さらば、長岡壱定
イチサダは走った。
塀を上り、目的地までの直線を進む。屋根から屋根へと飛び移り、塀の上を進む。やがて建物がまばらになり、町の外れへとたどり着く。
場所の記載はなかった。であればここしか無いはずだ。
イチサダは待ち伏せられそうな一の手前で止まり、懐に入れていた包みを開く。中からハムとチーズと卵をパンで挟んだものと、紅茶の入った口の広い瓶が出て来る。
パンをニ三口で飲み込んで紅茶を流しいれると、ここ二日ほど何も口にしていなかった体に暖かさと力とが満ちるのを感じる。
「フーーーーッ、」
ゆっくりと力強く一度息を吐いて呼吸を整えると、自己の意識の範囲をひろげてから足を踏み出す。
洞窟の入口が見えるまで近づくと、自分が蹴り壊してから直された様子はなく静かにその暗い口をあけたまま、周囲はわずかに風の音だけがしていた。
この近辺に人の気配はない。暗闇での待ち伏せだろうか。
ゆっくりと奥に進むと、先の方にわずかながら人の気配がする。
さらに進むと、その奥におそらく炎のによるものであろう明かりが揺れている。
三人の老人と戦った部屋だ。イチサダは肩の力を抜いて歩を進める。
入口を潜ると、松明の明かりに照らされたエコー少年が膝を抱えて座っていた。
「あの怖いお姉さんが、おじさんが来たらこれを渡せって」
少年は立ち上がってイチサダにメモを渡した。
受け取り、その畳まれたメモを開くとそこには『バカがよ!』と書いてあった。
男の顔に笑みが浮かび、少年の頭に手を乗せた。
少年が男の手を両手で握ると口をひらく。
「おじさん、元気になった?」
そうヴェラーテにでも言いくるめられたのだろう。
イチサダの笑いが声に出ていた。
「そうだな」
彼はエコーを抱き上げると、肩に座らせて歩き出した。
屋敷の門をくぐると、イチサダの肩の上のエコーが手を振った。玄関ドアの横ににヴェラーテが背を壁に預けたままイチサダに向かって口を開く。
「バァーカがよぉ」
鋭い目をしたメイド服の美女が吐き捨てる。イチサダが玄関への階段を上がるとると彼女はドアを勢いよく開いて中に入る。イチサダがドアに手を掛けずに入れる、丁度良いタイミングだった。
奥に入るとシュタイナー夫人がイチサダとエコーに声をかける。
「皆さま、もう席についておりますよ。ダイニングへどうぞ」
テーブルではヴェラーテがが料理を取り分けている。イチサダにはそれぞれ大目に取り分けられていた。
食事は暖かく、優しい味をしていた。
***
ハイデンとストレイチアがオートクレーブのテストをしている棟にある奥の工房にイチサダが姿をあらわした。
「おう、イチサダ。実験見てくか?」
イチサダは彼の言葉に少し笑みを見せて言った。
「少し、話をさせてくれ」
ハイデンはイチサダの言葉に部屋の隅の戸棚に置かれた鈴を手に取ると、屋敷に張り巡らされた伝声管の一つを開けてそれを振った。
「ボトルとグラスを幾つか持ってきてくれ」
そういうと、彼はイチサダに椅子を進めて自分も座る。
「私は席を外した方が良いか?」
ストレイチアにイチサダが応える。
「いや、居てもらった方が良い」
彼は少しうつむいていた。ドアがノックされ、返事を聞く前に開かれる。ヴェラーテがトレーに琥珀色の液体が入ったボトルと、グラスを片手分ほど載せてあらわれた。
「だったらヴェラーテもいてもらった方が良いか? 彼女も異世界出身だが」
イチサダの表情がわずかに揺れる。
「ああ」
皆が座り、グラスに酒が行きわたると、イチサダがゆっくりと口を開く。
「・・・・・・俺は、違うんだ」
イチサダが続けて言う。
「俺は、異世界の人間じゃない」
「でも、この世界にはジュードーはないだろう?」
ストレリチアの言葉にイチサダが応える。
「長岡壱定という人物は俺がまだ子供の頃、この世界に転移してきた老人の名前だ。俺は小さな村に生まれた、氏もないただの村人だ」
イチサダは懐かしそうに少し今とは違う時を見るような目で続ける。
