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第二章 ~『離縁と無礼者』~



 雪華(せっか)は後宮にある礼房(れいぼう)を訪れていた。ここは公的な手続きを行う場所であり、過去に婚姻届けを提出した時以来の訪問だった。


 礼房(れいぼう)の一角には、木製の長机がいくつも並べられ、宦官たちが筆を手にしている。彼らは無表情のまま、文面を確認したり、朱印を押したりする作業を続けている。机の脇には籠が置かれ、そこには受理された書類が積まれていた。


 香炉から漂う淡い香りが、役所特有の厳粛さをさらに引き立てており、宦官たちは淡々とした手つきで公務を進めている。


 雪華(せっか)は目当ての人物を探すため、室内を見渡す。すると、机の奥で朱印を押していた一人の宦官が、ふと顔を上げた。


「おや、雪華(せっか)礼房(れいぼう)に来るとは珍しいな」


 静慧(せいけい)は懐かしげに微笑む。痩せた体に墨染めの衣を纏い、背筋を伸ばした理知的な佇まいを持つ宦官で、その薄い眉と細長い黒い瞳は冷静な印象を与えている。雪華(せっか)にとっては旧知の間柄でもあった。


「……もしかして駄目だったか?」


 何がとは口にしない。静慧(せいけい)雪華(せっか)の身に何が置きたかを察していたからだ。


「浮気されてしまいまして……」

「趙炎だからな。あいつは男の俺から見ても駄目な奴だった」

「結婚したら変わると期待したんですけどね……」

「人は悪い方に変わるのは簡単でも、良くなる方に変わるのは困難だからな。趙炎のような欲に流されやすい奴だと特にな……でもまぁ、良かったんじゃないか。あの一年があったから、今の雪華(せっか)がある。だろう?」

「認めるのは癪ですがね……」


 趙炎が消えた一年は雪華(せっか)を大きく成長させた。それは領主としての能力だけでなく、画師としてもそうだ。


 趙炎への怒りが芸術に昇華され、後宮に画師として招かれるほどの実力に達したのだ。不本意ではあるが、彼の不貞がなければ、今の雪華(せっか)はいなかった。


「実際、雪華(せっか)の絵の評判は凄くてな。礼房(れいぼう)の壁に飾ってある暴れ馬の絵があるだろ。その絵を売ってくれと頼まれたことが何度もあるほどだ」


 静慧(せいけい)の視線の先に飾られた水墨画は、前脚を高く上げ、今にも駆け出しそうな勢いで暴れ馬が描かれている。


 墨の濃淡が絶妙に使い分けられ、馬の躍動感がいっぱいに広がっている。瞳は怒りに満ちて見開かれ、口元からは荒い息を吐き出しながら、たてがみが風に逆立つ様が生き生きと表現されていた。


「この絵は私の中でも挑戦的な作品だったので、褒められると嬉しいですね」

雪華(せっか)の作品は繊細さを売りにした絵が多いものな」

「でも、この馬の力強さは、作品に残したいと思えるほどに魅力的でした。その分、じゃじゃ馬でしたが……」


 雪華(せっか)は絵に描かれた馬を思い出しながら、小さく微笑む。すると静慧(せいけい)も懐かしそうに目を細める。


「あれは手強かったな……でも、雪華(せっか)がその馬を大人しくさせてくれた。あれは見事だったよ」


 それは雪華(せっか)の動物と話せる異能のおかげで解決した事件の一つだった。馬とのコミュニケーションの結果、暴れているのは、毎日の食事が少ないからだと分かり、量を増やす代わりに大人しくするようにと交渉したのである。


「昔話はこれくらいにして。離縁届けを受け取ろうか」

「ではこちらをお願いします」


 雪華(せっか)は懐から取り出した書類を丁寧に両手で差し出す。静慧(せいけい)はそれを受け取り、机の上で静かに広げると、内容を確認して、しっかりと朱印を押す。印を押す音が、趙炎との関係を終わらせたことを実感させた。


「これで無事に独身だな。次の縁談はどうするんだ」

「まだ決まっていません。なにせ別れたばかりですから」

「候補もいないのか? ほら、例えば、家令の男がいたよな」

「李明様は有力候補なのですが、最後の手段にして欲しいと断られてしまって……」


 李明は雪華(せっか)に好意的だ。だがそれは恋人というより、兄が妹に向けるような感情に近い。


 大切な人だからこそ、幸せになるなら同世代の人と結ばれて欲しいというのが、李明の望みだった。


「なので結婚相手はこれからじっくり探そうと思っています」

「いいや、それはマズイな」

「どうしてですか?」

「領地を治める卿士は、原則的に男である必要がある。雪華(せっか)がこの一年、領主代行を務めていたのは、趙炎が戦争に招集されたから特別に許されていただけだ」

「つまりすぐに跡継ぎとなる縁談相手を探さなければならないと?」

「三ヶ月以内だな。もしそれを超えたら、雪華(せっか)の意思を無視して、縁談相手があてがわれる可能性もある」

「それは避けたいですね……」


 健全に領地が運営されることは国家にとって重要だ。そのため、正式な領主が必要な理屈も理解できる。


 ただそうなると雪華(せっか)の感情は無視される。家柄や経験などから国家にとって最も都合の良い相手が割り当てられ、そこに拒否権はない。最悪の場合、趙炎のような浮気癖の強い男が婚姻相手になる可能性さえある。


