第三章 ~『彫師と画師の対立』~
雪華は持ち込んだ荷物を、ひとつひとつ丁寧に片付けていく。部屋の隅に置かれた収納棚に筆や墨などの画材を仕舞うたびに、この部屋が少しずつ自分の居場所になっていくような感覚を抱く。
荷物が少ない分、片付けはすぐに終わる。少しの休息をとると、次は画房に向かうために静かに立ち上がった。
画師としての役目が始まることに胸の高鳴りを感じながら、雪華は画房へと足を向ける。
回廊を進み、長い廊下を幾つも越えた先に、画房の入り口が見えてきた。雪華は深呼吸をしてから、重厚な木製の扉に手をかける。
「失礼します」
ゆっくり押し開け、画房に足を踏み入れる。精緻な木彫りの装飾が施された高い天井と柔らかな自然光に包まれた空間が出迎えてくれる。
壁には数々の水墨画が掛けられており、牡丹の華を繊細に描き出した花鳥画や女官たちの姿を写した肖像画など、どの絵にも気品が漂っていた。
(素敵な絵ですね)
雪華が飾られた絵に魅入られていると、ふいに背後から柔らかな声が響く。
「この絵に興味があるの?」
振り返ると、そこには自分と同じ年頃の小柄な女性が立っていた。丸みを帯びた輪郭に、艶やかな黒髪が肩にかかるように整えられている。
淡い紫の上着には銀糸で精緻な刺繍が施されており、その色合いが透明感のある白い肌を映えさせていた。
「あなたは?」
「同僚になる紫蘭よ。この絵を描いた画師でもあるわ」
その言葉に雪華が驚きの表情を浮かべると、紫蘭は優しく笑みを浮かべる。
「私たちは仲間であると同時にライバルでもあるわ。これからは切磋琢磨し合って、互いを高めていきましょう」
「ライバルなんてそんな……まだまだ私は未熟者ですから。勉強させてもらいます」
雪華は率直な気持ちを口にしたが、紫蘭は軽く肩をすくめる。
「謙遜しなくてもいいわ。画師として後宮に採用された時点で、凡夫でないことは保証されているもの」
「本当に私は……」
雪華は謙遜の言葉を重ねるが、それに対して、紫蘭は手をパンと叩く。
「そうだわ、あなたの実力を見せてくれないかしら」
紫蘭の視線の先には作業台が据えられており、側に置かれた丸机には筆や墨が揃えられている。
絵を描いて欲しいと望まれていると知り、雪華は作業台の前に設置された椅子に腰掛ける。すると、それに呼応するように、窓の外からカナリアが舞い込み、華麗な羽ばたきで雪華の肩に軽やかに止まる。
「その子鳥は?」
「私の家族のリア様です」
雪華がリアを優しく撫でると、嬉しそうにくちばしを軽く開けて、雪華の指と戯れる。その仕草から雪華とリアの深い絆が垣間見えた。
「ではリア様の絵を描かせていただきますね」
雪華は深呼吸をすると、それに合わせるようにリアが目の前の机の上へと移動する。モデルとなってくれたリアに感謝しながら、静かに筆を走らせていく。
繊細な羽毛の質感、柔らかに見える翼の形、そして愛らしい瞳の輝きを一心に描き出していく。
筆が動くたびに、リアの姿が紙の上に浮かび上がっていく。微細な陰影が施され、軽やかな美しさと生命力が見事に表現されていた。
紫蘭は目を見開き、言葉を失ったようにその絵に魅入られる。表情には感嘆が浮かんでいた。
「これほどの才能とはね……礼房に飾られている馬の絵もあなたが描いたものね?」
「ご覧になられたのですね」
「あれほどの傑作だもの。まさかあの絵を描いた天才画師とライバルになるとは思わなかったけどね」
紫蘭は一呼吸置くと、雪華に向かって手を差し伸べる。
「これから一緒に腕を磨いていきましょうね」
「はい、よろしくお願いします」
