇声を発してヴェラーテを挑発する様子を見せると、彼女は観衆に向けて興味を失くしたというジェスチャーで肩をすくめて見せた。
その瞬間を隙と見てか、再びオルキックがとびかかろうとした時、ヴェラーテの鞭が鋭い破裂音を鳴らすと打った地面から予想だにしない方向に跳ね返り、下から男の股間を打った。
「エンっ!!」
男は一声発した後に地に両膝を着いていた。ほとんどの観客は何が起きたのかわからず、その疑問に黙り始めていた。
オルキックが脂汗を流し、目を白黒させながらも立ち上がろうとする。盾が前方中心を固く守り、先ほどのヴェラーテの攻撃は防がれているように見えた。
静かになった闘技場で、ヴェラーテの鞭が雷鳴のように反響して響く。
その先端はオルキックの右後方の地面を打ち再び股間を襲った。
オルキックの長い悲鳴が響く。
倒れぬオルキックにヴェラーテがポツリと賞賛の言葉をかけたのち、鞭が彼の左右から一度ずつ度鳴り響き、二度とも地を跳ね返って辛うじて膝で急所を守ろうとしていたオルキックの股間を真後ろから打っていた。
観衆が呆然とその妙技を見守る中、オルキックは泡を吹きながら横向きに倒れた。ヴェラーテは前に進むと、ピンヒールで彼の側頭部を踏みつけて、際どく胸からへそを露出したままの格好で、今度こそ玉座へ向けるような優雅なお辞儀を観衆へ向けた。
貴婦人の黄色い声と男たちのいささか下品になった歓声にの渦に飲み込まれる中、凄惨な様子に気を失うものまで現われ、その場は混沌と化していた。
その興奮と熱狂の中で、唯一血の気を失っていたファビアン・モレッリは、周りの注意が自分にないことを読み取り、急いでその場をあとにした。
***
モレッリがたどり着いた時には、すでに当局の人間が彼の私邸を取り囲んでいた。
「何だね、君たちは! こんなことはバカげている!」
ヒステリックになりかける口調を押さえて言う彼に、後ろから首席法務官であるウェイド・クライン侯爵が声をかける。
「モレッリ司教殿」
「・・・・・・主席法務官閣下」
「司教も合意されている件で立ち合いに来ているのだが、何か不都合があるのかね?」
モッレリの顔が暗い沸々とした怒りと苛立ちを薄く映していた。
「いえ、ですがこのような必要は」
クライン侯爵は安心させるようにモレッリに言う。
「なに、形式的なものだよ。何も見つからなくとも、ハイデン殿も少しは気が済むであろうし、貴殿も早くみそぎを済ませてしまった方が気が楽だろう」
モレッリが再び何かを口にしようとした時、私邸を囲んでいた内の何人かがざわめき始める。
「どうしたかね?」
侯爵の問いに男たちは私邸のドアへ向いたまま答えた。
「誰か出てきます!」
ドアが開くと、そこには白い髪と赤い瞳の小柄な少女と、その少女に支えられていささか衰弱しているように見える男が現れた。
アリシア・ハート嬢と、その父親ジョナサン・ハートであった。
「ヒー!」
モレッリが驚きに息を吸い、声帯が本人も意図をしない、コミカルにすら聞こえる音を立てた。
「ちがう!」
クライン侯爵を見ると、その顔には深刻な思案の影が浮かんでいた。
「ちがう!」
反射的に言った彼は言い訳を探すように周囲を見回した。
目にした人影の中に、目元を隠すマスクをした男が一人。
手足が震え、怒りが込みあがるのを感じて彼は声をその相手に絞り出した。
「貴様ーーー!!」
飛びかかろうとするモレッリを周囲の男たちが取り押さえる。
「貴様! キサマー!!」
男の怒りと狂気がないまぜになった声が尾を引くように閑静な街中へと響き、吸い込まれていった。
余裕あると思ったら時間ギリギリでした!




