第一章 ~『反撃の狼煙』~
趙炎が戦場から帰ってきた日の翌朝。柔らかな光に包まれながら、雪華は寝台の上で目を覚ます。重たいまぶたをゆっくりと開けて起き上がると、窓辺のカナリアに気づく。
モフモフとした小鳥は、雪華の友人のリアである。その澄んだ鳴き声は普通の人間だと意味をなさないが、動物と意思疎通の取れる雪華にとっては違った。
「さっそく動きがありましたか!」
リアは趙炎たちの企みを知らせてくれる。馬車の手綱に細工をして、事故に見せかけて雪華を始末しようとしていたのだ。彼らの計画に怒りを沸き立たせ、拳を強く握る。
(浮気するばかりか命まで奪おうとするなんて……許せませんね!)
雪華は素早く身支度を整えると、部屋を飛び出して廊下を進む。足取りは軽やかでありながらも、その目には決意が宿っていた。
屋敷の庭の一角にある車房には、馬車が繋がれており、古びた木の柱がしっかりと天井を支えていた。
「雪華がここに顔を出すとは珍しいね」
声をかけてきたのは、使用人を束ねる家令の李明だ。背丈の高さと凛々しい顔立ちが風格ある雰囲気を漂わせている。
雪華が幼い頃から屋敷に仕え、建物の管理から予算計画の立案に至るまで、屋敷全体の運営を支えてきた立役者であり、彼女にとって兄のような存在でもあった。
「ここに顔を出すのは何年ぶりだい?」
「私がまだ独身の頃ですから。一年以上前ですね」
幼い頃は馬と会話するために頻繁に車房へと足を運んでいた。そんな彼女を懐かしむように、李明は口元に笑みを浮かべる。
「あの頃の雪華は本当に可愛かった……もちろん今も魅力的だけど、一年前はまだ少女特有の無邪気さが残っていたからね……」
李明は変化の原因に心当たりがあった。
その一つは両親を流行り病で亡くしたことだろう。深い悲しみに加えて、領地運営という重責が成熟した大人へと成長させたのだ。
だがそれだけが理由ではない。最大の要因は趙炎の浮気だ。夫の裏切りが彼女から無邪気さを奪い取ったのだ。
「この一年は李明様にもご迷惑をおかけしましたね」
「君のことは先代からも頼まれていたからね。それに雪華の役に立つのが僕の生き甲斐なんだ。苦労だと感じたことはないよ」
「……私は周囲の人に恵まれましたね」
「それは君の人徳のおかげさ。もし趙炎のような不義理な性格だったら、いくら先代の頼みでも君から離れていただろうからね」
卿士として相応しい人格を持つからこそ皆が付いていくのだと、李明は優しい声で続ける。その言葉は雪華にとって大きな支えとなり、心を軽くしてくれた。
「話が逸れたね。それで、どうして車房に?」
「実は馬車の手綱が切れるような仕掛けがされているとリア様からお聞きしまして……」
李明は雪華の動物と話せる特技を知る数少ない人間の一人だ。カナリアが彼女の耳となっていると知っているからこそ、疑いを持つことなく、話を受け入れる。
「趙炎の仕業かな?」
「愛人の美蘭様と結託して、犯行を計画したそうです」
「それは許せないね……」
李明は表情を強張らせると、冷静さを保ちながらも警戒心を高めていく。
「欲望に忠実な男だとは思っていたけど、ここまで馬鹿とはね……」
「李明様は趙炎様のかつての指導係でしたよね?」
「剣術や格闘術のね。だからあいつの性格は良く知っているつもりだったんだけどね」
李明の顔に苦笑が浮かぶ。厳しい訓練を重ねる中で、趙炎との師弟関係を深めてきたからこそ、彼に対する失望は大きく、瞳に悲しみが浮かんでいた。
「こんなことなら、雪華とは僕が結婚しておくべきだったね……」
「真っ先に候補に挙がったのに、断るからですよ」
「仕方ないだろ。僕は君より一回り上だし、遠慮もするさ。できれば、雪華には同世代の男と幸せな家庭を築いて欲しかったんだが……まさかこんなことになるなんてね……」
李明は深い溜息をつきながら、後悔を滲ませる。
趙炎は自らが手塩にかけて育てた弟子であり、信頼を寄せていた存在だった。その彼が雪華を危険に晒す行動に出たことに強い憤りを感じ、無意識に拳を握りしめていた。
「僕も手綱に細工されているかどうかの確認を手伝うよ」
「本当ですか?」
「弟子の不始末は師匠である僕の責任でもあるからね」
「では、お願いします」
車房に置かれている馬車は一台だけである。ゆっくりと手を伸ばして、革製の手綱を慎重に指でなぞり始めた。ふと怪しいと感じた場所を念入りに調べてみると、指先に切れ目が引っかかるような感触が広がった。
「仕掛けがあるのはここですね」
目を凝らしてみると、手綱には薄い切れ込みが入っている。一見しただけでは気づかないほど巧妙な仕掛けだった。
「よく気づいたね」
「手綱の塗料がここだけ違いますから。切れ目を隠すために、後から塗り直したのでしょうね。後宮で画師の仕事をやってきた甲斐がありました」
仕事柄、塗料の細かな違いに敏感だからこそ細工に気づけたのだ。画師としての経験が、雪華を守ったのだ。
「裏切りの確証も得た。さすがに離縁すべきだと思うよ」
「同意見です。ただ証拠がなくて……」
「それなら切れ目を隠すために使った塗料はどうかな?」
「それは十分に証拠になりますね。きっと横着な趙炎のことですから、証拠を隠滅してもいないでしょうしね」
「あいつのことだ、部屋に隠したままだろうね」
「それに塗料を扱うのは、私の馴染の店ばかりですから。趙炎様が購入したかどうかもすぐに分かるはずです」
昨日、計画を立てたばかりだとすると、一日で移動できる範囲は限られる。購入店舗の特定も容易いだろう。
「部下に命じて、趙炎と美蘭を呼び出させるよ。高級な菓子を振る舞うとでも言えば、欲に忠実な二人だ。必ず応じるはずだ」
「その隙に、私たちで部屋を調べるのですね」
「理解が早くて助かるよ」
雪華は李明と目を合わせて深く頷く。自分の命を狙う者たちに反撃する瞬間がやってきたのだと、決意を宿すのだった。