表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

6/40

第一章 ~『突きつけた証拠』~


 雪華(せっか)李明(りめい)趙炎(ちょうえん)の私室に足を踏み入れる。彼が戻ってくるまでに証拠の塗料を発見しなければならないため、二人の行動には焦りが見えた。


 時間が経つごとに緊張感が高まっていく中、雪華(せっか)は冷静に視線を巡らせる。壁際に置かれた棚には書物が整然と並んでおり、以前、この部屋を掃除した時から変わっていないことに気づく。


趙炎(ちょうえん)様の浮気が発覚してから、私はこの部屋を掃除していません。それは使用人の皆さんも同じですよね?」

「裏切り者に尽くすほど、僕らも暇じゃないからね」

「なら埃の有無で隠し場所を特定できるかもしれませんね」

「――ッ……さすが雪華(せっか)だ。それなら効率的に探せるよ」


 証拠の探索を進める中で、雪華(せっか)はふと机の上に目をやる。他の場所と違い、微妙な乱れが見て取れた。筆や紙が無造作に置かれており、積まれた書類が少し歪んでいる。あたかも何かを急いで片付けたような印象だった。


「この筆や紙は引き出しの中に仕舞っていたはずです」

「別のなにかを仕舞うために、代わりに外に出したのかもね」

「その予想、きっと正解です」


 雪華(せっか)はそっと引き出しの取っ手に触れる。埃が消えており、最近、開けられたことが伺える。


 引き出しを開けると、そこには塗料の瓶が仕舞われていた。雪華(せっか)は手を伸ばして、静かに瓶を取り出す。


「間違いなく、この塗料ですね……」


 画師の雪華(せっか)が見間違えるはずもない。手綱の切れ目を隠すために塗られていた塗料だ。


 引き出しの中に無造作に保管されていた事実に、雪華(せっか)は彼の怠慢さを再認識する。


「相変わらず、ツメの甘い人ですね」

「僕が指導していた頃からそうだからね。最後の最後で手を抜くから、何度も叱ったものさ」

「でも今の私たちにとっては好都合ですね」

趙炎(ちょうえん)の性格は計画の要でもあるからね」


 雪華(せっか)李明(りめい)趙炎(ちょうえん)の裏切りに対して、復讐方法を決めていた。彼の怠惰な性格を逆手に取り、追い詰める腹積もりだった。


(準備は整いましたね)


 対峙するための準備を整えた雪華(せっか)は、静かに息を吐き出す。緊張感を高めながら、扉が開くのを待つ。


 時間が過ぎ、やがてゆっくりと扉の開く音が響くと、その向こうで趙炎(ちょうえん)美蘭(びらん)が姿を現す。二人は雪華(せっか)たちの存在に気づくと、表情を強張らせる。


