第五章 ~『蛇の密室の真相』~
雪華は静かな廊下を歩きながら、医房の扉の前で一度立ち止まった。扉の向こうから漂う薬草の匂いが、かすかな湿り気を帯びた空気と共に鼻腔をくすぐる。
「失礼します……」
扉を開けると、医房の中はひっそりと静まり返っていた。白い布で覆われた寝台の上には紫蘭が横たわり、窓から差し込む柔らかな光が顔を照らしている。
(意識はまだ戻っていないようですね……)
紫蘭の瞼は固く閉じられたままだ。顔は青白く、小刻みに呼吸を繰り返している。
「紫蘭様……」
雪華はその顔を見つめながら、拳を強く握りしめる。そんな時だ。扉が開かれ、承徳が姿を現す。その後ろには趙炎と邪蓮が続いていた。
趙炎は少し沈んだ様子な一方で、邪蓮は飄々とした態度で不敵な笑みを浮かべている。その視線は意識のない紫蘭へと向けられていた。
「雪華、二人を連れてきたよ」
「ありがとうございます、承徳様」
これで役者は揃った。後は事実を突きつけるだけだ。
「真相が分かったそうね。それで、真犯人は誰なの?」
「それはあなたが一番分かっているはずですよ」
「私が犯人だと言いたいわけね」
「はい、あなたが今回の事件の首謀者です」
雪華ははっきりと断言する。それを聞いた邪蓮は不愉快そうに目を細める。
「忘れたの? 私にはアリバイがあるのよ」
「知っていますとも。そのアリバイを崩したからこそ、あなたが犯人だと伝えているのです」
「なら推理を聞かせてもらいましょうか」
邪蓮は虚勢を張るように腕を組む。雪華は息を吸って心を落ち着かせると、淡々と語り始めた。
「本題の前にまずは事件の密室から振り返りましょう。正面入口に鍵が掛かり、予備の存在も知られていなかった。傘立てから発見できれば別ですが、それはきっと難しいでしょうから。部屋は密室と呼んで間違いないでしょう」
人は部屋の中に出入りできなかった。その前提で道筋を立てていく。
「ですが採光用の窓からなら、人は無理でも蛇なら侵入できます。実際、鱗が落ちていましたから。この推理には確信があります」
訓練させた蛇に針を運ばせ、人間の仕業に見せかけながら紫蘭を襲わせた。それが事件当日に行われた出来事だ。
「ただこれを実現するには、よく訓練された蛇が必要です。そして、犯人には紫蘭様を襲うだけの動機も求められます」
「それで私を怪しんだというわけよね?」
「はい、ですが、あなたにはアリバイがありました。襲われた時間帯に占いをしていましたから……ですが、それは協力者がいれば覆ります。趙炎様が実行犯として、蛇を宿舎まで連れて行ったのですね」
「馬鹿馬鹿しい。根拠のない言いがかりよ」
「いいえ、根拠ならあります」
雪華は趙炎を見据える。その視線に彼は僅かに後退る。
「実行役には蛇との信頼関係が求められます。そのために趙炎様は蛇の世話を手伝っていたのではありませんか?」
「お、俺は……世話なんて……」
「占房に顔を出した時、蛇が趙炎様に好意を向けていました。人懐っこい蛇ではありますが、明らかに他人以上の感情が込められていました。その理由を説明できますか?」
「…………」
動物の声が聞こえる雪華は、邪蓮の飼っていた蛇が趙炎に懐いていると知っていた。確信めいた雪華の問いに趙炎は黙り込む。
そんな彼の代わりとでも言わんばかりに、邪蓮が一歩前へ出ると反論する。
「もし仮に趙炎が世話をしていたとして、まだ蛇のアリバイがあるわ」
「それも説明できます。蛇が二匹いればアリバイを崩せますから」
「――ッ……な、なにを馬鹿な……」
「おかしな話ではありませんよね。蛇は占いの肝ですから。不慮の事故が起きた時のために保険となる別の相棒を用意するのは自然ですから」
「うぐっ……」
見破られるとは思っていなかったのか、邪蓮は歯を噛み締めながら黙り込む。
(私でも見間違えるほど、瓜二つの蛇でしたから……騙し通せる自信があったのでしょうね)
最初に感じた違和感の正体は、以前見た蛇と少しだけ姿形が変わっていたからだ。その変化は僅かだったため直感としてしか感じ取れなかったが、改めて振り返ると、別の蛇だと断言できた。
「ただ二匹目の蛇は訓練不足だったのでしょうね。紫蘭様を襲う大役は任せられません。だから、あなたは占いで二匹目を使っていたんです」
その言葉に最初に納得したのは承徳だ。彼は占房での出来事を思い出したのだ。
