図書館
土曜日の朝は、静かだった。
目覚ましは使わない。代わりに、窓から差し込む光と、遠くで鳴く鳥の声が俺を起こしてくれる。
祖母の家。木造の二階建て。少し古いが、どこか落ち着く。
両親が死んでから、中学三年間をここで過ごした。今も学園の寮には入らず、ここから電車で通っている。
「朝ごはん、テーブルに置いといたよ」
台所から祖母の声がする。俺は返事をして、一階に下りた。
炊きたてのご飯、味噌汁、焼き魚と漬物。どれも素朴で、いつもと変わらない。
「今日も図書館?」
「うん、ちょっと調べたいことがあって」
「そうかい。無理はするんじゃないよ」
祖母はいつもそう言う。心配性だ。でも、それがありがたくもある。
両親を亡くしたとき、祖母は何も聞かず、ただ俺の隣にいてくれた。
俺は祖母の家を出て、少し肌寒い風の中、
歩いて十五分ほどの場所にある地域の図書館へ向かった。
街は、人であふれていた。
商店街の通り、カフェのテラス、駅の構内。休日の空気はどこか浮ついていて、
学校とは別の騒がしさがある。
耳を澄ませば、いろんな声が聞こえてくる。
魂章の話、進路の話、恋愛の話、笑い声、愚痴、噂。すべてが雑音のようで、時折、意味だけが脳に残る。
俺の右を歩く男は、赤い腕章をつけていた。
「炎章」。熱処理や救助活動、戦闘的分野に適性があると言われている。
左を歩く女は、額に淡い緑のひし形を浮かべていた。
「森章」。植物系の感知や癒やしの力を持つとされ、医療系志望が多い。
……魂章は、他人の人生を透かしてしまう。
本人の意思とは無関係に、周囲の目が色と形で“価値”を測ってしまう。
それがこの社会の、当たり前になっていた。
俺のような「分類不能」の者には、その目すら向けられないこともある。
(無価値、か)
小学校の頃から何度も通っていた場所だ。夏休みの自由研究、冬の調べもの、あるいはただ静かに過ごしたい日──子どもの頃の俺にとって、この図書館は、学校や家よりも安心できる居場所だった。
外観は古びたレンガ造り。最近こそガラス張りの閲覧スペースが増築されたけど、
正面の自動ドアの前に立つと、当時の記憶が自然と呼び起こされる。
中に入ると、木の匂いと紙の香りが混ざり合った、懐かしい空気が出迎えてくれる。
静かな時間が、ここには確かに流れていた。
静けさのなか、机にノートと参考書を広げる。
図書館の奥の席。周囲の机とは少し離れた角の一席。ここは小学校の頃から変わらない、俺の“指定席”だった。
魂章についての専門書を読む。
判定不能の割合、社会的な受容、歴史的な経緯、差別の変遷。
どれも感情を交えず、事実だけが書かれていた。
(感情を、排除して読む)
そう決めていても、時折、ページの間から抜け落ちるように感情がこぼれてくる。
──分類不能の魂章は、制度上、無価値とされる。
──社会的支援は存在するが、進路の選択肢は狭く、差別は根強く残る。
それでも、俺はここにいる。
そして、知識だけは、章の有無に関係なく吸収できる。
(俺には、それしかない)
ページをめくる音だけが、図書館の空間に鳴った。
やがて時間が経ち、午後の日差しが窓から斜めに射し込む。
帰り道、商店街を通ったとき、小さな路地裏の楽器店から音が漏れていた。
ピアノの音。どこかで聴いたような、あの旋律。
……いや、気のせいだ。
ここに彼女がいるはずはない。
だが、足は自然と音の方へ向いていた。
小さなガラス戸。閉じられたままの鍵。店内に人の姿はない。
(……また、聴きたい)
記憶の奥で、昨日の旋律が呼び起こされる。
──耳元で、心を揺らしたあの音。
俺はそのままガラス戸の前に立ち尽くし、しばらく音のない空間を見つめていた。
夕暮れが、街をゆっくりと染めていた。
家へ戻る道すがら、俺は何度も振り返ってしまう。
──何かを期待するように。
だけど今日は、ただの休日。
何も起こらず、誰とも話さず、静かに終わっていく一日。
それでも、そんな日にも、意味がある気がした。
俺はまだ、この社会で、ゆっくりと生きている。




