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第一章 ~『後宮での日常』~


 雪華(せっか)は約束通り、毎週のように戦地へと手紙を送った。趙炎(ちょうえん)からも返事があり、離れていても二人の愛は深まっていく。そう信じられるほどに充実した時間を過ごした。


 だがある日を境に、趙炎(ちょうえん)からの返信の頻度が落ちる。最初は、たまたま手紙が遅れているだけだと自分に言い聞かせた。


 だが手紙の届かない日々はしばらく続く。趙炎(ちょうえん)は面倒事を嫌うタイプなので、手紙を書くのが億劫になったのかもしれない。はたまた、仕事が多忙になり、手紙を書けない状況なのかもと納得しようとした。


 一ヶ月。返信が届かなくなったことで、もしかすると趙炎(ちょうえん)の身に何か起きたのかもしれないと心配になった雪華(せっか)は、現地の彼の様子を確認するために遣いを送る。無事でいて欲しい。その願いは最悪の形で裏切られた。


 趙炎(ちょうえん)は浮気していたのだ。手紙が届かなくなったのも、新しい女に夢中になっていたからだった。


 雪華(せっか)の不安が現実のものとなり、冷たい怒りが胸の中でじわりと広がる。趙炎(ちょうえん)に裏切られたと知った以上、愛想も完全に尽きてしまった。


 離縁しよう。そう決めた雪華(せっか)は、彼が返ってくる予定の一年が過ぎるのを待った。


 ただ何もしないと負の感情は蓄積されていくばかりだ。雪華(せっか)はすべてを忘れるために趣味の水墨画(すいぼくが)に勤しんだ。


 墨をすくい、軽く筆を動かすたびに、細い線が美しく広がる。特に動物の絵が得意で、墨の濃淡を絶妙に使い分けられた生き物たちは、まるで生きているかのような躍動感を放っていた。


 浮気への怒りの爆発が芸術の才能を開花させたのである。その能力はやがて、後宮に招かれるほどに評価されるようになった。


 後宮には皇族だけでなく、多くの人が暮らしている。威圧的な宦官から優しく穏やかな女官まで千差万別だ。そんな中でも、特に雪華(せっか)に親切にしてくれたのが先代皇帝の妃であり、太妃(たいひ)の立場にある妲己(だっき)だった。


 妲己(だっき)は後宮の一角にある太妃(たいひ)宮で静かに暮らしており、雪華(せっか)を頻繁に呼び出しては、彼女の絵を求めた。


 交流を重ねていく内に二人は絆を深め、まるで親友のような関係へと発展する。妲己(だっき)との時間が生き甲斐となった雪華(せっか)は、今日も後宮に顔を出し、筆を手に取っていた。


妲己(だっき)様はいつ見ても美しいですね)


 目に映った妲己(だっき)の姿に思わず心を奪われる。この世のものとは思えないほどの美しさを放っており、透き通るような白い肌は滑らかで、上品な紅の唇は微笑を浮かべるたびに華が咲いたようだった。


 先代皇帝が妲己(だっき)を寵愛した理由が一目で理解できる。それほどの美貌だった。


 事実、妲己(だっき)の部屋には、先代皇帝からの贈り物が多数残されている。象牙の彫刻に、青白磁の花瓶、折りたたまれた絹織物は愛の証だった。


「綺麗に描けているかしら?」

「モデルが素敵ですから」

「お世辞でも雪華(せっか)に褒められて悪い気はしないわね」


 寝台の上に腰掛ける妲己(だっき)を、雪華(せっか)は紙の上に表現していく。指先が繊細に筆を操り、墨が濃淡をつけることで、絵に生命を吹き込んでいく。


 やがて雪華(せっか)は筆をそっと置き、完成した絵をじっと見つめる。中央にはモデルである妲己(だっき)と共に、一羽の小鳥が描かれている。


 乾いた墨がモフモフとした柔らかい印象を捉えていた。雪華(せっか)は自らの作品に満足し、そっと絵を持ち上げると、妲己(だっき)に見せる。


「わぁ~、やっぱり雪華(せっか)の絵は素敵ね」

「私の中でも、この絵はよく出来た方だと思います。モデルの妲己(だっき)様とリア様が頑張ってくれたおかげですね」


 カナリアのリア、雪華(せっか)が飼っている小鳥であり、大切な家族の一員でもある。その美しい鳴き声を妲己(だっき)も気に入り、絵のモデルになる時は一緒になることが多かった。