「そういえば、珍しく占いを外していたね。なるほど。訓練不足の蛇では占うにはまだ力不足だったというわけか……」
この推理が正しいなら、アリバイはすべて崩れる。邪蓮のアリバイは趙炎が実行役を代行することで崩れ、蛇のアリバイは二匹目に占いを任せることで説明できるからだ。
「し、証拠はあるの?」
「実は先程、趙炎様の部屋の前まで伺ったのですが、子狼のシロ様が蛇の匂いがするからと強い拒否反応を示しました。きっともう一匹が中にいますよね?」
「うぐっ……」
邪蓮は黙り込む。拒否したとしても、承徳なら捜査の名目で中を調べることができるからだ。
部屋の空気が張り詰めていく。そんな中、突然、重苦しい沈黙を破る声が響いた。
「もう認めるしかないな……俺たちが犯人だ」
「趙炎!」
「証拠もある。どうせ言い逃れはできない……それにな、俺はこれ以上、恥を重ねたくないんだ」
趙炎は苦悩に満ちた表情でそう呟く。その言葉を耳にした邪蓮は絶望するように、膝から床に倒れ込んだ。肩を小刻みに震わせ、唇をかすかに動かしながら涙を零す。
「破滅よ……紫蘭のせいで、またすべてを失うのよ……」
虚ろな目で絶望する邪蓮。その言葉に雪華が反応する。
「紫蘭様と幼馴染だったと聞いています。二人の間に何が起きたのか、私にも教えてくれませんか」
「…………っ」
雪華の問いに邪蓮はしばらく無言を貫く。だがやがて、諦めたように口を開いた。
「私と紫蘭は同じ村の生まれなの。農業が盛んな村で裕福とは言えないものの、食べるのに困らない生活が続いたわ……そう、あの時までは……」
「飢饉ですか?」
「ええ。農作物が取れなくなり、貧困が村を襲ったわ。でも食べていくには、お金が必要だった……村の大人たちが相談して、若い女を一人だけ後宮に売ることで話が付いたわ」
邪蓮の声に怒りと苦しみが入り混じっていく。当時の感情が生々しく蘇っているかのようだった。
「候補は私か紫蘭のどちらかだった。でも当時の私は紫蘭に友情を感じていたから、助けるために自ら立候補したの」
その結果、邪蓮は幼いながらも後宮で働くことになったのだ。
「私は何通も手紙を書いたわ。後宮に会いに来て欲しいと……でも紫蘭からの返信は一度もなかった。送った数が百を超えても、それは変わらない……私は進んで犠牲になったのに、紫蘭は私を捨てたのよ……」
邪蓮の声は震えを帯び、最後の言葉はほとんど叫びに近かった。感情を爆発させる彼女に、承徳は落ち着いた声で語りかける。
「君の考えは間違っているよ。紫蘭は君を捨ててなんかいない。なにせ手紙は途中で破棄されていたからね」
「どういうこと?」
「手紙はまず村長がまとめて受け取り、その後、村人に配られる。つまり……君の両親が手紙を渡していなかったんだ」
邪蓮の表情が揺れる。承徳は一歩前に進むと、冷静に言葉を続けた。
「君の両親が村長になれたのは、能力でもなければ、人望でもない。一人娘を後宮に売って、村を救った功績のおかげだ。でも同じように犠牲になる者が現れれば、その立場は揺らいでしまうと恐れた。だから紫蘭が後宮に行くキッカケに繋がりそうな手紙を、君の両親は破棄したんだよ」
「う、嘘よ……そんなの……」
「本当だ。だからこそ、大人になった紫蘭は、君のことが心配で後宮に画師として雇われたんだ」
「そ、そんな……ぅ……」
声が震え、否定しようとするものの、心のどこかで真実だと感じたのか反論は続かない。肩を小刻みに震わせながら、その背中には後悔と自責の念が滲んでいた。
「私は……友人を……裏切ってしまった……」
邪蓮は手で顔を覆ったまま泣き崩れる。悲痛な声は全員の胸を締め付け、静寂の中で響き渡る。
そんな時だ。紫蘭の体が微かに動く。雪華が驚きながら顔を覗き込むと、瞼がゆっくりと開かれる。
「紫蘭様!」
「雪華……」
紫蘭の唇が僅かに動いて、か細い声が漏れる。意識を取り戻したのだ。
「どうして……生きて……」
蛇に命を奪うようにと命じたはずなのにと、邪蓮は驚く。その答えを雪華は持っていた。
「毒が弱かったのではないでしょうか……きっと邪蓮様に人を殺させたくないと、加減してくれたんです」
蛇は人が考えるよりも賢い。主人に過ちを犯させないため、命までは奪わなかった。だからこそ取り返しのつかない事態を避けられたのだと、雪華は続ける。
邪蓮は紫蘭が生きていた喜びで涙の勢いを強める。その泣き声は静寂の中で大きく響き渡るのだった。