「彼は村を襲いに来た盗賊を殺すことなく撃退した。大体の盗賊は散り散りになり、中には改心して村の一員になるような者もいた。全ては彼から教わったんだ」
「俺もはその爺さんの強さにあこがれて、自分もそうなりたいと考えていた」
「俺は毎日のように、村の外れの山の麓にある爺さんの小屋に行っては色んな話をきいていた」
「そこで武士というものと、刀を抜くことの意味、爺さんが不殺を貫こうとする意味。それにあこがれて、弟子入りをした」
ヴェラーテが口を挟む。
「不殺なんてのは恵まれた奴らのたわ言だよ。アタシみたいに生まれた時から暗殺稼業に放り込まれたみたいなのは、殺すか死ぬかだ。命を自己満の点数宇みたいな扱いしやがって、反吐がでる」
「ああ、俺は結局命のやりとりとは別のところでいつも物事を見ていた。結局何も分かっていなかった」
「チッ、」
追い打ちをかけようとしていたヴェラーテが舌打ちをする。ハイデンが口を開いた。
「お前の空手は本物だぞ。カウンターはのるか反るかの紙一重で成立する至難の業だ。血のにじむような努力無しに成立しない」
「ありがとう、ハイデン」
イチサダはらしからぬ口ぶりでハイデンに礼を言うと、一呼吸おいて続ける。
「だが、刀が本物でも、武士が本物でなければ意味が無い」
「俺は、ハイデンの目標が誇り高いものだと思っている。それを手助けして見届けたいとも思っている」
「だが、同時に俺は、今のままではどこかで取り返しのつかないことを起してしまうのを恐れている。そしてこの恐れが自分の見る目を全てに対して曇らせていることに気が付いた」
ストレイチアが口を開く。
「ジュードー、どこかへ行ってしまうのか?」
イチサダは少し力を取り戻した太い笑みを返して言った。
「ああ、今からここを出ようと思う」
ハイデンがイチサダに言った。
「朝になってからにしららどうだ?」
「ここは居心地が良い。未練だ」
そういうと、イチサダは立ち上がる。
「ジュードー、もう行くのか?」
イチサダは言った。
「ああ」
踵を返してドアを開けて部屋の外に出る。一度振り返って頭を深々と下げた。
「世話になった」
歩き出すイチサダにハイデン達が続く。玄関ドアにたどり着くと、シュタイナー夫人がいつもの表情のまま、彼女がこの屋敷に来た時に背負っていた風呂敷をイチサダに差し出した。
「おさむらいさま、どうぞこれをお持ち下さい」
受け取ったそれは柔らかく暖かいものが入っていた。
「かたじけない」
イチサダは老婆に一礼すると、玄関ドアを開けた。
「オイ」
そう呼び掛けたヴェラーテがしゃがみ込むとブーツの上から脛を覆う金具のバックルを外してイチサダに投げて寄こした。金属のスネ当てだった。
「オマエ防具無しとか危なっかしいんだよ。腕にでもつけとけ」
いつの間にか現れていた老軍人がエコーの肩に手を乗せて真剣な目で言った。
「おなごに暖かいままの下着を渡されてこそ、真の漢。貴様も覚えておくがいい」
「下着じゃねーよ!」
ヴェラーテに後頭部を叩かれる。
「ヴェラーテにも世話になった。ありがとう」
長身を少し驚きにそらして、メイド服の女が舌打ちをして応える。
「チッ、・・・・・・死ぬなよ」
イチサダが夜の闇へ振り返ろうとした時、エコーが一歩前に出て、声を上げた。
「おじさん! ありがとう! おじさんのおかげで、前みたいなことしなくて良くなった!」
イチサダの大きな手がエコーの頭に乗せられる。
「ああ、良かった」
空手着の巨漢が背を向け、歩き始める。
次第にその背が小さくなっていき、ロートアイアンの門をくぐろうとした時、ハイデンが声をかけた。
「またな!」
背を向けたままのイチサダの手が上がり、その背が闇の中へ消えていった。
つねにクライマックスを書き続けるわけにはいかなのは当たり前ですが、そうじゃない時どうしたら良いかの引き出しが足りないと感じています。なんにしても、書いてその辺りをなんとかできるような力量をつけたいです。




