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第四章 ~『蛇の絵』~


 騒動が一段落した翌朝、静けさが漂う後宮の庭園を抜けて、雪華(せっか)は画房へと向かう道を歩いていた。


 早朝の冷たい空気が肌に触れて、次第に頭が冴えていく。風で竹の葉が揺れる音が響く中、雪華(せっか)は不意に異様な気配を感じ取って足を止める。


 石畳の道の真ん中で、くねくねと動く細長い影が目に入る。その正体は蛇であり、朝露に濡れた体は、日の光を受けて輝いている。


(この蛇は邪蓮(じゃれん)様の……)


 占いの時に見た蛇で間違いない。雪華(せっか)は思わずしゃがみ込んで、近づいてみるが警戒する様子はない。するすると優雅に体をくねらせて、雪華(せっか)に愛敬を振りまいている。


(人懐っこい蛇ですね……)


 雪華(せっか)の口元が自然と緩む。以前は蛇に対して僅かな恐怖心があったが、こうして間近で見ることで、その印象は和らいでいった。


(触れても大丈夫そうですね……)


 指をそっと伸ばしてみると、蛇がゆっくりと絡みつくように触れてくる。ひんやりと冷たい感触が指先へと伝わった。


(爬虫類も悪くありませんね)


 心の中で呟きながら、蛇の背を軽くなぞると、細かい鱗の凹凸が心地よい感触を与えてくれる。


 しばらく戯れた後、名残惜しい気持ちを抱きながら蛇をそっと地面に戻す。蛇は一瞬、雪華(せっか)を惜しむように振り返ると、やがて庭の奥へと消えていく。


 その瞬間、まるでタイミングを合わせたかのように足音が近づいてくる。その足音の正体は邪蓮(じゃれん)だった。彼女は焦った様子で早足に蛇に近づくと、ほっと胸を撫で下ろしながら拾い上げた。


「やはり邪蓮(じゃれん)様の蛇でしたか」

「散歩中に迷子になったの……あなたが見つけてくれたのね。感謝するわ」


 普段の鋭さは影を潜め、どこか穏やかな響きのある声だった。


「たいしたことはしていませんから」

「それでもお礼を伝えたかったの。なにせ、この子は私の数少ない頼れる友人だから……」


 邪蓮(じゃれん)は場の空気が柔らかくなるような笑みを零す。愛おしげに蛇の背を撫でる様子から、本当に大切にしているのだと感じさせられた。


「ねぇ、改めて聞かせて。紫蘭(しらん)と仲違いする気はないの?」

「ありません……ただ聞かせてください。どうしてそこまで紫蘭(しらん)様を恨むのですか?」

「それは……」


 邪蓮(じゃれん)の瞳が揺れる。そして、少し息を吸い込むと、低い声で答えを吐き出す。


「私は紫蘭(しらん)に裏切られたの。だから私が経験した孤独をあの女にも味あわせたい。それが理由よ」


 その言葉には鋭さと同時に切ない響きも込められていた。雪華(せっか)は何も言わずに、その感情を静かに受け止める。


「じゃあね、忠告はしたから」


 最後にそれだけ言い残すと、邪蓮(じゃれん)は踵を返して、庭の奥へと歩き去っていく。その背中はどこか寂寥が漂っているように見えた。


 雪華(せっか)はしばらくその場に立ち尽くしていたが、意識を切り替えるように軽く息を吐き、画房へと向かう足を再び動かす。


 目的地に辿り着いた雪華(せっか)は扉を開けて中に入る。だがそこに紫蘭(しらん)の姿はなく、墨と紙の匂いだけが漂っていた。


紫蘭(しらん)様が不在とは珍しいですね……)


 いつもなら雪華(せっか)より早く画房に出勤し、筆を走らせている紫蘭(しらん)がいないことに違和感を覚える。


(風邪でも引いたのでしょうか……でもまぁ、考えても答えは出ませんね)


 雪華(せっか)は自分のやるべきことに意識を集中させる。作業台の前に座ると、白い紙を眼の前に広げて、筆を手に取る。


(描きたいものは既に決まっていますからね)


 雪華(せっか)が筆を動かすと、頭から尾にかけて流れるような曲線が描かれていく。墨の濃淡が光を受け、輝く鱗の質感が再現されていく。


 やがて完成した絵には、邪蓮(じゃれん)の飼っている蛇が描かれていた。愛らしくも、恐ろしい蛇の姿は人の目を引き付ける魅力があった。


「おや、これは見事だね」


 声に驚いて振り返ると、承徳(しょうとく)が立っていた。穏やかな微笑みを浮かべながら、感心したように頷いている。


承徳(しょうとく)様がどうしてこちらに?」

雪華(せっか)と会いたくてね。迷惑だったかな?」

「いえ、そんなことは……」


 紫蘭(しらん)も不在なため、第三者の存在が迷惑をかけることもない。歓迎するような笑みを返すと、承徳(しょうとく)は嬉しそうに頬を緩ませた。


「本当に、この絵は素晴らしいね。蛇が実に生き生きとしている」

「モデルになった蛇が愛らしかったおかげです」

「折角の名作だ。どこかに展示したりしないのかい?」

「飾れるなら飾りたいのですが……」


 努力の結晶を多くの人に見てもらいたい気持ちはある。それが、自信作であれば尚更だ。


 承徳(しょうとく)雪華(せっか)の表情を見て、少し考えるように顎に手をやる。


「それなら良い場所があるよ」

「良い場所ですか?」


 雪華(せっか)が不思議そうに訊ねると、承徳(しょうとく)は軽く手招きする。その仕草に促されて、雪華(せっか)は描いたばかりの蛇の絵を丁寧に巻き取ると、彼の背中を追いかけた。


