図書棟の朝
春の朝は、いつもより少しだけ早く目が覚める。
昼休みの再会から一夜明け、俺は少し早めに登校していた。
春の朝。校庭にはまだ人の姿がまばらで、桜の花びらが静かに地面を覆っていた。空は澄みきっていて、雲ひとつない。俺は校舎に入り、教室には向かわず、そのまま図書棟へと足を運んだ。
――昨日の演奏が、まだ耳に残っていた。
記憶の奥から引き出された少女の名前。「シュラシュ」。たしかに小学校で同じクラスだったはずなのに、思い出はぼやけていて、ところどころ穴が空いている。ただ、あのピアノの音だけは、不思議なほど鮮明だった。
(どうしてあんなふうに、音が届くんだろう)
耳に残る旋律の余韻が、思考の隙間に溶け込んでくる。普段なら朝一番で参考書をめくっている時間だが、今日はページよりも、音の方に意識が向いていた。
「おはよう、カナト」
振り返ると、そこに彼女がいた。
「……シュラシュ⁈」
制服の上にカーディガンを羽織り、鞄を肩から提げている。耳元には、昨日と同じ金色に近い黄色の環が静かに揺れていた。彼女は当たり前のように、俺の隣に立っていた。
「朝から図書棟って、さすがだね。やっぱりカナトっぽい」
「たまたまだよ。君の音が、ちょっと耳に残ってて」
素直にそう言った俺に、彼女は少しだけ目を丸くして、嬉しそうに笑った。
「え、それって嬉しい。私、音を誰かに届けたいって、ずっと思ってたんだ。だから……伝わったなら、よかった」
春の風が吹いて、彼女の髪がふわりと揺れた。
「この耳章があるとね、普通の人が気づかない小さな音が、ちゃんと聴こえるの。動物の鳴き声も、人のささやき声も、木々の葉の揺れる音も、ぜーんぶ。で、それを集めて、覚えて、混ぜると、すごく綺麗な曲になるの」
その目は真っ直ぐで、まるで音の世界そのものが、彼女の体の一部であるかのようだった。
「音ってさ、空気の震えだけじゃないんだよ。気持ちとか、景色とか、過去のことも、全部重なって響いてる。……カナトにも、そういう音があると思うよ」
「俺にも?」
「うん。昨日、図書棟にいたでしょ? 足音、すごく静かだった。ちゃんと耳を澄ませて歩いてたよね?」
俺は驚いたように彼女を見た。気づかれないと思っていた小さな動きや、音。
「それ……聞こえてたの?」
「うん。聞こえてた。カナトの音、やさしかった」
その言葉に、なぜだか胸の奥がざわめいた。
気づかれたくない部分を、そっとなぞられたような感覚。けれど、それは不快ではなかった。
むしろ、自分でも気づかなかったものを見つけられたような、不思議な安堵があった。
「そういえばさ、小学校のときも、カナトは静かだったよね。よく図書室にいた」
「……よく覚えてるな」
「忘れないよ。私、あの頃、あんまり友達いなかったし。よく目に入ってたから...」
目をそらして言ったその一言に、妙な真剣さがあった。
俺は、何かを返したかった。でも、言葉が見つからなかった。
「……あのさ、またピアノ、聴かせてよ」
そう言った俺に、彼女はふっと顔を上げ、目を細めて微笑んだ。
「うん、いいよ。でも今度は一緒に弾こっか」
「俺、ピアノできないよ?」
「大丈夫、私が教える。音の聞き方、カナトならきっとすぐ分かるから」
その声が、まるで春の風そのものみたいにやさしかった。
図書棟の奥に、朝の日差しが差し込んでいる。
昨日までの俺は、誰にも触れられないように、音のない場所を選んで歩いてきた。
でも今、となりにいる彼女の存在が、少しずつその静けさを変えていく。