「なぜ雪華(せっか)がここに……後宮に行ったんじゃ……」


 驚愕と疑念の混じった声が、趙炎(ちょうえん)の口から漏れる。まさか自室で彼女が待っているとは夢にも思わず、動揺を隠しきれていなかった。


「それに李明(りめい)さんまで……」

「僕は雪華(せっか)の付き添いさ。君に大事な話があるそうだからね」

雪華(せっか)が俺に?」

「はい。この手綱について、あなたに聞きたいことがあります」


 雪華(せっか)の手には細工された手綱が握られていた。淡々とした態度とは裏腹に、その目には鋭い怒りが込められている。


「そ、それは……」

「仕掛けがしてありました。あなたは私を殺すつもりでしたね?」

「ち、違う、誤解だ!」


 趙炎(ちょうえん)は動揺しているのか、声を震わせる。そんな彼に追い打ちをかけるように、雪華(せっか)は塗料の瓶を提示する。


「手綱の細工を隠すために塗られた塗料を趙炎(ちょうえん)様の部屋から見つけました。同じものであることは調べればすぐに判明します。言い逃れはできませんよ」

「お、俺の部屋を勝手に調べたのか!」

「はい。あなたのことを信用していませんから」

「うぐっ……」

「警吏に突き出されるか、離縁するか。好きな方を選んでください」


 趙炎(ちょうえん)に提示した選択肢は脅しではない。彼が離縁を拒否するなら、躊躇なく警吏に突き出し、罪を償わせる覚悟だった。


 その厳しさに趙炎(ちょうえん)の顔は険しくなる。追い詰められた彼は、背中から冷たい汗を流して黙り込んだ。


 しばらくの間、静寂が流れ、緊迫した空気に包まれる。だが美蘭(びらん)の笑い声によって、打ち破られることになった。


「ここまできたら言い逃れできないわね。そうよ。私たちはあなたを殺そうとしたの」

美蘭(びらん)、お前、何を言って……」

「証拠を握られているのよ。座して待てば、私たちは破滅するわ。こうなったら賭けに出るしかないの」

「賭け?」

「幸いにも相手は二人。趙炎(ちょうえん)、あなたの力なら、始末できるでしょう?」


 美蘭(びらん)の目は冷たく光り、趙炎(ちょうえん)をそそのかすように語りかける。


「だが、そんなことをすれば……」

「真っ先に疑われるでしょうね。だから私が筋書きを用意するわ。犯人の李明(りめい)雪華(せっか)を襲ったというシナリオをね」

「無茶だ。そんな話、誰も信じるものか」

「でも何もしなければ破滅よ。なら僅かな望みでも賭けに出るべきじゃないかしら」

「それは……」

「やるしかないのよ」


 美蘭(びらん)の狂気じみた説得に、趙炎(ちょうえん)は戸惑いながらも頷く。苦悩を浮かべながらも、ゴクリと息を飲む彼に、李明(りめい)が反応する。


「君はそこまで落ちぶれるつもりかい?」

李明(りめい)さん……俺は……」


 趙炎(ちょうえん)はかすかに震える声で応える。かつて師事していた李明(りめい)の前で、こんな状況に追い詰められた自分を情けなく思う反面、もう引き返せないという重圧が彼の行動を縛りつけていた。


