十時
教室の空気が昼下がりの風のように緩んでいた頃、俺の机に、突然、影が落ちた。
「おーい、紫のやつ!」
名指しとは思えない呼びかけに、一瞬だけ返事を迷う。けれど、次の瞬間には、パックのジュースが机に“ドン”と置かれた。
「これ、余ったからやるわ。俺、毎朝コンビニで多めに買っちゃう癖あるんだよなー。林檎ジュース、飲める?」
その軽すぎる声と態度に、思わず顔を上げると、そこには笑顔を張りつけたような男子が立っていた。整えた髪、ネクタイは曲がってるのに妙に似合っていて、眩しいくらいに「陽キャ」そのもの。
「……えっと、ありがとう」
「お、意外と普通に返してくれるタイプだったか!」
男はそれだけで勝手に盛り上がりながら、空いていた俺の隣の席に腰を下ろした。席、そこじゃないだろと思ったが、流れに押されて何も言えなかった。
「名前、夢宮カナトだよな?」
「ああ」
「やっぱり! 俺は十時ケンイチ。とじけんって呼ばれてる。クラスの半分はもう覚えたはずなんだけどな~、お前、あんまり人と話してないもんな」
「まあ、ね」
「いいっていいって。俺も最初は話しかけづらかったけどさ、なんか気になってさ。お前の魂章、珍しいし」
彼は俺の目元をちらりと見て、指で三角を描くジェスチャーをした。
「“紫の未完成三角”ってやつだよな? 俺、そういう中途半端な形、結構好きなんだよね。なんか、まだ完成してないっていうか……自由って感じしない?」
「自由、ね」
「うん。俺なんて“青の指章”だからさ。右手の人差し指」
とじけんは自分の指を立てて、軽くひねって見せた。確かに、そこには金属のような質感の細い青いラインが入っていた。
「精密作業に向いてるとかで、昔から“工業系向き”って言われてるけど……俺、機械とか別に好きじゃないんだよな」
「じゃあ、他にやりたいことが?」
「うーん、今はまだ模索中ってやつ。でも、自由に見えるお前の章見ると、なんかちょっと羨ましくなるんだよなー」
「分類不能、無価値ってやつだぞ?」
「でも、その分どこにでも行けるじゃん?」
とじけんの言葉は意外にもまっすぐで、その目には、茶化しでも興味本位でもないものが宿っていた。
軽く見えて、芯は真面目なのかもしれない。
「……お前、なんか思ってたよりずっと変なやつだな」
「よく言われる。ついでに言えば、ノートとかも超几帳面だから」
そう言って、彼は鞄からノートを取り出し、机にドサリと置いた。開いて見せてきたページには、赤・青・緑・黄色と、細かく色分けされた項目がびっしりと書き込まれている。
「これ、自分で?」
「もちろん。色分けしないと、なんか落ち着かない。頭ん中も整理された気がするんだよ」
「几帳面すぎるだろ」
「だろ? でも、部屋はぐっちゃぐちゃだから安心しろ。ノートだけは整えたいっていう、よくわからん俺のポリシー」
なんなんだ、このやつれのないテンションと、妙な正直さは。
でも、不思議と疲れる感じがしなかった。むしろ、肩に乗っていた無言の緊張が、少しずつほどけていく感覚。
「とじけん、第三十四号の友達だな」
「おいおい、リアルすぎるだろ。せめて十号くらいにしといてくれ」
「それは、ちょっと盛りすぎじゃないか?」
とじけんはそう言って、また勝手に笑った。どこまでも自由で、どこかまっすぐな笑いだった。
俺はそっと、机の上の林檎ジュースに手を伸ばす。あまり選ばない味だ。
でも、意外と、悪くなかった。




