第四章 ~『占房の落書き』~
邪蓮から不幸になると伝えられて数日が経過した。雪華は当初、その言葉に警戒心を抱いていた。だが問題が起きるどころか、仕事は順調そのもので、むしろ調子の良い日が続いていた。
「今日の絵も素晴らしい出来栄えね」
紫蘭が雪華の絵を覗き込むと、感嘆の声を漏らした。
「モデルのリア様が頑張ってくれたおかげです」
紙の上で表現されているのは旋回するカナリアの姿だった。羽ばたく翼が滑らかな線で生き生きと描かれている。
筆の運びも滑らかで、墨の濃淡が絵に深みを与えている。雪華は完成した絵を見ながら、満足げに微笑む。
「リア様、ありがとうございました」
旋回していたリアは役目を終えたと認識し、窓枠で羽を休める。そして雪華を一瞥すると、空へと飛び去っていった。
その姿を見送ると、雪華は画材を片付け始める。墨壺に蓋をし、使い終えた紙を束ねていく。
すべての作業を終えて、帰宅の準備が整ったところで、雪華はあることに気づく。
(予備の筆がない……)
眉をひそめて、机の上や周囲を改めて見回す。いつもならそこに置いてあるはずの筆が見当たらなかったのだ。
(予備なので、すぐに困るわけではありませんが……)
それほど高価なものではないが。手に馴染んだ筆は、ただの道具以上に愛着が湧いている。いくつもの作品を仕上げてきた相棒の喪失に落ち込まないはずがなかった。
「どうかしたの?」
雪華の異変に気づいたのか、紫蘭が声をかける。
「実は予備の筆が見当たらなくて」
「来る途中で落としたとか?」
「その可能性はあるかもしれませんね」
今朝、部屋を出る前までは確実に存在した。なら道中か画房か、そのどちらかに落ちているはずだ。
「画房の中は私が探してあげる。雪華は外を探してきなさいな」
「ありがとうございます。そうさせていただきます」
雪華は深く頭を下げると、足早に画房を後にする。宿舎から画房へ繋がる廊下を注意深く見回しながら歩き始めた。
夕陽が差し込む廊下には静寂が漂い、自分の足音だけが響く。床や壁際を念入りに確認しながら進むものの、筆は見当たらなかった。
(どこにもありませんね……)
探しても見つからない筆に焦りが広がっていく。
そんな時だ。廊下の先から人々のざわめきが聞こえてくる。声は次第に大きくなり、慌ただしい気配が伝わってくるのを感じ、雪華は嫌な予感を覚えた。
(何かあったのでしょうか……)
胸騒ぎを覚えて、ざわめきの方へ足を向ける。そこは後宮の占い師たちが働く職場――占房であり、その外壁に奇妙な落書きが残されていた。
「これは……」
雪華は目を見開く。壁に描かれていたのは大雑把な線で描かれた鳥であり、彼女が普段描く繊細な水墨画とは程遠い出来栄えだった。
雪華が呆然と眺めていると、集まってきた野次馬たちが、疑念を含んだ視線を彼女に集中させていく。
「これはもしかして雪華さんが……」
「でも、この絵はあまりにも……」
「嫌がらせ目的なら、敢えて下手に描いたのかも……」
心無い囁きの声が次第に大きくなっていく。やがて、その声を代表するように、野次馬たちの中から邪蓮が姿を現した。
「この筆、あなたのものかしら」
邪蓮の手には一本の筆が握られており、その顔には薄ら笑いが浮かんでいた。その筆の持ち手には所有者である雪華の名前が彫られており、間違いなく探していた予備の筆だった。
「私のものです。どうして、あなたが?」
「ここに落ちていたの」
「そんなはずは……」
雪華は絞り出すように答える。その声に含まれた動揺は隠しきれない。
それもそのはずで、雪華は占房の傍を通りがかっていないからだ。本当に筆がここで発見されたのだとすると、誰かが置いたことになる。
(でもなぜ……いえ、理由は考えるまでもありませんね)
野次馬のざわめきが大きくなり、雪華への疑いが強くなる。この状況こそが狙いだったのだ。
邪蓮は雪華の耳元まで近づくと、囁くように呟く。
「占ってあげたでしょう。紫蘭と仲良くすると不幸になると……」
「やはり、あなたが犯人でしたか」
邪蓮は肯定も否定もせずに、口元に薄笑いを浮かべながらクスクスと声を漏らす。その挑発的な態度に、雪華は思わず拳を握りしめる。
「聞いて下さい、私は犯人ではありません」
野次馬たちに呼びかけるように、雪華は声を張り上げる。まずは自分の無実を証明することが先決だった。
「根拠もあります。まず壁の絵は墨で描かれています。本当に落書きするなら、漆のような雨で落ちない塗料を使うはずです」
本当に悪意があるならそうするはずだ。そうしなかったのは、雪華の評判を落とすことが目的だったと続けると、その言葉には一定の説得力があったのか、野次馬たちは納得して小さく頷く。
「それに絵には筆跡が出ます。然るべき人が見れば、誰が描いた者かは一目瞭然。真犯人もきっと分かるはずです」
「こんな落書きくらいで、わざわざ筆跡の鑑定までするの?」
「邪蓮様はされると困るのですか?」
雪華の問いに、邪蓮はたじろぐ。その視線は落ち着きなく泳いでおり、口元はわずかに震えている。
真犯人は十中八九、彼女だ。だからこそ、この場を穏便に済ませたいという思いが表情に浮かんでいた。
「私も時間を無駄にするのは嫌いです。もし真犯人が名乗り出るなら、これ以上追求するつもりもありませんし、犯人扱いされたことも水に流しましょう。如何でしょうか?」
雪華の呼びかけに周囲のひそひそ声が、針の落ちる音すら聞こえそうな沈黙に変わる。全ての視線が邪蓮に集中する中、彼女は一瞬大きく息を吸い込むと、わざとらしい仕草で肩をすくめた。
「もしかしたら私がやったかも……朝、お酒を少し嗜んでいたの。酔って記憶が曖昧だから……その時、落書きしてしまったのかもしれないわね」
言い終えると、邪蓮は申し訳なさそうに眉を下げる。それが演技だと知っているからこそ、雪華は邪蓮の耳元に顔を近づける。
「これに懲りたら私を嵌めようするのは止めてください」
酔っていたにしろ、人に冤罪を着せようとしたのだ。この事件で邪蓮の評判は悪化するだろう。
邪蓮は顔を歪ませながら、唇を噛み締めると、小さな声で囁くように呪言を口にする。
「この恨みは必ず返すから……」
それだけ言い残して邪蓮はその場を後にする。その背中は屈辱で震えていたのだった。




