婚約破棄? ええどうぞ、ご勝手に。え? いいえ、私のお腹に赤ちゃんはいませんわ!!
「伯爵さまのお手紙に『婚約を破棄したい』って書いてあるわ⋯⋯」
「えええええっ!」
次女のフランセスの言葉にウィンザー侯爵家のリビングルームは大騒ぎになった。
姉と妹たちは刺繍セットを投げ出してフランセスのまわりに集まる。
姉妹はみんな金髪に青い目の美人ぞろいだ。
飼い猫の真っ白でフワフワなフィリップまで驚いて「ミャアミャア」と鳴き始めた。
「ものすごい侮辱だわ!」
フランセスは婚約者の手紙をクシャっと丸めた。
手紙は婚約者のヴィクトル・スペンサー伯爵から送られてきたものだ。
フランセスとヴィクトルは親が決めた婚約者同士。
けっして深い愛情で結ばれているとはいえないがこれはあまりにもひどすぎる扱いだ。
「ヴィクトルさまと喧嘩をしたの?」
「はしたない真似をしたんじゃないの?」
「こっそり読んでいる『愛と恥じらいのザマァ』を知られたんじゃないの?」
「きっと騎士団長さまの追っかけをしていることがバレたのよ」
姉と妹たちが口々に言う。
「まさか、伯爵が知るわけがないわ」
と言いかけてフランセスはハッとした。
——もしかしたらそうなのかしら?
フランセスとヴィクトルは二年か三年後には結婚するだろうがそれまではお互いの自由を尊重する関係だ。
だけどいくら自由とはいえ美貌の騎士団長の追っかけはやりすぎだったのかもしれない。
かりにも婚約者がいる令嬢としていきすぎた振る舞いだったのだろうか?
騎士団の陣営の前で姉妹で出待ちをしていたのを伯爵に見られたのかもしれない⋯⋯。
あれこれと考えるがどう考えてもやっぱり悪いのは伯爵だ。
どんな理由があっても手紙一つで婚約破棄なんて無礼に決まっている。
「伯爵のところに行ってくるわ」
フランセスは勢いよく立ち上がった。
「私たちも一緒に行くわ」
「ひとりで大丈夫よ」
「でも⋯⋯」
「ほんとうに大丈夫!」
力強く答えて姉妹を安心させた。
**
もちろん自分史上最高のおしゃれをして出かけた。
大きく広がったスカートの赤いドレス。買ったばかりの王妃様御用達ブランドのビーズの巾着バッグも持った。
バックの中にくしゃくしゃになった手紙を押し込んで、最新流行の帽子をかぶればさあ出発だ!
伯爵家に着くとヴィクトルは書斎にいた。
「領地の管理人に手紙を書いていたところです」
おだやかな声でそう言いながら机の上の黒猫を撫でている。
エリザベスという名前のヴィクトルの愛猫だ。
ヴィクトル・スペンサー伯爵はとてもハンサムな男だった。
あまりにハンサムすぎるので人間離れして冷たいイメージがあるほどだ。
プラチナブロンドの髪に澄んだブルーの瞳。めったに笑わずいつも淡々としている。
フランセスは出会った瞬間から、『こんな冷たい人との結婚生活なんて想像できないわ』と思っていた。
明るく楽しい夫こそがフランシスの理想なのだ。
——ああ、どうしてわたくしの婚約者は騎士団長さまじゃないのかしら?
金髪ロン毛の騎士団長は王都の若い女性の憧れで、『伝説の壁ドン』の異名を持つほどの男なのだ。
頭に浮かんだ美貌の騎士団長の姿を追い払いながらフランセスは聞いた。
「ヴィクトル様はお手紙をお書きになるのがお好きですのね」
目一杯の皮肉を込めた冷たい口調だ。
だけどヴィクトルには伝わらなかった。
「まあ好きな方ですね」
とそっけない。
フランセスの胸にメラメラと怒りの炎が燃え上がり始めた。
——この男は私のことを軽んじているんだわ!
ウィンザー侯爵家は由緒ある名家だ。こんな扱いを許せば自分だけではなく姉や妹たちの名誉も汚すことになるだろう。
「手紙のことでまいりましたのよ」
「ああ、そうですか」
——ああ、そうですか⋯⋯ですって!!
カーッとしすぎて気を失いそうになった。
「手紙には婚約破棄、と書いてありましたわ」
「ええ、そうです。婚約を破棄したいと思います。よろしいでしょうか?」
「もちろん、結構ですわ!」
こんな男、こっちから願い下げだ。
フランセスはもうこれ以上この無礼で冷たい男と話をしたくなかった。
一緒の空間にいることすら嫌になった。
「失礼させていただきますわ!」
扉に向かう。
その時だった。
ヴィクトルが、まるで「今日は天気がいいですね」とでも言っているかのような軽い調子で、こう言った。
「お腹の子は僕が面倒を見ますから心配しないでください」
***
「えええええっ!?」
フランセスは黒猫のエリザベスが飛び上がったほど大きな声を出した。
「⋯⋯そんなに驚かれなくても」
「驚かないわけがないではありませんか! いったい何をおっしゃっているのですか? 赤ちゃんなどいませんわ!」
フランセスとヴィクトルは親同士が決めた婚約者だ。二人っきりで会ったことはほとんどない。
親や兄弟姉妹と一緒に午後のお茶の時間を一緒に過ごすぐらいだ。
そんなふたりの間に赤ちゃんができるはずがないではないか!
