耳に咲く環
春の風は、まだ冷たさをわずかに残していた。
俺は駅の階段を上りながら、肩にかけた鞄の重さを何度か確かめた。制服のシャツの襟元からは、わずかに桜の香りが入り込む。周囲の人波の中に紛れながらも、どこか場違いな居心地の悪さを背中に感じていた。
改札を抜け、坂道を登る。
坂の上には、白く磨かれた校舎が光を跳ね返している。初登校日。新学期のはじまり。
それは、誰かにとっては出発の合図であり、カナトにとっては「選別」の始まりだった。
改札を抜けると、すぐに後ろから声が飛んできた。
「おい、見ろよ。あいつじゃねぇか。紫の三角」
わざとらしい声量と、笑い混じりの語気。
「判定不能だろ? 魂章として“価値なし”ってやつ」
聞こえないふりは、慣れていた。カナトは振り返らず、坂道を淡々と登り続ける。歩幅は変えない。
けれど、耳の奥にはその言葉が張り付いたまま離れなかった。
この街では、人の価値は魂章で決まる。
魂章――身体に現れる、能力と属性の証。
その形状・色・部位によって、人生の道筋がある程度まで定められてしまう。
それは力であり、身分であり、未来を縛る“印”だ。
社会における職業、階層、期待、扱い方までもが、その魂章一つで決まる。
そして――
俺の魂章は、「紫の未完成三角」。
目の下にうっすら浮かぶ、その曖昧なかたちは、分類不能とされ、評価は常に「無価値」。
誰からも期待されず、将来の行き先すら与えられない「落ちこぼれの印」だった。
「夢宮カナトくんですね」
受付の事務員が、端末を見ながら声をかけてくる。
「特例学術枠、三号棟の四階、Aの四。魂章データも確認済みです」
「はい」
「……紫の、未判定。ですね」
語尾の沈み方が、すべてを語っていた。気まずさと、哀れみに似たまなざし。
それに応じるふうもなく、俺は静かに頷く。
手元の鞄の中には入学許可証。表にはっきりと書かれている。
「特例学術枠」
魂章の価値にかかわらず、学術適性が極めて高いと認められた者に与えられる、特殊な入学枠。
社会的には落ちこぼれ、だが学力だけは「例外」だった。
だからこそ、余計に目立つ。
魂章がすべての社会で、魂章の“価値”を持たない者がエリート校にいることの異質さは、無言の圧力として存在する。
掲示板に貼られた「魂章初期判定指標」。
【色】…属性を表す。
【部位】…能力の傾向。
【価値】…発揮可能量:S・A・B・C・D・E・F・X(未判定)
注意書きの一文が、赤字で書かれていた。
「価値は変動します。訓練・環境・精神状態により上昇の可能性があります」
だが、Xから何かに昇る前例は、聞いたことがない。
教室はまだ静かだった。
自分の席に腰を下ろすと、どこからか音楽が流れてきた。
窓の外。
隣の音楽棟。
ピアノだった。
鍵盤の音は濁りがなく、一音ごとに空気を震わせる。
遠くから聞こえるはずのそれが、耳元に囁くように届くのは、単に風のせいではない。
それは「誰か」の演奏だった。
ただうまいだけじゃない。音に「感情」がある。
心が、静かになった。
授業が始まり、担任が教室に入ってきた。
「魂章とは才能そのものだと考える者もいるだろう。だが我々は、“制御”を学ぶ。力を持つ者も、持たない者も、“運用”こそが本質だ」
その言葉に、一部の生徒が笑った。
「言うだけなら、誰でもな」
「俺は胸に赤。価値B。軍行きコース確定だな」
「俺はC、足に緑。運搬特化らしいぜ」
「運搬って、荷物運びかよ」
「わははは!」
教室のあちこちで、魂章と未来の話が飛び交っている。
俺はノートに教師の言葉を写しながら、心だけは音楽棟へ向いていた。
昼休み。
春の陽射しが、学園の中庭を明るく照らしている。桜は散り始め、風に乗った花びらが、空に揺れていた。
俺は、南側の静かなベンチに座り、食べ終えたパンの袋を膝に置いたまま、目を閉じていた。
そのとき――
また、音が聞こえた。あのピアノだ。
近い。
俺は立ち上がり、無意識に音の方へ向かっていた。
校舎の裏手、木製のデッキに併設された小さなカフェ。昼休みに演奏する生徒も多く、芸術科の発表の場にもなっている。
そのステージに、ひとりの少女が座っていた。
ピアノの前に座っていたのは、長い髪を耳の後ろで束ねた少女。
白い指が鍵盤をなぞり、わずかに俯いた横顔は、光に照らされてやわらかい。
耳元には、金に近い輝きの魂章――繊細な円環が、静かに浮かんでいる。
(……耳章)
それは、音に関する才能を持つ者に現れる章。黄色。感覚特化。
(知っている……誰だ)
彼女の指先が鍵盤を滑り、旋律が空気を塗り替えていく。感情が音に宿っている。
完璧に整っているのに、あたたかい。
目が合った。
一瞬だけ。けれど、その目は確かに、俺を捉えた。
思わず目を逸らし、カフェから離れようとした。
けれど、背後から声が飛んできた。
「――カナト?」
振り返るとそこに、彼女がいた。
「……夢宮カナト、で合ってるよね?」
透明な声。よく通る、けれどやわらかな響き。
俺は、返事ができなかった。
「ねえ、これ。耳章、可愛いでしょ? アクセサリーみたいで、気に入ってるの」
その言葉には、誇りも、驕りもない。ただの照れ隠し。彼女自身の素直な感想だった。
「……君の名前は?」
気づけば、口が勝手に動いていた。
少女は、微笑んだ。
「シュラシュでいいよ」
その名が、俺の記憶の奥に沈んでいた記憶をわずかに震わせた。
風の音。
春の光。
木々のざわめき。
そして、彼女の言葉。
「小学校、一緒だったよね。たしか、君はよくノートに数式を書いてた」
彼女の言葉に、何も返せなかった。
ただ、胸の奥がほんの少しだけ、あたたかかった。
「……また、会えるかな」
また口が勝手に動いていた。
そのつぶやきに、シュラシュは笑った。
「また、じゃなくて。明日も学校で会うんだよ?」
その笑顔は、春の光と同じくらい、まぶしかった。
それが、すべての始まりだった。
魂章の価値も、未来の重さも、まだ何ひとつ分からなかった日。
ただ、あの旋律と、名前を呼ぶ声だけが、確かな記憶となって胸に残った。