 趙炎(ちょうえん)は短く息を吸い込み、胸の前で拳を構える。ただ迷いを完全には払拭できていないからか、その構えには隙が生じていた。


 李明(りめい)もまた無駄のない洗練された構えを取る。


 緊迫した空気の中、睨み合う二人。


 そんな中、趙炎(ちょうえん)は耐えきれずに動き出そうとする。だがそれよりも早く李明(りめい)は彼の背後に回り込むと、腕を掴んで、背中に押し込んだ。


 そのまま床に押し倒された趙炎(ちょうえん)は、うつ伏せになりながら、息を荒げて藻掻く。顔が苦痛に歪み、身動きが取れなくなっていた。


「制圧完了だ」

「さすが、李明(りめい)様ですね」

「年を重ねたとはいえ、弟子に遅れは取らないさ」


 李明(りめい)は冗談めかして口にするが、長年の努力で培った実力は本物だ。場を掌握した雪華(せっか)は、趙炎(ちょうえん)を見下ろす。


「さて、状況証拠は十分です。正当防衛も成り立つでしょう。その上で趙炎(ちょうえん)様に聞きます。離縁しますか?」


 趙炎(ちょうえん)に選択肢は残されていない。彼の運命は今、雪華(せっか)の手の中に握られている。彼女の目は冷静でありながら、鋭く、容赦がない。


 その瞳に見据えられた趙炎(ちょうえん)は、何も言えずにただ黙り込む。敗北したことを悟るが、立場を捨てられるほどの覚悟ができていなかったからだ。


「もちろん、私も鬼ではありません。離縁には慰謝料が発生します。金貨百枚でいかがでしょうか?」

「金貨百枚!」

「さらに警吏に突き出しもしません。離縁届けに署名さえすれば、その場で開放しましょう」

「そんな上手い話……」

「それほどまでに、趙炎(ちょうえん)様と離縁したいのですよ」

「…………」


 警吏に捕まったとしても離縁には即座に繋がらない。もっとも迅速に別れる手段こそ、互いが同意しての離縁届けの提出だった。


 地獄に垂らされた一本の蜘蛛の糸のような提案に、趙炎(ちょうえん)は息を呑む。


 断れば、無一文で警吏に突き出される。そうなるよりはマシかと、彼が頷こうとすると、美蘭(びらん)が待ったをかける。


「信じられないわ。金貨百枚もの大金、本当に払えるの?」

「私は卿士(けいし)ですから。用意できない金額ではありませんので」

「でも……」

「論より証拠。こちらが金貨百枚です」


 腰に提げていた革袋を取り出す。その中にはずっしりと金貨が詰まっており、雪華(せっか)の話には十分な説得力があった。


「これだけの大金があれば、しばらくは遊んで暮らせるわね」

「離縁を受け入れてくれますね」

「もちろんよ。趙炎(ちょうえん)もいいわね?」

「あ、ああ……」

「話が早くて助かります」


 雪華(せっか)は伏している趙炎(ちょうえん)の前に離縁届けを差し出す。重厚な書面には離縁後の扱いや、慰謝料に関する詳細が記されている。


李明(りめい)様、彼を離してあげてください。実力差は理解できたでしょうし、もう暴れたりはしないでしょうから」


 取り押さえていた趙炎(ちょうえん)を開放すると、雪華(せっか)の予想した通り、彼は大人しく筆を受け取る。


「どこに署名すればいい?」

「内容を一読して、署名欄にお願いします」

「分かった」


 趙炎(ちょうえん)は離縁届に目を通すと、眉間にシワを寄せる。武に優れていても、こうした面倒な書類に苦手意識が強く、怠惰な性格の彼は、書面の内容を読んで理解する力が欠けていた。


 離縁届けのほとんどを読み飛ばした後、署名欄に筆を走らせる。


「書き終わったぞ。これで赤の他人だ」

「確かに」


 雪華(せっか)は署名を確認し、静かに頷く。その瞳には満足感が浮かんでいた。


「では契約通り、金貨百枚を払ってもらいましょうか」

「はぁ?」

「ふふ、私はこう言いましたよ。金貨百枚を慰謝料として支払うと。浮気されたのは私なのですから。支払うのは趙炎(ちょうえん)様に決まっているでしょう」


 趙炎(ちょうえん)は耳を疑ったように唖然とする。彼が思っていた展開とは異なり、浮気の代償として慰謝料を請求されている事実に驚愕を隠しきれなかった。


「感謝してくださいよ。たった金貨百枚で許してあげるのですから」

「ふ、ふざけるな! 俺を騙したのか!」

「あなたが勝手に勘違いしただけです」

「なら、その革袋の金貨はどうなる!」

「私は金貨百枚を用意できると伝えただけです。払うとは一言も口にしていません。それに大切なのは契約の内容です。離縁届けにはしっかりと趙炎(ちょうえん)様が金貨百枚を支払うと記されていますから」

「それは……」


 分厚い離縁届は内容を把握させないための雪華(せっか)の罠だったのだ。怒りと悔しさで歯を食いしばりながら、趙炎(ちょうえん)は抗議の眼差しを向ける。だが彼よりも先に反応を示したのは美蘭(びらん)だった。


「待って、どういうこと?」

趙炎(ちょうえん)様が私に金貨百枚を支払っての離縁が成立したのです」

「ふ、ふざけないで!」

「私は冗談が嫌いですから。これはすべて事実です」


 美蘭(びらん)は眉をひそめ、鋭い目つきで雪華(せっか)を睨みつける。だが抗議しても無駄だと悟ったのか、すぐに視線を趙炎(ちょうえん)へと移す。瞳には軽蔑の色が浮かんでいた。


「なら趙炎(ちょうえん)に価値なんてないじゃない!」

「び、美蘭(びらん)……お、お前……俺のことを愛して……」

「ふん、金もない、学もない。多少顔が良いだけの腕っぷし自慢の男なんて世の中にいくらでもいるの。もうあんたに用はないわ」

「――ッ……美蘭(びらん)!」

「じゃあね。私は次の男を探すわ」


 美蘭(びらん)は冷たく、そして無情に背を向けて部屋を後にする。その背中からは未練の欠片も感じられない。


 趙炎(ちょうえん)美蘭(びらん)の冷酷な言葉を受けて、呆然とする。深く傷ついた彼は、失望と無力感に打ちひしがれていたが、このままではいけないと、その背中を追いかける。


「待ってくれ、美蘭(びらん)!」


 趙炎(ちょうえん)の声が廊下から届く。少しずつ消えていく足音が、彼らがこの場から去ったことを教えてくれた。


「終わったね」

李明(りめい)様のおかげです」

「馬鹿な弟子を育てた責任を取っただけさ」


 李明(りめい)は肩をすくめ、軽く笑いながら答えると、離縁届けを手に取る。


「金貨百枚の取り立ては僕に任せて欲しい。街の金融屋に知り合いがいてね。回収をお願いする予定だから」

趙炎(ちょうえん)様はきっと後悔しますね」

「間違いなくね。なにせ、こんな素敵な女性を捨てたのだから」


 李明(りめい)の慰めの言葉に雪華(せっか)は微笑む。もう結婚はこりごりだと、すべてが終わった開放感に肩の力を抜くのだった。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