第一章 ~『帰ってきた夫』~
後宮で画師としての仕事を終えた翌日、とうとう趙炎が戦地から返ってくる日がやってきた。
胸の鼓動が少しずつ早くなるのを感じながら、雪華は屋敷の玄関前に立つ。
木の扉は温かみを感じる光沢を放っており、扉の前には絨毯が敷かれ、両脇には陶器が飾られている。玄関全体に静かな空気が流れ、香炉から漂う香りが空間を包んでいた。
(とうとう会えるのですね……)
結婚してから手を繋いだことさえない相手だ。手紙のやり取りも拒絶されたため、愛情もない。だが裏切られた悲しみがないといえば嘘になる。
(必ず、後悔させます!)
雪華が待っていると、ゆっくりと扉が開かれる。現れたのは一年前より日焼けしているものの、それ以外は大きく変わらない趙炎の姿だった。
「久しぶりだな、会いたかったぞ」
趙炎は足を踏み入れると、抱きつこうと腕を広げる。だが雪華はその動作に気づくと、軽く身を引いて抱擁を躱す。その瞬間、趙炎の笑顔がわずかに崩れ、困惑の色が浮かぶ。
「どうして拒否する?」
「この一年間であなたのことが嫌いになったからです」
「おいおい、俺は国のために働いていただけで……」
「自分に非はないと? 私に謝るべきことがあるのではありませんか?」
「そ、それは……」
雪華の問い詰めるような視線に、趙炎はたじろぐ。後退りながらも、何とか口を開いた。
「手紙の返事をしなかったことを怒っているのか?」
趙炎は少し間を置いてから問いかける。それは雪華の望んだ答えではなかった。
(素直に浮気を謝罪するなら、情状酌量の余地はありましたが……)
怒りを滾らせた雪華は眼光を鋭く輝かせる。だが肩をすくめる彼は取るに足らないとでも言いたげで、反省の色がなかった。
「返信をしなかったことは謝罪する。だが俺が横着な性格だと知っているだろ。それに仕事が忙しかったんだ。仕方ないだろう」
「……言い分はそれですべてですか?」
「俺は手紙をきちんと読んではいたんだ。だから後宮で画師をしていることや、動物の絵が得意なことも知っている……愛情が冷めたわけじゃないんだ。俺が雪華一筋なのは変わらない。約束した通り、これからは幸せな結婚生活を過ごしていこう」
浮気しておきながら堂々と愛を囁やく面の皮の厚さに驚く一方で、なぜ本命の相手がいるのにこのような態度を取るのか。疑問の答えに雪華はすぐに辿り着く。
(私に愛はなくとも、立場を失いたくないのですね)
卿士の地位を保ちながら、表面上は幸せな結婚生活を演出する。その影で浮気相手と一緒に雪華のことを笑うのだ。
(そうはさせるものですかっ!)
雪華の心で決意が固まる。趙炎の態度の裏に潜む意図を見抜いたからこそ、彼の都合の良いように事を運ばせるわけにはいかない。
二人の間にまるで刃を交えるかのような緊張感が漂っていく。その険悪な雰囲気は新たな客人を呼び寄せた。
廊下を一匹の幼い狼が駆けてくる。柔らかな白の毛並みを持つ狼は、鋭い耳をピンと立て、警戒心を顕にしながら、雪華の傍で唸り声をあげる。
「なんだ、この狼はっ!」
「私の大切な家族のシロ様です。可愛いでしょう?」
「可愛いわけがあるかっ! 狼だぞ!」
「まだ子供ですし、私には懐いていますから」
「俺には威嚇しているだろ!」
シロと呼ばれた子狼は歯を剥き出しにしている。自分よりはるかに大きな趙炎に対しても、一歩も引かない姿勢を見せた。
「無闇に人を襲ったりはしませんので安心してください」
「だが……」
「私の友人を信用できないのですか?」
「そういうわけではないが……」
趙炎は口ごもりながら答えると、狼の威嚇を雪華からの非難のように受け取り、目を逸らす。だがすぐに表情を改め、その口元に笑みを浮かべた。
「分かった。雪華の友人を認めよう。ただしそれはお互い様だ」
「どういう意味ですか?」
