第四章 ~『蹴られた趙炎』~
事件から数日が経過し、いつもの日常が戻ってきた。朝露に包まれる中庭では木々の葉が風に揺れ、時折、鳥の囀りや女官たちの談笑の声が聞こえてくる。
(黒羽様の件が無事解決したので、心も晴れやかですね)
結局、事件はただのイタズラとして処理されたため、黒羽にお咎めはなかった。
もちろん公的な罰がなかっただけで、ペナルティが何もないわけではない。友人たちからの評価は悪化しただろうし、悪い噂は流れるだろう。
それもあってか黒羽は以前のような堂々とした態度を取らなくなった。目を合わせることを避けるように視線が下がり、威圧的な雰囲気も影を潜めるようになった。
もう二度と雪華を罠に嵌めようとはしないだろう。それほど黒羽の態度には反省が浮かんでいた。
(紫蘭様は今日こそ画房に来ているでしょうか……)
ここ数日、紫蘭は姿を現さなかった。無事であることを祈りながら、画房に到着した雪華は扉を開ける。
いつものように墨の香りが出迎えてくれるが、紫蘭の姿はどこにもない。静まり返り、机には微かに埃が積もり始めていた。
(もしかして病気でしょうか……)
心配になった雪華は画房を後にして、早足で来た道を戻る。廊下を進む度に、胸のざわめきは強くなり、冷たい汗が背筋を伝った。
(紫蘭様の部屋は確か……ここですね)
以前、教えてもらった記憶を頼りに部屋の前まで辿り着くと、雪華は扉を軽く叩く。音が廊下に響いた後、部屋の中の反応を伺っていると、ようやく微かな足音が聞こえてきた。
軋む音と共に扉が開かれ、紫蘭が姿を現す。顔色は優れず、目の下には薄い影が落ちており、服の袖にも皺が目立った。
「雪華……どうしてここに?」
「長らく姿を現さないので、病気なのではと心配になりまして……」
「あなたは本当に優しいわね……廊下で話をするのも何だし、中に入りましょうか」
紫蘭に招き入れられて、雪華は室内に足を踏み入れる。
部屋は広く、天井近くに設置された採光用の窓から光が差し込んでいる。壁際には書棚や寝台が並び、中央には大きな机が置かれている。その上には開封済みの手紙が山のように積まれていた。
「もしかして、体調不良の原因はこの手紙ですか?」
「さすが、雪華。なんでもお見通しね。でもどうして分かったの?」
「机の傍のゴミ箱に、怒りをぶつけたように丸めた手紙が捨てられていますから」
だからこそストレスの発生源は手紙であると、雪華は瞬時に見抜いたのだ。それを認めた紫蘭は、観念したように口を開く。
「実はね、この手紙は故郷の村長から送られてきたの……後宮務めなら儲かっているだろうからと、給金をこちらにも渡せと要求してきたの……」
「……故郷の村は困窮しているのですか?」
「まさか。ここ数年は豊作続きだもの」
「ならどうして?」
「ようするに遊ぶ金が欲しいのよ。贅沢するにはお金がいくらあっても足りないもの」
紫蘭の声には苛立ちが含まれていた。理不尽な要求が体調を崩すほどの怒りを生んだのだ。
「それは苦労しましたね……私にできることがあれば、いつでも頼ってくださいね」
「ありがとう。その優しさで救われるわ」
紫蘭の目元が少し柔らかくなり、笑みが浮かぶ。そして意を決したように言葉を重ねる。
「明日からきちんと職場に行くわ」
「約束ですよ」
「ええ、約束よ」
それから二人は他愛のない会話を重ね、雪華は宿舎を後にする。紫蘭の無事を確認できたため、その足取りは軽かった。
画廊までの回廊は穏やかな空気が流れていた。
だが静けさを壊すように遠くから荒っぽい声が届く。
低く怒鳴るような声と、時折響いてくる笑い声を耳にして、雪華の眉が僅かに寄る。
音の正体を確かめるために足を向けると、数人の宦官が集まり、倒れ込んでいる男性を蹴り上げている光景を目撃する。
(あれは、趙炎様っ)
地面に蹲る趙炎の服には泥がつき、髪も乱れている。周囲の宦官たちは嘲笑を浮かべながら彼を足蹴にしていた。
「待ちなさい!」
雪華の鋭い声が響く。それに反応した宦官たちは驚いたように振り向いた。
「弱い者虐めは止めなさい」
雪華が力強い言葉で忠告すると、宦官たちは嘲笑を深める。
「俺たちは無能に指導していただけだ」
「暴力を振るっていたではありませんか!」
「こいつが口で言っても聞かないからだ」
宦官たちのリーダーと思われる男が肩をすくめて、薄笑いを浮かべる。続くように別の宦官が口を開く。
「もしかして趙炎の恋人だったりしてな」
「まさか。ただの知り合いです」
「なら口出しするんじゃねぇよ」
「いえ、私は理不尽な行いが嫌いですから。これ以上続けるようなら、あなたたちの上司に報告させていただきますよ」
雪華の一言に宦官たちの表情が強張る。だがその内の一人は怯むことなく、怒りに駆られて雪華に向かってくる。
「生意気な女だな」
「よく言われます。ですが、生き方を変えるつもりはありません」
「……ならお前も指導してやる!」
宦官が怒りに任せて拳を振り上げる。だが仲間の宦官が慌てて口を開いた。
「ま、待て! こいつ画師の雪華だ! 上層部にもファンがいる。揉めるのはまずい!」
それを聞いた宦官は雪華の名前を知っていたのか、バツが悪そうに拳を引っ込める。
「ふん、女に助けられたな」
それだけ言い残して、宦官たちは去っていく。その背中を見送ってから、雪華は趙炎に手を差し出す。
だが趙炎はそれを無視して、自力で立ち上がる。土を払いながら、険しい顔で雪華を睨みつける。
「俺を助けて、恩を売ったつもりか?」
「恩を仇で返す人にわざわざそんなことしません。不快だったから助けた。それ以上でも以下でもありません」
「うぐっ……」
趙炎は雪華を正面から見据える。彼の瞳には怒りと悔しさが渦巻いていた。
「お、俺は出世のために耐えていただけで、いつでも奴らを倒せるんだ。だから俺は……クソッ!」
趙炎は拳を握りしめると、顔を隠すように壁に手をつく。その肩は小さく震え、涙が頬を伝っているのが見えた。
「どうして……こんなことに……」
低く漏れる声を聞いて、雪華はその場から静かに離れる。現状を後悔しながら、彼は涙を流すのだった。




