第四章 ~『筆にふさわしい人』~
午後の陽光が街を照らし、通りは活気が溢れている。雪華と承徳は並んで歩きながら、店舗街の和やかな空気を楽しんでいた。
やがて、雪華が足を止める。少し照れたように笑みを浮かべながら、承徳を見上げる。
「実は……寄りたい場所があるんです」
「どこに行きたいんだい?」
「私の行きつけのお店です。構いませんか?」
「もちろんだよ」
雪華は小さく微笑みながら、再び歩き出す。承徳も興味を引かれた様子で彼女の後に付いて行く。
しばらく歩くと、通りの一角にある小さな店が目に入る。
その外観は落ち着いた趣で、看板には『文房堂』の文字が丁寧に掘られている。通りを行き交う人々が、その店をちらりと覗き込む姿も見られた。
「ここが雪華の行きつけの店か……」
「では、ご案内しますね」
雪華が先導する形で店内に足を踏み入れると、墨の香りが鼻をくすぐる。
壁際に設置された棚には紙の束が積み上げられ、その隣には光沢を放つ硯や大小様々な大きさの筆が並べられている。
「ここの筆は使いやすい品が多いんですよ」
そう言うと、雪華は慣れた足取りで筆の並ぶ棚の前に立つ。筆先は滑らかに整えられており、光を受けて柔らかな輝きを放っている。
雪華はその内の一つの筆を手に取り、毛先をそっと指先でなぞる。毛の柔らかさを確かめる動きは丁寧で、まるで筆と対話しているかのようだった。
「筆にはいろんな種類があるんだね」
「はい。例えばこの筆は羊の毛で作られていて、その隣の筆はイタチの硬い毛が使われています。水墨画を描く時は、この筆の違いが重要なんです」
雪華は瞳を輝かせて、承徳に説明する。彼はその様子に微笑みながら、耳を傾ける。
「羊の毛を使った筆はとても柔らかいので、墨をたくさん含むことができます。背景の山や雲、ぼかしの表現にはぴったりなんです。逆に硬い毛の筆は、細かい線や輪郭を描くときに役立ちます」
「それぞれの筆の特徴を使い分けないといけないのか……画師の世界も奥が深いね」
その世界で雪華は一番を目指そうとしているのだ。夢を追いかける彼女に対して、改めて承徳は尊敬を抱く。
「これは……」
雪華の目が一本の筆の前で止まる。光沢のある竹軸と新雪のように白い毛先が輝きを放っていた。慎重に毛先を撫でて感触を確かめる。
「柔らかくも、しっかりと芯がありますね。墨の含みも良さそうですし、濃淡の調整も期待できそうです」
雪華の口元に満足げな笑みが浮かぶ。雪華がこれまで培ってきた経験からも良い品だと確信を持てた。
「これ、買おうと――」
「待て!」
雪華の声を遮るように、背後から足音が響く。振り返ると、粗野な風貌の男が彼女の指先を睨みつけていた。
「その筆、俺に寄越してもらおうか」
「なんですか、あなたは?」
「俺は画師、つまり絵で飯を食っているプロだ。下手くそがそんな良い筆を使ったところで宝の持ち腐れになるだけだからな。俺が使ってやるよ」
男は雪華を見下すような態度を取る。あまりに理不尽な要求に眉間に皺を寄せていると、彼は大きく胸を張る。
「納得できないようだな」
「当たり前です」
「なら聞いて驚け。俺は生まれ育った村の美術大会で優勝したことのある実力者だ。ただの素人とは実績が違う!」
自負が込められた言葉を、雪華は黙って受け流す。ただ承徳は違った。笑みを浮かべると、雪華を庇うように一歩前へ出る。
「凄い実績だね」
「そうだろうとも」
「でも、実績なら雪華が上かな。なにせ後宮に招かれるほどの画師だからね」
「こ、後宮……」
その一言が店内に響くと、男の表情が揺らぐ。そこに追撃を加えるように、承徳は言葉を重ねる。
「そして、雪華の絵は、あの壁に飾られているものだ」