「この子、本当に大人しいわね」

「優しい子ですから。それにジッとしているようにと約束もしてありますので……」

「動物と意思の疎通ができるのよね。本当に便利な特技ね」

「おかげで動物たちと友人になれるので重宝しています」


 動物の鳴き声にはそれぞれ特徴がある。その微妙な差異を感じ取り、相手の伝えたいことが何かを手に取るように感じ取れるのが雪華(せっか)の特技だった。


 この特技を知る者はほとんどいない。隠しているわけではないが、その数少ない相手が妲己(だっき)であり、本当に心を開いた親友の証でもあった。


「この絵は飾っておくわね」


 妲己(だっき)は完成したばかりの絵を慎重に手に取ると、ゆっくりと立ち上がる。壁には既に幾つかの名画が並んでおり、その空いたスペースに雪華(せっか)水墨画(すいぼくが)を飾る。窓から差し込む陽光に優しく照らされる場所だった。


「ここがいいわね」

「そんな目立つ場所で構わないのですか?」

雪華(せっか)の絵にはそれだけの価値があるのよ」

「ですが、その隣の絵の迫力と比べると……」


 雪華(せっか)の視線の先には、伝説の怪物である九尾の狐が描かれた一枚が飾られている。威厳に満ちた狐は九本の尻尾を左右に広げ、見る者に本当に風を切っているかのような迫力を感じさせた。


雪華(せっか)の絵は繊細さが売りだもの。伝説上の怪物を描いた作品とは魅力が異なるだけで、あなたも負けてないわ」


 妲己(だっき)は褒めてくれるが、雪華(せっか)自身、まだ隣の絵には力が及ばないと実力差を痛感していた。拳をギュッと握りしめ、改めて絵を見据える。


「この絵を見ていると、九尾の狐が実在したように思えてきますね」

「もし本当にいたら怖い?」

「いえ、恐くはありません。伝承だと、この国を他国の侵攻から守ってくれたそうですから……それに、私はどんな大きい狐でも相手が動物であれば仲良くなれる自信がありますので」


 九尾の狐とはいえ、話しさえすれば心が通じ合えるはずだと、雪華(せっか)は信じている。妲己(だっき)雪華(せっか)のそういう純粋さを好ましく感じたのか、朗らかに微笑む。


「こんな良い娘を裏切るなんて、趙炎(ちょうえん)は本当に馬鹿な男よね……あ、そういえば、そろそろ彼が戦地に行ってから一年経つわね。屋敷にはいつ戻って来るの?」

「明日には帰るとの手紙がありました」

「それは楽しみね。どう対処するかは決まっているのよね?」

「はい。浮気の罪を償わせるつもりです」


 裏切りを許容するほど、雪華(せっか)は甘くない。泣いて謝られたとしても冷徹さを貫くつもりだった。


「離縁するの?」

「そのつもりです。ただ簡単にはいかないでしょうね。なにせ証拠がありませんから」


 浮気の調査は小鳥のリアにお願いしており、動物の証言では証拠にならない。裏切りを証明するには、確固たる証拠を突きつける必要があった。


雪華(せっか)のことだもの。手は考えているのでしょう」

「色々と策を講じるつもりです」

「さすが私の親友。報復の結末がどうなるか見物(みもの)ね」


 楽しみにしていると妲己(だっき)は微笑む。その瞳には期待と信頼が滲んでいたのだった。



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