 画房を出ると、朝の澄んだ空気が二人を迎えてくれる。庭園を通り抜ける道すがら、承徳(しょうとく)が歩調を緩めて、先程の質問に答えてくれる。


「これから向かうのは女官たちの暮らす宿舎だ」

「あれ? ですが、こちらですと、私の住んでいる宿舎とは逆方向ですが……」

「これから向かうのは、主に文書作成や記録管理を担う者たちが暮らしている宿舎だからね。雪華(せっか)の住む宿舎とは別なんだ」


 話を終えると、目的地が見えてくる。それは雪華(せっか)の暮らす宿舎よりも一回り小さいものの、白一色で塗られた壁は格式高い佇まいであった。


 石畳の道を進み、宿舎の扉を開けて、玄関へと辿り着く。濃い色合いの木材で作られた飾り棚は、足元の細部に至るまで繊細な装飾が施されている。その中央には暗い漆塗りで仕上げられた木枠が置かれていた。


「ここが雪華(せっか)に紹介したかった場所さ」

「ですが、ここは他の絵が飾られるのでは?」


 雪華(せっか)が困惑した表情で問いかけると、承徳(しょうとく)は肩をすくめて答える。


「実は急に絵の持ち主が貸出を断ったらしくてね。新しい絵を探していたところだったんだ」

「渡りに船ということですか……」

「ああ。君の蛇の絵なら、この場所にもふさわしい。きっとこの宿舎で暮らす女官たちも喜んでくれるはずさ」


 承徳(しょうとく)は一度言葉を切り、雪華(せっか)を見つめる。そして意を決したように、彼が心の中で抱いている想いを口にする。


「それにこれは雪華(せっか)にとっても名前を売る絶好のチャンスだ。ここに作品を飾れば、出入りする人たちが君の才能を目にすることになる。国で一番の画師になるための、大きな一歩になると思わないかい?」

「ですが、私の絵で許可を頂けるのでしょうか?」

「そこは安心して欲しい。宿舎を管理している静慧(せいけい)には、僕の方から話を通してあるから」

「ありがとうございます……でも、どうしてそこまでしてくれるのですか?」

「大切な友人だからさ。それに君の成功を見守るのは楽しいからね。私としても十分に満足させてもらっているよ」

承徳(しょうとく)様……」


 雪華(せっか)はしばらく黙ったまま、木枠を見つめる。自分が画師として成功するために後押ししてくれる人がいる。その事実が胸を熱くした。


「ここまで期待されて、応じないわけにはいきませんね」

雪華(せっか)ならそう答えてくれると思っていたよ」


 二人は穏やかに笑い合うと、水墨画を丁寧に広げて、飾り棚の木枠に収める。墨で表現された蛇はまるで生きているかのような迫力があり、木枠の装飾と見事に調和していた。


「うん、いいね。とても目を引くよ」

「場所が良いからですよ」

「それ以上に君の絵が魅力的だからさ」


 承徳(しょうとく)の言葉はお世辞ではない。それが伝わってくるからこそ、自然と笑みが溢れてしまう。


 だがその喜びに水を差すように、一人の女官が足音を鳴らして廊下を進んでくる。鋭い目つきと、頭の上でまとめられた髪型が印象的で、蛇の絵の前で立ち止まると、露骨に眉を釣り上げた。


「この絵を飾るつもりなの?」

「あなたは?」

「私は黒羽(くろは)。この宿舎に住んでいる女官よ。あなたは雪華(せっか)ね?」

「どうして、私のことを?」

「有名だもの。人気急上昇の画師として注目されているそうね。だけど……」


 黒羽(くろは)は蛇の絵を指差し、わざとらしくため息を吐く。


「私はあなたの絵が嫌いよ。この絵だって、不気味にしか見えないわ」


 まるで刃のように鋭い言葉に雪華(せっか)はたじろぐが、すぐに冷静さを取り戻して、正面から見つめ返す。


 二人の視線が交わり、火花を散らす。そんな時だ。宿舎の扉が開かれ、帰ってきた女官たちが、玄関に飾られた蛇の絵の前で続々と立ち止まった。


「すごい……」


 一人の女官が息をのむように感嘆の声を漏らすと、それに続くように他の女官たちも感想を口にする。


「こんな素敵な絵が飾られるなんて……」

「帰って来るのが楽しみになるわね」


 女官たちは目を輝かせながら絵に魅入られていた。その様子を横から見ていた承徳(しょうとく)が、得意げな表情を浮かべる。


「どうやら世間の評判は雪華(せっか)の味方のようだね」


 その言葉に、黒羽(くろは)は不機嫌そうに顔をしかめて、踵を返す。足音を響かせながら廊下の奥へ消えていく彼女の背中は悔しさが滲んでいたのだった。


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