雪華はその手をしっかりと握り返し、目を輝かせる。切磋琢磨できる環境は成長の起爆剤となる。これからの画師としての生活に期待していると、急に画房の扉が開かれる。
「失礼するわね」
冷たい声と共に入室してきたのは、鋭い眼差しをした一人の女性だった。不敵な笑みを浮かべる表情には、傲慢さが垣間見えた。
体格は華奢だが、佇まいに威圧感がある。纏ったその暗い衣装は、冷徹な性格が映し出されているかのようだった。
「相変わらず辛気臭いところね」
「あなたは?」
「私は玲瓏。彫師よ」
雪華が問うと、玲瓏と名乗った女性は鼻を鳴らす。その声には棘が混ざっており、言葉の節々に軽蔑が滲み出ていた。
「雪華、あまり構わない方が良いわよ。面倒な性格の持ち主だから」
「聞こえているわよ、紫蘭!」
「ついでに地獄耳。だからいつも苦労させられているの」
紫蘭は肩をすくめて、うんざりとした口調で返す。その声も聞こえていたのか、玲瓏の眼光がより鋭さを増した。
「まぁいいわ。今日の用件は紫蘭じゃないもの」
「なら何しに来たのよ?」
「新人が配属されたと聞いたから、顔を見に来てやったのよ」
玲瓏は雪華を値踏みするように上から下まで視線を移動させる。その眼差しには軽蔑の色が混ざり、口元には冷笑が浮かんでいた。
「やっぱり画師の新人なだけあって冴えないわね。改めて彫師の方が優れていると実感できたわ」
「随分な自信ですね」
「紙に描いた絵は脆いもの。でも彫刻は違うわ。石や木に刻まれたものは永遠に残る。皇族の偉大さを後世に伝えていくのに彫刻は最も適しているの!」
玲瓏の饒舌は止まらない。一歩雪華に近づくと、視線をぶつける。
「さらに私たち彫師は、彫刻のような鑑賞品以外にも、食器を始めとした生活用品にも美を施してきたわ。絵しか描けない画師とは違う。私たちこそが本物の芸術家よ」
玲瓏の辛辣な言葉に、雪華の胸にじわりと怒りが湧き上がる。だが決して感情的にはならずに、心を静めながら玲瓏をまっすぐ見返すと、静かな声で応じた。
「確かに彫師の仕事は素晴らしいです。ただ絵にも価値はありますよ」
玲瓏は一瞬、面食らったように目を細めて、唇を微かに動かす。だがすぐに驚きは冷笑に変わる。
「彫刻に勝っている部分があるとでも?」
「絵は墨の濃淡で動きを表現しやすいですから。風が草木を揺らす瞬間や動物たちの動きをより細かく再現できるのは長所だと考えています」
雪華の説明に反論できないからか、玲瓏は黙り込む。そのまま追撃を加えるように、彼女は言葉を重ねる。
「その長所は私を招いてくれた太妃の妲己様も理解されているはずです。でなければ、画師を採用するはずがありませんから」
「うぐっ……で、でも……」
玲瓏は反論したくても反論できない。画師の役割を否定するのは、採用した皇族の決断を軽んじることに繋がるからだ。
「発言が誤っていたと認めて頂けますね?」
雪華は柔らかな微笑を浮かべて問いかけると、玲瓏は悔しげに口元を強く引き結ぶ。
「わ、私はあなたを許さないから!」
吐き捨てるように叫ぶと、玲瓏は苛立たしげに身を翻して、足早に画房を後にした。足音は廊下からでも響き渡り、そのたびに床を力強く踏みしめるような音が続く。
玲瓏が去り、部屋に静寂が戻ると、紫蘭がにこやかに笑いながら、雪華の方に顔を向ける。
「やり返してくれ、ありがとう。スカッとしたわ!」
「私も黙ってばかりはいられませんでしたから」
「あなたとなら上手くやっていけそうね」
「同感です」
紫蘭は親しげに雪華の肩を叩く。二人の間には信頼が生まれ、心が弾むのだった。