「良い男を紹介してやりたいが、雪華(せっか)は離縁したばかりだからな……難しいかもしれないが、頑張って探してみるよ」

「素敵な殿方を期待しています」

「期待はほどほどで頼む。ちなみに理想はあるのか?」

「浮気しない人がいいですね」

「そればかりは保証できないな。ただ真面目で優しい男を探してみるつもりだ」

「お願いします」


 雪華(せっか)が礼儀正しく一礼すると、後ろから聞き慣れない声が割り込んできた。


「話は聞かせてもらったぞ」


 雪華(せっか)が振り返ると、そこには見覚えのない中年男性がいた。黒い短髪が無造作に伸びており、荒れた浅黒い肌や粗雑な身なりが印象を悪くしている。不遜な笑みを浮かべる彼に、雪華(せっか)は目を細めた。


「あなたは?」

「俺は呂晃(りょこう)。丁度、離縁したばかりでな。再婚相手を探していたのだ」


 呂晃(りょこう)と名乗った男は、まるで獲物を狙う猛禽類のように、鋭い目で雪華(せっか)を上から下まで観察する。その口元には薄っすらと嘲笑が浮かんでいた。


「顔は整っていて、悪くない。色気はないが、そこは我慢してやる。俺との縁談を喜んでいいぞ」


 呂晃(りょこう)は不遜な笑みを浮かべ、軽く肩をすくめる。そのあまりの無礼さに、雪華(せっか)は眉をひそめた。


(こんなに失礼な人が世の中にはいるのですね)


 趙炎とは違ったタイプの最低な人種だった。雪華(せっか)は冷たい視線に軽蔑を込めるが、呂晃(りょこう)は気にも留めていない。


雪華(せっか)、この男は止めておけ」


 隣で一部始終を見ていた静慧(せいけい)が、呆れたように小さくため息をつく。


「二度も浮気をして離縁されてるような奴だ。間違いなく、三度目もある」

「あの二回の浮気は俺が悪いわけじゃない。俺を満足させられなかった妻たちが悪いのだ」

「ほらみろ、こういう奴だ」


 静慧(せいけい)の助言を聞くまでもない。雪華(せっか)の中で答えは決まっていた。


「縁談はお断りします」


 雪華(せっか)の言葉に呂晃(りょこう)の笑みが消える。険しい顔つきになり、不機嫌そうに唇を結んだ。


「生意気な女だな。貰い手がいないのも納得だ」

「その言葉、そっくりそのまま、自分にも当て嵌まると気づいていますか?」

「うるさい! 貴様は俺の言う事に黙って従っていればいいんだ!」


 呂晃(りょこう)は苛立ちを爆発させ、雪華(せっか)の腕を掴もうと手を伸ばす。その手は大きく、力強い。礼房(れいぼう)の空気が一瞬にして張り詰めた。


 だが雪華(せっか)は動じない。彼の手が触れる前に、素早くその腕を掴み、体重を巧みに預けたのだ。


「なにっ!」


 次の瞬間、呂晃(りょこう)の大柄な体が宙に舞う。素早い動きで投げ飛ばされた彼の体は、空中で回転し、礼房(れいぼう)の床に激しく叩きつけられる。


 呂晃(りょこう)は床を転がり、背中を押さえながらうめき声を漏らす。


「いったい何が……」

「私が投げました」

「なんだとっ!」


 非力な雪華(せっか)に投げられたことに驚いていると、静慧(せいけい)が笑いを堪えて肩を揺らす。


雪華(せっか)は職業柄、危険な動物を相手にする機会も多いからな。その護身術の腕前は並の男よりも上だ。相手が悪かったな」


 対話できるとはいえ、それが失敗すれば、暴れる馬や狼に襲われることもある。動物を描く画師だからこそ、雪華(せっか)は暴力に対して身を守る術を会得していたのだ。


「クソッ、覚えていろよ!」


 呂晃(りょこう)は立ち上がると、捨て台詞を吐いて、礼房(れいぼう)の出口へよろよろと向かう。その背中を見送りながら、雪華(せっか)は微かにため息をついた。


「最低の人でしたね」

「だが三ヶ月以内に相手が見つからない場合、ああいう男と婚姻を結ばされる可能性がある」


 最悪のケースを想定して、雪華(せっか)はゴクリと息を飲む。幸せな結婚を手に入れるためにも、必ず相手を見つけてみせると、決意を新たにするのだった。


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