「俺にも紹介したい人がいる」
趙炎は扉を開けると、手を振って、合図を送る。すると現れたのは、華やかな顔立ちの女性だった。服装は娼婦のような派手さがあり、涼やかな目つきで堂々としている。口元には雪華を馬鹿にするような嘲笑を浮かべていた。
「こいつは美蘭。俺が戦場で知り合った友人だ」
「愛人の間違いではありませんか?」
「ば、馬鹿をいうな。俺と美蘭はただの友人だ。それとも夫の浮気を疑うのか?」
白々しく軽薄な態度は雪華の心に冷たい怒りを植え付ける。何事もなかったかのように浮気相手を堂々と連れ帰ってくる無神経さは、どれほどに雪華を軽視しているかを物語っていたからだ。
(今はまだ我慢しないと……)
心の奥底から湧き上がる怒りを抑え込む。冷静な態度を保とうと努力するが、完全には敵意を消せなかったのか、美蘭が反応する。
「ふ~ん、この娘が趙炎の奥さんなのね」
美蘭は口角を上げて、ゆっくりと値踏みするように上から下まで視線を巡らせる。そしてわざとらしく息を漏らして笑う。
「顔は整ってるけど、色気が駄目ね。白い結婚だったのも理解できるわ」
その声には軽蔑の色が混じっていた。まるで自分の方が女として上だと言わんばかりの態度である。
「私を侮辱するつもりですか?」
「だって結婚したのに、手を出されなかったなんて……私があなたの立場なら恥ずかしくて生きていけないもの」
「価値観の相違ですね。私は異性から魅力を評価されなくても恥だとは思いませんので」
「負け惜しみね」
「本音ですよ。それに初対面の人に失礼な態度を取る品性の方が、よほど恥ずかしいですから」
雪華は相手の侮蔑を軽く受け流し、静かに反論する。その言葉は表面的な魅力に依存する美蘭の弱さを突くもので、怒りで顔が赤く染まる。
「このっ!」
手を振り上げ、鋭い平手打ちが放たれる。パチンという破裂音が響き、雪華の白い頬は赤くなった。
だが雪華の鋭い眼光は弱まらない。強い敵意に美蘭が後退ると、それに反応するように白い影が動き出す。
雪華の友人である子狼のシロが主人を傷つけられた怒りと忠誠心に燃えていたのだ。素早く美蘭の腕に飛びつき、その手に噛みつく。子供とはいえ狼だ。鋭い牙が食い込み、血が流れる。
「――ッ……は、離れなさい!」
美蘭が苦痛で顔を歪ませていると、趙炎がシロを強引に引き剥がす。容赦なく地面に叩きつけ、その横腹を蹴り上げた。
「シロ様!」
雪華は思わず叫んで、シロに駆け寄る。幸いにも怪我はない。ほっと胸を撫で下ろすと、怒りで眉間に皺を寄せる二人と対峙する。
「なんて物騒なものを飼っているのよ!」
「そいつを俺に渡せ。処分してやる!」
美蘭と趙炎は声を荒げる。だが雪華は冷静だった。
「趙炎様、怒りの矛先が違うのではありませんか?」
「どういうことだ?」
「あなたの妻が侮辱され、暴力を受けたのですよ。シロ様に感謝することはあっても、批難するのは筋が通らないのでは?」
「そ、それは……」
「それとも美蘭様とは特別な関係なのでしょうか?」
「ち、違う。俺と美蘭はただの友人だ。そうだよな?」
趙炎と美蘭は互いに目を見合わせる。美蘭は急に柔らかい笑みを浮かべて、その問いに答える。
「私と趙炎の間には何もないわ。頬を叩いて、悪かったわね。謝罪するわ」
美蘭はそう言うものの、声に申し訳なさが含まれていない。口元にはどこかまだ勝利を確信しているような薄い笑みが残ったままだった。
雪華は無言のままシロを抱きかかえると、背を向けて、その場を静かに立ち去る。美蘭や趙炎に対する怒りが背中を押しているかのように、その足取りは早かった。だが去り際に顔だけ後ろを振り返った雪華は一言残す。
「次は虎に噛まれないとよいですね」
その警告に美蘭の顔が硬くなる。余裕は完全に消え去り、眉根を釣り上げるのだった。