学園生活
教室に入ると、誰の姿もなかった。
壁際のガラス窓が朝日を受けて淡く光を反射し、整然と並んだ机が妙に静かに見える。
俺の席は教室の後ろ、窓際の一番端。黒板が少し遠い場所。
“判定不能”──この学園の中でも特異な存在である俺を、さりげなく端に押しやるには、ちょうどいい位置だった。
椅子に腰を下ろし、鞄からノートを取り出して昨日の授業の復習に目を通す。
魂章論の導入部分。能力の分類とその系統図。社会的役割との相関関係。
教師の語り口は滑らかで、まるで統計の数字が人格を持ったかのように聞こえる。
けれどその声には、「人間の可能性を最初から決めつけることへの違和感」など微塵もなかった。
「おはよー……って、あれ、誰もいないじゃん」
軽やかな声が、教室の静けさをやわらかく破った。
制服のスカートが揺れ、扉の前に立っていたのは女子生徒だった。ひとつ上の学年だろうか。
顔には見覚えがなかった。
「……あれ、早いね。いつもこんな時間に来てるの?」
「まあ、たまたま」
「そっか。じゃ、またあとでね」
軽く手を振って、彼女は隣の教室へと消えていった。
あの自然な笑顔と軽やかさは、きっとどこに行っても輪の中心にいるタイプだ。
窓の外へ視線を移す。
すれ違う生徒たちの背中や耳、腕、腹、そして額──あらゆる部位に浮かぶ魂章が、春の陽光を淡く弾いていた。
赤、青、緑、黄、黒、白。
それぞれに意味があり、役割があり、価値がある。
だが、俺のは違う。
「紫の未完成三角」──分類不能、無価値。
それでもこの学園にいるのは、「特例学術枠」での入学だったからだ。
いわば制度の隙間に紛れ込んだような存在。
そう考えると、ほんの少しだけ重くなる。
やがてチャイムが鳴り、教室に少しずつ人の気配が満ちていく。
にぎやかになる空間の中、輪がいくつか形成されていく様子が見て取れた。
そして当然、そのどれにも俺の居場所はなかった。
次々と席が埋まり、生徒たちの会話が飛び交い始める。
俺はノートに目を落としながらも、耳だけを使って教室全体の空気を読む。
誰が誰と近く、誰が中心か。そんな些細な観察が、この空間での生き方を教えてくれる。
一限目──化学
教師が入室すると、すぐに無駄のない板書を始めた。
内容は有機構造式の基本。すでに自習済みだったので、ノートには図式を再整理しながら、頭の中では応用問題の構成を思い浮かべていた。
二限目──現代文
詩人の言葉が引用された。「言葉とは、誰かの心を盗むための優しい凶器である」と。
その一文に、思わずペンを止めた。
(優しい凶器、ね……)
もしそれが本当なら、俺にはまだその武器は扱いきれていない。
心を動かすほどの言葉を、自分が紡げる気がしなかった。
三限目──数学
教師の解説中、ひとりの男子生徒が挙手して言った。
「え、でもそれってさ、解法Aでもいけないっすか? そっちのほうが楽じゃない?」
教師は一瞬だけ眉をひそめたが、黒板にAの解法を示した。
「……たしかにこの場合、式は同値だな。ただし、次の展開に気づいていないな」
「うわっ、ほんとだ」
小さな笑いが起こった。
俺はそのやり取りに、ほんの少しだけ好感を抱いた。
間違えても、問い続ける意志があれば、それは知性の証になる。
昼休み
誰かが机に突っ伏して寝ている。
コンビニの袋を片手に笑いながら出ていくグループ。
静かに弁当を広げて食べる生徒。
俺は紙袋から取り出したパンを手に、窓辺で黙々と食事をとる。
昨日の音楽の記憶が、まだ頭の片隅でゆらゆらと揺れていた。
(……また、聴けるだろうか)
そんな思いが胸の奥に小さな波紋を広げる。
名も知らぬ旋律の残響が、いつの間にか、自分の中に棲みついていた。
午後の授業
単調な授業が続いた。
教科書をなぞるような内容に、生徒たちの表情は徐々に眠たげになっていく。
けれど、俺にとってその静けさは心地よい集中の時間だった。
魂章を持たぬ者にとって、「学ぶこと」は、唯一の反撃手段だ。
この世界において、魂章は力。
色、形、部位、そしてその価値。
そのすべてが、人の人生を決めていく。
だが、分類不能とされた俺にだって、
知識は染み込む。思考は、誰にも止められない。
だからこそ、俺は学ぶ。黙って、静かに、積み上げていく。
それが俺なりの“反抗”だった。
放課後
授業が終わるころには、雲が西の空を薄紅に染めていた。
チャイムと同時に椅子の音、机を引く音、足音、笑い声。
そんな喧騒の中、俺は静かにノートを閉じた。
昇降口を出て、ふと立ち止まり空を見上げる。
春の風にゆれる雲が、音もなく空に浮かんでいた。