承徳が指差す先には、見事な水墨画が展示されていた。墨の濃淡を巧みに使い分け、繊細に描かれた犬の絵は吸い込まれるような魅力があり、雪華の画風が反映されていた。
「あの絵を……このお嬢ちゃんが……」
「店に頼まれて、未熟だった頃の私が描いた作品ですね」
「あ、あれが未熟……」
実力差を痛感したのか、先ほどまでの自信を失い、手を震わせる。そして「悪かった……」と小さい声で呟くと、振り返りもせずに店を飛び出していった。
「案外、素直だったね」
「絵を描くことに誇りを持っているようでしたから。実力差はきちんと認めるのでしょうね」
誰しも自分が得意なことに嘘は吐きたくない。彼もまた画師として生計を立てているからこそ、雪華の能力を認めざるを得なかったのだ。
「庇っていただいて、ご迷惑をおかけしましたね」
「私がしたくてしたことだ。気にしないで欲しい」
その言葉に雪華の心は少しだけ軽くなるが、同時に別の思いも浮かんでいた。
(いつも助けられてばかりですし、何かお礼がしたいですね)
自分にできる恩返しとして、真っ先に思い浮かんだのは画師としての技術で感謝を形にすることだ。
雪華は視線を巡らせて、商品を棚に並べる店主の姿を見つける。駆け寄ると、そっと声をかける。
「すみません、お願いがあるのですが……」
「おや、雪華さん。どうかされましたか?」
「絵を描きたいのですが、道具を貸して頂けませんか?」
「雪華さんはこの店のお得意様ですから。それくらい、お安い御用です」
快諾してくれた店主は、店の奥へと雪華たちを案内する。その背中に付いていき、扉を開けると、そこは小さな画房が広がっていた。
窓から差し込む光が硯や筆を優しく照らしている。壁には拙いながらも情熱を感じさせる水墨画が飾られていた。
「ここは私の趣味の空間ですから。他のお客も来ません。雪華さんの思う存分、使ってください」
「ありがとうございます」
雪華は去っていく店主に深く頭を下げて、感謝を伝える。
画房にはすでに必要な道具が揃っていた。雪華は作業台の前に座り、用意された上質な紙を広げて、筆に墨を含ませる。
承徳は雪華がこれから何をしようとしているのかを察して、少し離れた場所に置かれた椅子に腰掛けた。
「承徳様、少しだけ動かないでくださいね」
「雪華の邪魔をしないように頑張るよ」
「ふふ、お願いします」
雪華が承徳を見据えると、彼は目を閉じることなく姿勢を正す。
(さすが承徳様ですね)
筆が紙の上に触れると、静かな音が画房に響く。墨の濃淡を巧みに操りながら、徐々に承徳の輪郭を作り上げていく。
彼の穏やかで凛とした雰囲気が一筆ごとに表現されていく。雪華はときおり承徳を見上げて、その姿を心に焼き付けるように集中していた。
「承徳様は容姿が整っていますから。とても描きやすいです」
「他の人から聞き慣れた称賛も、雪華に言われたら悪い気はしないね」
承徳の軽口に雪華は微笑みを返す。再び集中を取り戻し、彼の姿を丁寧に描き進めていく。
やがて雪華は静かに筆を置いた。紙の上には承徳の優しくも堂々とした姿が見事に表現されていた。
「完成しました。こちら、私からのお礼の品です。受け取ってください」
服の贈り物や絡まれていた時に庇ってもらった恩と比べると劣るかもしれない。だが雪華なりの精一杯の感謝を込めたつもりだ。
承徳はその絵を受け取ると、目を釘付けにする。じっと見つめたまま、言葉を失っていた。
「素晴らしい……さすがは後宮に招かれるほどの才能だ。この絵は大切にするよ。本当にありがとう」
承徳は感謝の笑みを浮かべる。その表情を見られただけで描いた甲斐があったと、雪華も頬を緩ませるのだった。