だけどヴィクトルはゆずらなかった。
「います。間違いありません」
真面目で真剣な表情だ。
ヴィクトルは今まで一度も冗談を言ったことはない。それに人を騙すような悪人でもない。
——え? まさか⋯⋯、私のお腹に赤ちゃんがいるの?
フランセスはだんだんと自分の知識に自信が持てなくなってきた。
——たしかにちょっとだけ手が触れたことがあったような⋯⋯。一緒に馬車に乗って王都公園をぐるっと回った時に一瞬だけ腰が触れ合ったこともあったような⋯⋯。もしかしてあの時に赤ちゃんができちゃったのかしら! そんなことで赤ちゃんができるの?!
頭の中が大混乱だ。
——ああ、どうしましょう!
フランセスは自分のお腹を両手で押さえた。
——もしも本当に赤ちゃんがいるのだとしたらこの子は生まれる前から両親が婚約破棄をした不幸な子になるんだわ!!
なんて可哀想なのだろう⋯⋯。
まだ見ぬ我が子の哀れさに涙が浮かぶ。
「どうなさいました、フランセスさま? ご気分でもお悪いのですか?」
「⋯⋯い、いいえ。大丈夫ですわ」
——私の坊や(それとも女の子かしら⋯⋯?)、たとえパパがいなくてもママがいっぱい愛情を注いであげるから大丈夫よ。
今必要なのは熱い紅茶だった。そして愛する姉妹たちからの助言だった。
ふらふらとした足取りで扉に向かう。
黒猫のエリザベスが「ニャア、ニャア」と鳴きながら足にじゃれついてくるので立ち止まった時だった。
ヴィクトルがこう言った。
「では婚約破棄の件はご納得いただけたと思ってよろしいのですね。それでは赤ちゃんが生まれたらご連絡します」
「⋯⋯?」
「黒猫と白猫の両親ですからたぶん両方の毛色が生まれるでしょう」
「⋯⋯??」
フランセスはゆっくりと振り返った。
「もしかして『婚約破棄』とは我が家の猫のフィリップとこちらの猫のエリザベスのことですの?」
****
「ヴィクトルさま、そんなにお笑いにならなくともいいではありませんか⋯⋯」
さっきからずーっとヴィクトルは笑っている。
プラチナブロンドの髪が乱れるほどの笑いっぷりで、青い瞳には涙まで浮かんでいる。
ふたりはスペンサー家の居間にいた。
フランセスの膝には黒猫のエリザベスがちんまりと丸まりお昼寝をしている。
テーブルには熱い紅茶とホカホカのスコーン。苺ジャムとクロテッドクリームもたっぷりある。
「いつまでお笑いになるおつもりですの?」
「⋯⋯す⋯⋯、すみません」
謝りながらもヴィクトルはまだ笑っている。
婚約破棄とは両家の猫のことだったのだ。
ちょっと前にウィンザー家の白猫とスペンサー家の黒猫はお見合いをした。
だけどスペンサー家の黒猫のエリザベスがちょっと嫌がったそぶりをしたので、ヴィクトルは「もう二匹を会わせるのはやめよう」と思ったようなのだ。
猫のことなのに『婚約破棄』という言葉を手紙に書いてよこしたのは、ヴィクトルなりの冗談だったようだ。
——動物に優しい心遣いはできる人だけど、冗談は下手なのね。
フランセスはそう思った。
ビーズの巾着バックの中からゴゾゴゾと取り出して手紙を読み返すとちゃんと『猫』と書いてあった。
『婚約破棄』の文字に驚きすぎて最後まで読まなかったので勘違いしてしまったのだ。
——勘違いしたのは悪いけど、いったいいつまで笑うのかしら?
心の中でため息をついた。
だけど同時に、
——こんなにお笑いになるのね、意外だわ。
とも思っていた。
冷たいとばかり思っていたヴィクトルだが、こうして笑っていると別人に見える。
ちょっと不器用だけど飼い猫のことを思いやれる優しさを持った、プラチナブロンドに青い目のとってもハンサムな青年だ⋯⋯。
——あら、胸筋も分厚いわ。素敵だわ。
とさえ思ってしまった。
そんなことを思ってちょっとドキドキしていると、やっと笑いがおさまったヴィクトルが真面目な顔をして話し出した。
「一つだけ覚えておいて欲しいのですが⋯⋯」
「なにをですの?」
「僕から婚約破棄をすることは決してありません。どんなことがあろうが絶対にありません——」
「あら⋯⋯」
「たとえ世界が終わろうともフランセスさまへの愛だけは永遠です——」
じっと見つめてくるヴィクトルの美しい青い瞳は燃えるように輝いていた。
とっても熱い視線だった。
触ったら火傷しそうなぐらい熱い⋯⋯。
——これってもしかすると例の『溺愛』がスタートするのかしら?
溺愛は王都の全女性の憧れだ。
これを体験できる女性は数えるほどしかいないらしい。
——ヴィクトルさまが私を溺愛?!
期待に大きく胸が膨らんだその時——、
「フランセス、助けに来たわよ!」
オロオロする執事を押しのけながらウィンザー家の四人の姉妹がなだれ込んできて、溺愛はおあずけになってしまった。
そして一ヶ月後——。
黒猫のエリザベスと白猫のフィリップの間に子猫が生まれた。
とっても可愛い三匹の白い子猫と一匹の黒い子猫だった⋯⋯。
〜終〜
お読みいただきありがとうございました^ ^
このお話は単独で読めますが、世界観は『幼女じゃないもん淑女だもん』シリーズと同じです♡