第二章 ~『家族と相談』~
後宮を後にした雪華は、馬車に乗り込んで屋敷への帰路についた。車体がゆっくりと揺れながら進むたびに、長い一日の疲れが少しずつ体に染み込んでいくのを感じる。
後宮での出来事や、これからの決意を胸に秘めながら、雪華は静かに目を閉じて、ゆったりとした揺れに身を委ねる。
外は少し薄暗くなり、夕方の涼しい風が車窓から吹き込んでくる。流れてくる風景を楽しみながら、しばらくすると馬車が屋敷の前で止まった。
庭を超えて屋敷の中に足を踏み入れると、働く使用人たちが一礼をくれる。雪華も頭を下げて、彼らの邪魔をしないように談話室へ向かうと、そこには華凌と李明の姿があった。
二人は雪華の帰宅を待っていたようで、出迎えるように笑みを浮かべる。
「お帰り、姉さん」
「待たせてしまいましたね」
「僕たちが勝手に待っていただけさ。姉さんが気にすることはない」
華凌が椅子を引いてくれる。勧められるがまま腰掛けると、長机の上に茶器が置かれていることに気づく。
「茶を淹れたから、少し休むといい」
李明が杯に茶を注ぎ、手渡してくれる。そっと一口飲んでみると、ほのかな甘みと温かさが体に広がっていく。
「私は幸せ者ですね……」
周りの人に愛されていると実感する。だからこそ、彼らと離れ、正式な女官として働くことに寂寥を覚えるが、覚悟に揺らぎはなかった。雪華は二人をまっすぐに見据える。
「大切な話があります」
華凌と李明は、雪華の真剣な表情から何か特別な話があることを感じ取り、静かに彼女の言葉に耳を傾ける。
「実は妲己様に、正式な女官にならないかと誘われました。後宮内に画房も用意してくれるそうです」
「つまり住み込みで働くと?」
華凌が不安げに訊ねると、雪華は首を縦に振る。
「たまに屋敷には顔を出すつもりでいますが基本的にはそうなります。離れ離れになりますが、私は画師として生きていく道を選びたい。そう決心したんです」
雪華の言葉が談話室に響き渡る。後宮で画師としての技術を磨き、大成するためには、正式な女官として働くことが最善の道だ。
雪華の決意に満ちた瞳が、二人の胸に深く刺さる。彼女が自分の夢に向かって新しい一歩を踏み出そうとしている覚悟の重さを感じ取って息をのむ。
二人はしばらく沈黙する。その後、最初に口を開いたのは李明だった。
「僕は賛成だ。君が画師として成長したいなら、進むべき道だと思う」
「李明様……」
「それにね、今までの君は家のためにずいぶんと多くのことを我慢してきた。これくらいの我儘は許されるさ。むしろ、雪華が受け取るべき当然のご褒美だと思えばいい」
李明の励ましに、雪華は胸の奥が温かくなるのを感じる。自分の決意を受け入れ、応援してくれる彼は心強い存在だった。
一方で華凌の表情には複雑な感情が浮かんでいた。唇を噛み、微かに視線を落としている。姉であり、心から尊敬する雪華が後宮へと旅立つことに、どうしても寂しさを拭い去れなかったのだ。
「華凌はどう思いますか?」
雪華が静かに訊ねると、華凌はしばらく考え込み、ため息をつきながら顔を上げた。その瞳には苦悩が映りつつも、姉の夢を応援したいという思いも宿っていた。
「僕は……」
華凌は言葉を詰まらせ、再び口を開く。そんな時である。
使用人たちの騒ぐ声と重なるように、地響きのような足音が鳴る。廊下から伝わってくる足音は徐々に近づき、やがて呂晃が姿を現した。眉を吊り上げた表情からは激しい怒りが感じられた。
「ここにいやがったか!」
「……どうして、あなたが?」
雪華は驚きを隠しきれず、眉をひそめながら問うが、呂晃は無視して怒りを込めた声で言い放つ。
「俺が結婚してやると伝えてあったのに、勝手に領主を決めるとはどういうつもりだ!」
呂晃は自分が領主にふさわしいと信じて疑わず、まるで当然の権利を奪われたかのように憤慨していた。
「領主は弟が引き受けてくれましたから。もう私が無理に結婚する理由もなくなったんです」
「今からでも撤回しろ。俺が領主をやってやる!」
あまりの横暴さに雪華は呆れ果てる。そんな彼女に詰め寄ろうとする呂晃の前に、華凌が立ちはだかる。
「なんだ、お前は?」
「僕が領主の華凌だ。不満があるなら姉さんではなく、僕に言え」
華凌の声には揺るぎない自信が込められていた。だが、呂晃は彼を嘲笑するように、口元を歪める。
「聞いたぞ。記憶を失くしていたんだってな。長年、姉に迷惑をかけてきたくせに、どの面下げて戻ってきたんだ?」
呂晃の侮蔑に華凌の表情は硬くなる。だが彼は目を逸らさず、毅然とした態度を貫く。
「僕はたしかに迷惑をかけた。だがそれはあなたと関係ないはずだ」
「関係ならある。俺は雪華と結ばれて、領主になる予定だったんだからな……今からでも遅くはない。無責任さを恥じるなら、潔く辞退して、俺に領主の椅子を明け渡せ。そうすれば領地を守ってやるし、ついでに、貴様の姉も俺が貰ってやるよ」
呂晃は侮辱を口にする。その言葉に華凌が反論するよりも先に、雪華が反応する。
「私の弟を馬鹿にしないでください。華凌はあなたよりも遥かに優秀なんですから!」
「何を根拠に……」
「少なくとも、屋敷の皆さんは華凌を支持していますよ」
いつの間にか談話室には騒ぎを聞きつけた使用人たちが集まっていた。彼らは呂晃に対して非難するような視線を向けており、皆が華凌の味方だった。その雰囲気に背中を押されたように、華凌は毅然とした態度で呂晃を見据える。
「これ以上、姉さんにつきまとうなら、僕が許さない」
その威厳ある宣言に呂晃は後退る。戦場を経験してきた華凌の威圧感に呑まれたというのもあるだろう。
その迫力に思わず目を逸らすと、呂晃は動揺しながら唇を震わせて背を向ける。
「お、覚えていろよ!」
捨て台詞を残して、呂晃は乱暴な足取りで去っていく。その背中が見えなくなり、屋敷が静けさを取り戻すと、華凌は雪華と向き合う。
「僕も姉さんが正式な女官として生きることを認めるよ」
「よいのですか?」
「姉さんの自由を奪ったら、あの男と変わらないからね……でも、どうかたまには帰ってきて欲しい。やっぱり寂しいからね」
華凌は少し視線をそらしながら、照れくさそうに言葉を続ける。その不器用な反応に、雪華は思わず微笑んだ。
「もちろんです。私も帰りたい時は必ず戻ってきます。いつでも出迎えてくれる人たちがいるのですから」
華凌は安堵したように微笑む。雪華は家族のためにも画師としての夢を叶えてみせると、強い決意を抱くのだった。